古川 薫 花冠の志士 小説久坂玄瑞 目 次  第一章 詩心漂泊  第二章 憂国の賦  第三章 志士有情  第四章 砲煙に佇つ [#改ページ]  第一章 詩心漂泊   癸丑の夏  秀三郎が生まれた当時、久坂一家は長州萩城下の平安古《ひやこ》にいた。八軒長屋の奥で、しかも支藩清末侯の家来山根某との寄合所帯である。  その長屋というのは、現在も萩市の明倫小学校(藩校明倫館跡)から一キロばかり国道を玉江橋側に寄った、平安古公会堂の近くに、一部を遺している。  老朽化したこの棟割長屋の大部分は取り壊され、久坂家の人々が住んでいたところは、空地になって、そこにかれの誕生地の碑が建てられている。  棟続きの二軒だけが、昔のままで、端の家は、お好み焼きなどの小さな飲食店である。窓枠の壊れた中二階に、もはや人は住んでいない様子だが、二、三百年来の埃《ほこり》にまみれた屋根瓦は、さすが武家の住家らしくいかめしい感じの頑丈な造りを今にうかがわせる。──  父の久坂|良廸《りようてき》は、萩藩寺社組に属する医師であった。譜代とはいえ、家禄わずか二十五俵。借家を転々とするほどの貧しい身分である。  普通、藩医は町で開業することを許されており、その気になれば禄以上の収入も得られたはずだが良廸はそれをやっていない。秀三郎は、そんな久坂家のどん底時代に産声をあげたのである。  良廸夫妻は、男の子三人をもうけた。長男の玄機《げんき》は、三男の秀三郎より二十も年上で、この兄弟は、親子ほども齢が離れている。二男は早世した。  玄機は、父の業を継いで医師になったが、学者肌の男で、藩の医学校である好生館の蘭学教授をつとめた。医師としても一風変ったこの人物については、あとで少し述べることになる。  秀三郎もまた父や兄に続いて医師になるべく、幼児から教育されてきた。城下の私塾で素読を受け、やがて好生館に入学した。予科生のあいだは儒学を教えこまれるので、兄玄機が担当する蘭学を聴講するまでには至っていない。  浦賀沖に黒船があらわれたという報を、秀三郎が好生館の同輩たちと共に聞いたのは、嘉永六年(一八五三)六月二十日であった。江戸在府中の藩主敬親(慶親)が、幕命による大森海岸警備を応援する藩士の東上を国許に命じてきたからである。  嘉永六年の干支《えと》は癸丑《きちゆう》である。和訓では、ミズノトウシと読む。  その年六月三日、米国東インド艦隊司令長官マッシュー・カルブレイス・ペリーが、和親通商を求める大統領フィルモアの親書をたずさえ、軍艦四隻を率いて、相模湾に侵入してきた。「癸丑の夏」とは、いうまでもなくその黒船来航をさしている。  ──癸丑以来。  当時の人々は、口癖のように、そうもいった。つまりこれを起点として、日本国が新しい時間を刻みはじめた情況を、よくあらわしている。それはまた、多くの人間にとっても、みずからの運命的な出発をうながされるときであった。たとえば相模から遠く離れたこの長門国の萩城下に住む久坂家にとってさえ、痛ましい記憶の翳《かげ》りをとどめる事件だったのである。 「急使は、江戸から萩まで十六日間で駆けつけたそうじゃ」  そのような噂《うわさ》も耳に入る。  ただならぬ城下の動きも、十四歳の秀三郎には、まだ遠いざわめきとしか映らなかったのだ。むしろかれにとっての痛切な衝撃は、それから二カ月後、突然襲ってくる。  八月四日、秀三郎の母富子が死んだ。  物心ついたころ、富子はすでに初老に達していたので、秀三郎は若い母の姿を見る機会にめぐまれなかった。しかし、鼻筋のよく通った母親の美貌を、秀三郎は譲ってもらっている。  富子は、阿武郡|生雲《いくも》村の大谷忠左衛門の娘である。忠左衛門は大庄屋であり、医を業としていたので、かなり裕福だったが、身分は百姓なので、富子が良廸のもとに嫁ぐときは、藩士中井氏を仮親とした。  良廸は、妻の実家に援助を乞うことを、いさぎよしとしない男である。それでも玄機や秀三郎の教育にかかる費用など、富子は夫にかくれて、父親から借り出してきた。  富子は、寡黙な女であった。 「何か言い遺すことがあるか」  臨終の床で、良廸が病み疲れた妻の脈をとりながら尋ねたが、かすかな笑みを泛《うか》ベ、 「秀三郎を……」  とひとこと洩らしただけである。ひそやかな深みを帯びた母の愛を、今さらのようにかみしめ、秀三郎は肉親の死がもたらす激しい悲しみを知った。その同じ悲しみを、ひきつづいて味わおうとは、むろん夢にも思わないことだった。  安政元年(一八五四)一月、再びペリー艦隊がやってきた。軍艦の数も七隻となり、二月には二隻を加え、こんどは江戸湾に侵入して、開国をせまるのである。  江戸の黒船騒ぎは、本州最西端の辺地ともいうべき長州藩を直撃した。大森海岸警備から、相州警衛という大任を幕府から命じられたこの藩にとって、ペリー再来は、実に身近な事件となった。  藩主は、好生館蘭学教授の久坂玄機に、海防に対する献策を命じた。玄機は、かつて大坂の適塾に学び塾頭までつとめた逸材で、それまでに長短数十冊にのぼる蘭書を翻訳していた。その中には当然、医学書がある。とくに種痘《しゆとう》に関するものがふくまれ、玄機は積極的に「引痘」の必要をとなえた。  早くから長州領内でも、数年ごとの周期で天然痘が流行し、多くの死者を出した。助かっても顔に醜い痕《あと》をのこすいまわしい伝染病である。やがて秀三郎の盟友となる高杉晋作も、十歳のときこれに感染し、ひどいアバタ面となった。  長州藩がはじめて種痘を実施したのは、他藩にくらべ割に早い時期の嘉永二年(一八四九)だが、それも久坂玄機や青木研蔵ら西洋医学を志す藩医の努力によるものだった。そのころ玄機は、ジェンナーの種痘を紹介するオランダ医書を翻訳した『治痘新局』を著《あら》わしている。  玄機の訳した蘭書は、しかし医学より軍事に関する書物が多い。 「新撰海外方砲術論」十一冊 「演砲法律(砲術操典)」七冊  などがその代表的なものである。  幕末、西洋医学を身につけようとする者は、オランダ語を修得して、しきりに原書をあさった。その語学力を洋式兵制の導入にむけ、時代の要求に応えようとする医者も少なくなかった。久坂玄機もその一人である。海防策の立案を命じられたとき折悪しくかれは病床にいた。  玄機は、その病を押して、海防献策の執筆にとりかかったのである。 「この日のためにこそ」  という気持が、あったのだろう。自分の出番がまわってきたとする気負いもはたらいたにちがいない。  同じころ領内の周防《すおう》玖珂郡|遠崎《とおざき》に、月性《げつしよう》という僧がいた。魁偉《かいい》なその容貌にふさわしい豪毅の人物である。 「男児志ヲ立テテ郷関ヲ出ヅ……」  有名な男児立志詩の作者で、真宗妙円寺の住職だが、本願寺東山別院に招かれるほどの名僧でもあった。酒を好み、詩を善くしたが、尊王の大義を説き、憂国の志士として全国を巡歴し、ペリー来航以前から、海防をとなえた。「海防僧」などとも呼ばれている。  久坂玄機は、この月性と早くから親交をもった。二人はどことなく似たところがあって、気が合うのか、一緒に旅をしたこともある。  似たところといえば、やはり変り者という点であろう。大男の玄機は、医師らしくもなく、並はずれた長い刀を腰に差した。わざわざ打たせた業物である。藩医である玄機は、頭を丸めている。大入道が長刀をはいているので、旅先でよく人から尋ねられたという。 「あなたは何をする人です。撃剣の先生ですか。えらく長い刀ですな」 「これか、人を活かす剣である」  などと答えて、大笑いするのだが、酒の席ともなれば、それを引き抜いて剣舞をやったりする。  月性も酒を飲むと賑《にぎ》やかなほうで、たいていの場合、かれが玄機の刀を奪って踊るのを例とした。現在、妙円寺に遺されている月性の肖像画を見ると、法衣をまとった髭面の僧が、長い刀をかざして踊る姿が描かれている。おそらくは玄機の刀であろう。とにかく月性と玄機が一緒にいると互いに昂揚して、何をしでかすかわからないと、周囲をはらはらさせたものだった。  このような逸話からすると、玄機は医師でありながら、武士の世界に傾斜していたことがわかる。蘭書の翻訳で、医学書より兵書に比重をかけているのも、医師の身分から武の世界に踏み出そうとする玄機の姿勢を思わせるのである。このことは、熱い敬慕の目で幼時から玄機をながめてきた弟の秀三郎に、強い感化を与えずにはおかなかったのだ。 「区々たる刀圭《とうけい》を執ることにあきたらず……」  といった気持が玄機にある。刀圭とは医療器具のことだ。黒船再来にさいして、海防策を藩主から求められた玄機が、重病の床から無理をして起き上がるについては、そんな彼なりの精神的背景があったとみるべきだろう。  執筆のための玄機の徹夜は、数日にわたった。そして、二月二十七日、精魂尽き果てたかのように、筆をにぎったまま絶命したのである。まさしく武士を思わせる凄《すさま》じい死にざまであった。兄玄機に対する秀三郎の畏敬の念は、深い悲しみと共に、終生忘れ得ないものとなった。  いきなり二人の肉親と死別した秀三郎を追撃するように、こんどは父が床に就いた。  妻に先立たれ、つづいて長男の急死という凶事に見舞われた良廸は、すっかり気落ちした様子に見えた。  それでも秀三郎を嫡子としたい旨を藩に願い出る手続きだけは、辛うじて済ませ、すぐに病床へ倒れこんだ。風邪をこじらせたのも、心身の過労からであろう。呆然と見守る秀三郎の目前で、あっけなく良廸は鬼籍の人となった。その葬式が、玄機の初七日とかさなるほどのあわただしさである。  わずか半年のあいだに、両親と兄が次々と死に急ぐように消えた。久坂家には、ついに秀三郎ひとりが、残された。 (黒船に殺された!)  と、秀三郎は、くりかえし胸中に叫びつづけるのだが、すくなくとも玄機の死は、そうだともいえるだろう。秀三郎にとっては、しかし父母の死さえも、呪《のろ》わしくそれにつながっているのだ。  不吉の種は、癸丑の夏に凶々《まがまが》しい姿を相模の海にあらわした黒船の群れが持ちこんだのだという、いわば少年らしい恨みの感情だけが、かれの心を占めた。何かに対して、激しい怒りを向けること以外、極まった悲しみに耐える方法はなかったのかもしれない。以後、しだいに燃えひろがる欧米諸国への憎悪の底に、どうしようもなく一筋流れているものが、秀三郎にはあった。  二度にわたるペリー来航の年に、突然、久坂家を襲った悲惨の記憶が、無意識の影を、この人物の生涯に投げかけるのである。  痛ましい十五歳の春だった。  六月九日、藩は秀三郎の相続を許可した。  久坂良廸病死に付き、跡職《あとしよく》のこと相伺ひ候処、知行高二十五石、相違なく嫡子秀三郎相続仰せ付けらるべき旨の条、家督断絶なきやう申し渡さるべく候。  この家督奉書には、一カ所疑問に思える部分がある。久坂家の食禄は二十五俵だったものが、二十五石となっているからである。普通なら半減するところが、逆に加増されている。これは「俵」と「石」との書き違いだとしか思えない。加増のばあいには、「格別の御心入れを以《もつ》て……」などと、その理由を恩きせがましい文章でつづってあるものだが、それもないとすれば、やはり事務的な失策だったのであろう。しかし、重役連署の上で、同文のものが支配組頭にもまわったからには、もう撤回されることはなく、秀三郎の身分は新しく確定した。  ここで秀三郎が継いだのは、藩医たる久坂家である。その家業を襲い、医師として立つ希望を抱いたのであれば、おそらく黒船来航などとは無縁に、かれの平穏な生涯は約束されたかもしれない。だが秀三郎は、すでに医家から一歩をはみ出していた兄玄機の姿を、胸中にあたためているのである。  結局、久坂秀三郎のちの玄瑞《げんずい》、義助《よしすけ》の青春は、癸丑の夏から数えて、およそ十年後に迎えるかれ自身の消滅点までを、疾駆した。   春の旅立ち  久坂家を継いだ秀三郎は、名を玄瑞と改めた。「久坂玄瑞」の新たな出発である。  藩医は、頭も丸めなくてはならない。髪を剃りおとしたばかりの青い坊主頭を、振り立てるようにして、かれは歩く。体格がよいからいかにも闊歩《かつぽ》というにふさわしい。羽織|袴《はかま》に、玄機遺愛の大刀を腰に落としている。藩医は頭を丸めるが、両刀を帯びることを許されていた。  家族三人と死別したばかりの傷心は、まだ充分に癒えていないが日が経つにつれて、たちまち血色をとりもどすのも若さというものだろう。たしかに頭部だけなら、まるで美僧を見るような色白の秀麗な面立ちであった。濃い眉《まゆ》の下に開いた二重《ふたえ》の目に特徴があるとすれば、右側がこの地方の方言でいうところのヒンガラメ、つまり斜視だがそれもほんの少しばかりの異常である。そのことがむしろ、かれの相貌に一点の凄味《すごみ》を加えているともいえた。 「あのお方が、潤んだ黒目を輝かし、不意に遠くを見る目付きをしやはると、ほんまに悲しそうな顔にならはりました」  と、後年、玄瑞の愛人井筒タツは述懐した。彼女が記憶している玄瑞は、有髪である。正規の士分になってからは、藩命によって髷《まげ》を結ったし、名も義助《よしすけ》と変えている。  京の女井筒タツとの出会いは、ずっと後のことだから、ここではなお頭を丸めた玄瑞の話を進めなければならない。──  ひとりぼっちになったとはいえ、玄瑞には温かい手を差しのべてくれる知人がいる。兄玄機の友人たちである。  玖珂郡遠崎の僧月性もその一人で、孤独な玄瑞を招き寄せてくれた。月性は妙円寺の中に、清狂草堂という塾を設けて、若者を教育している。時習館とも呼び、清狂(月性の号)の名を慕って、付近はもとより広く藩内各地や広島方面からも集まった。  玄瑞は幼時から萩城下の吉松塾で四書の素読を修め、学問のほうも相当に進んでいる。とくに詩作の才をみとめられた。月性に師事することによって、玄瑞の詩心は、いちだんと伸びたようである。月性はよく旅をしたので、寺をあけることも多く、玄瑞がこの僧のもとにいたのはごく短い期間だった。ほとんどは文通により、詩の添削などを求めている。  家族と死別した直後、玄瑞は母の実家にもしばらく寄宿した。阿武郡生雲村の大庄屋大谷家である。ここにも長くはいなかった。やはり生まれ育った萩城下で暮らすことを望んだのだ。城下にも、玄瑞をいたわってくれる人々が少なくなかった。  玄機と親交のあった中村九郎(道太郎)は、藩の重臣で、玄瑞とはあらゆる面で深い関わりを持つ人物である。やがて玄瑞も参加する京都出兵のとき、中村は参謀をつとめ、その責任を問われて斬首の刑に処せられる。  土屋|蕭海《しようかい》も、玄瑞に親しみの目をむけてくれる玄機の友人だった。寄組佐世氏の陪臣だが、城下では「少壮中文章第一」といわれる学者である。のち譜代の士籍を得た。  月性、中村九郎、土屋蕭海といった藩内一流の人士が、やさしく取り巻いているというめぐまれた環境にあって、玄瑞は大きく成長した。しかも、ここに挙げた三人に共通しているのは、吉田松陰との交流である。松陰と玄瑞との運命的な出会いをみちびくものが、そこにかたちづくられている。だが、この時点では、玄瑞にとって、吉田松陰は無縁というより、反撥《はんぱつ》をそそる存在でしかなかった。 「吉田寅次郎ちゅう若いがすぐれた学者のことを知っておるか」  いつか月性が、玄瑞にいった。 「明倫館の兵学教授だった人と聞いちょりますが、よくは知りません」 「今は江戸の伝馬町の牢にとらわれの身だが、惜しい人物である」 「異人に接近し、海外に抜け出そうとしたのでしょう。私にはその気持がわかりません」  と、玄瑞は、眉をひそめた。  久坂玄機が、黒船対策の執筆なかばに倒れた安政元年二月二十七日、松陰は江戸にいた。その一カ月後に、下田沖にいるペリーの軍艦で海外密航をくわだて、失敗して幕府に捕えられたのである。 (嫌悪すべき異人に近づこうとするなど、もってのほかだ)  そんな玄瑞の感情を、月性はすぐにたしなめることはしなかった。 「いずれ機会があれば、寅次郎に会って、話を聴いてみることじゃな」 「はあ」  答えたが、玄瑞にその気はない。  萩藩(長州の本藩。各支藩をひっくるめて長州藩と俗称するが、萩藩と同義語と考えてさしつかえない)の寺社組は、儒者・医師・絵師・茶道・能狂言師などで構成する。それらは寺社奉行が統轄し、譜代に列せられた者は帯刀も許されている。  好生館は、その寺社組に属す医師の養成機関である。久坂玄機が、そこで蘭学教授をつとめていたことは前に述べた。もともとは医学所といっていたもので、玄瑞が生まれた年の天保十一年に創立した医学専門の藩校だ。創立当時は漢方医学だけだったが、嘉永元年にオランダ医学を導入し、好生館と改称した。明倫館同様、ここにも居寮《きよりよう》制度があって、成績優秀な学生は、館内の寄宿舎に藩費で寝泊まりできた。  安政三年、十七歳の玄瑞は、居寮生として好生館にいた。  玄機と共に西洋医学を藩にもたらした青木研蔵が蘭学教授をつとめている。玄瑞はあまりオランダ語に身が入らないばかりか、同学の仲間から離れて行く気配さえみせた。  西洋医学をやっていると、医学だけでなく、ヨーロッパ文明への関心が高まってくる。これも自然な成り行きといえた。 「オランダの正朔《せいさく》を祝おうではないか」  まずはそんな雰囲気も生まれるのである。正朔とは一月一日のことで、オランダのそれは、太陽暦の元旦をさしている。かつて玄機もそうした好生館の傾向を怒って、批判の文章を発表したことがある。 「われ洋書を読むも、内に足らざるを外に取るのみ。何すれぞわれをして彼の正朔を賀せしむるを得んや」  洋書を読むのは、新しい知識を吸収することだけが目的であり、どうして外国の正月まで祝う必要があるかというのである。いわゆる“西洋かぶれ”に対する警告であった。  玄機がいるあいだは、多少遠慮していた者たちも、今では大っぴらに西洋崇拝の空気をかきたてている……。少なくとも玄瑞にはそううつるのだ。 「蟹行《かいこう》の徒にはなりたくない」しきりにそのことを呟《つぶや》きながら、蘭学への嫌悪をむき出しにした。そのころ西洋の学問を志す人々を、蟹行の徒などと軽蔑《けいべつ》をこめて呼ぶ者も少なくはなかった。横文字が、蟹《かに》の這《は》った跡に見えるところからきている。  医学をはじめ新しい知識や技術を、欧米先進国から大急ぎで学び取ろうとする時代の要求がある半面、かたくなに西洋を毛嫌いする保守的な流れも一方にはある。長い歳月にわたり国を閉ざしつづけてきた日本人が、ようやく外圧に怯《おび》える安政年間、それは幕府の開国政策に反対する攘夷《じようい》思想の高まりともなって、激しい渦を巻きおこした。揺れ動く不安な時代の幕あきである。  だが、久坂玄瑞という十七歳の若者にとって、その昏迷《こんめい》する世情は、まだ遠い喧騒に感じられるだけだ。かれは、兄の死をもたらした異国への素朴な憎悪を抱きながら、蘭学の学習に反撥する医師の卵にしかすぎなかった。 「旅に出てみる気はないか」  青木研蔵から好生館での様子を聴いた中村九郎が、玄瑞を自宅に招いていうと、 「それは、大いにあります」  果して目を輝かした。 「九州を遊歴して、識見を磨いてくるがよい、というてもこれは表むきで、気軽に行くことだ。藩府には、私が手続きをしてやろう」  遊歴と称する漠然とした目的の旅に出るばあい、最初に九州をめざすのが、長州では普通になっている。やがては京都、江戸にむかうとしても、九州だけは一度ぜひ行くところとされていた。長崎という国際都市には全国からの触角が集まっている。また九州各地には、名のある学者が塾をひらいており、広い地域からの学徒が門をたたいた。  少し早い時期の享保年間には、豊後《ぶんご》の三浦梅園が有名だった。国東《くにさき》半島の富永村に小塾を構えたが、独自の「条理学」で知られる。ヘーゲルより五十年も前に、かれは弁証法哲学とまったく同じ基本概念に立つ「反観合一」をとなえ、『玄語』などいわゆる梅園三語を著わした。梅園のただならぬ学識を知り、諸国の大名が競って召し抱えようとしたが、決して豊後から出ようとはしなかった。  土着の姿勢をとる九州の学統は、その後も各地に花を開いた。玄瑞が、中村九郎の慫慂《しようよう》によって、ようやく旅心をそそられているそのころ、まず豊後日田には広瀬淡窓の咸宜園《かんぎえん》があった。長州からは村田蔵六(のちの大村益次郎)ら多くが咸宜園に学び、また高野長英(陸奥水沢出身)をはじめすぐれた人材が輩出した。  また豊前《ぶぜん》の京都《みやこ》郡には、仏山堂がある。村上仏山の塾である。仏山は詩人としての名が高かった。京都で活躍したのち郷里に帰って、子弟の教育にあたった。本土方面からの入門も多かったが、地元では末松謙澄という有能な人物を育てた。末松はやがて伊藤博文の娘と結婚して長州の閨閥《けいばつ》に加わり、伊藤内閣の内務大臣などをつとめた。そうした政界での業績よりも、かれは幕末長州藩史『防長回天史』の編著者としてよく知られている。──  そのように九州は、遊歴地としても魅力にとんだ巨島であった。あらゆる分野が、東京を拠点とする中央集権下におかれた現代と違って、確乎とした九州文化圏をかたちづくっていたころである。中村九郎は、久坂玄瑞を九州に投げ込むことによって、ひとつの転機をつかませようとしたのだ。  玄瑞の九州行きを聞いて、口羽徳祐《くちばとくすけ》も、好生館の寮へたずねてきた。口羽はこのとき二十三歳だが、寄組五百石の大身である。玄機の旧友であり吉田松陰とも親しくしている点で、玄瑞との関係は中村と同じ立場にいる。江戸の昌平黌《しようへいこう》に学び、安積艮斎《あさかごんさい》に師事して俊才をうたわれる口羽は、詩もよくした。 「秀三郎、これを持って行きなさい」  口羽は、玄瑞の旧名を呼びながら、餞別《せんべつ》の金包みと、数通の封書をさし出した。  それは知人にあてた紹介状である。旅|馴《な》れぬ玄瑞にとっては、うれしい配慮だった。 「いちばん近いところで、まず行橋の村上仏山に会うべきだろう」  早くから詩作の才をみせている玄瑞のことは、兄玄機から聞いていたので、口羽は真っ先に仏山の門をたたくように奨《すす》めるのである。 「仏山先生に会えるのですね」  玄瑞は、上気した顔をあげていった。  仏山には『壇浦を過ぐ』という作品がある。     魚荘|蟹舎《かいしや》雨煙となる。     蓑笠《すいりゆう》独り過ぐ壇浦の辺《ほとり》……  格調高く、抒情《じよじよう》あふれる仏山の詩を玄瑞は何度か吟じたものだ。六尺ゆたかな体格で声量も充分だから、朗々と響きわたる玄瑞の詩吟は、聴く者をうっとりとさせる。 「久留米の城下には和田逸平がいる。広瀬淡窓の門下で、この人も詩文に長じているから、批正を乞う人物としては欠かせない」 「ああ、和田先生の名はうかがったことがあります」 「熊本の宮部|鼎蔵《ていぞう》はどうかね」 「………」  玄瑞は、まだこのとき宮部を知らない。 「兵学者で、吉田松陰の親しい友人だが、私は江戸で会ったことがある。兵学者というより儒者の風格を感じさせた。実学党の横井|小楠《しようなん》とも交流し、高い識見の持主とみた。会いなさい」  口羽徳祐は、このほかにも二、三の名を挙げ、詳しい来歴を説明して帰って行った。  玄瑞の心は、すでに九州路を走っている。「詩情湧くが如し」といった面持で、出発の日を待った。  かれがこの旅にみずから抱いた期待は、詩嚢《しのう》を肥やすことであった。その詩は、これまで城下の人々をうならせたものである。詩人的天分は、たしかに認められたが「少年にしてはよくできている」というほどの褒《ほ》め方もあることを、かれは気づかない。孤独な境涯に対する同情が、余分に玄瑞を甘やかしたきらいがないでもない。  詩文の批正を乞うようにいわれているが、正直なところ、旅先で会う先学たちから、自分の詩才を称賛してもらいたいといった気持も強い。浮々して、何となく軽薄に昂揚している様子がないとはいえなかった。若者らしい自惚《うぬぼ》れや、初めての旅に向かう興奮も手伝ってのことだろうから、必ずしも責められはしまいが、旅行中の玄瑞には、もしかれを知った者がそばにいるとしたら、思わず顔をしかめるような場面があったかもしれない。  安政三年三月五日、春風に吹かれながら、玄瑞はひとり九州への初旅に出る。       出郷     男子|蓬桑《ほうそう》の志     飄然《ひようぜん》として覇城を出づ     雲烟《うんえん》三月好し     書剣九州の行     月落ちて林花暗く     鞭風《べんぷう》馬声を帯ぶ     江山、眼裡に吟じ     随処予に評を託す   (男子蓬桑志/飄然出覇城/雲烟三月好/書剣九州行/月落林花暗/鞭風帯馬声/江山吟眼裡/随処託予評)  そのときの『西遊稿』第一頁に書きとめた故郷を離れる詩《うた》である。  玄瑞が九州旅行中につくった『西遊稿』は、詩帖を兼ねた旅の記録であり、書きつらねた漢詩は、長短三十九篇を数える。その作品をたどることによって、かれの路程がわかる。行く先々で詩をつくり、目的地に着くと、会った詩人や学者に示して批評を求めるのである。  昔から全国的に武者修行宿というものがあった。武技を練磨するために巡歴する武芸者を迎える道場や有力な保護者が各地にいて、短期間の宿泊を引き受ける。博徒の世界では宿場町で勢力をふるう親分が、流れ者の面倒をみる慣習がある。いわゆる一宿一飯の恩義をほどこすのだ。  幕末になって、勤王の志士といわれる人たち、つまりは体制からはみ出た思想家とか行動的な学者が、吟遊詩人のようにめぐり歩くのを援助するある種の浪人宿も生まれた。下関の勤王商人といわれた回船問屋白石正一郎邸などは、その最大のものであったろう。  まだ世の中が、それほどには激動しない時代、各地を探勝する学者文人たちに便宜を与える平穏な修行宿も街道筋に点在した。多くは私塾の経営者だ。旅人は、情報提供者でもあり、また文人同士の交歓の機会として積極的に遊歴の者を迎える人も少なくはなかったのである。  訪れる者のほとんどは知人の紹介状をたずさえているが、未知の人物が名乗りをあげて飛びこんでくることもある。紹介状は持っていても、初対面なら自分の学識や才能を証明する詩文の作品を、批評を乞うかたちで見せることになる。  玄瑞が詩作に励むのもそのためであった。気に入った詩句が思いうかぶと、いきなり路傍に腰をおろして記入しながらの旅である。  村上仏山にかれが示した漢詩は、出発のときの五言律『出郷』のほか、十五篇だった。萩を出て下関に一泊しただけで、翌日の夕刻には仏山堂に着いているのだから、二日間でそれだけの作品ができたわけである。大半は七言絶句で、秋吉台の春色をうたい、清末藩領の路上に雲を仰ぎ、赤間関(下関)を発した門司への渡船では、海峡に舞う鴎の群れと漁舟を詩句にまとめた。 「いかがでありますか」  玄瑞は、それらの作品に黙って目を落としている仏山に、うながすような声をかけた。 「この秋吉台の作は、詩趣がよろしいですな」  ひとこと仏山は、そういっただけである。しかも詩趣がよいというのは、作品全体を褒《ほ》めたことにはならない。玄瑞は甚だ不満だった。 「では、硯《すずり》を拝借」  さし出されたそれを引き寄せ、玄瑞はゆっくり墨をおろしながら、口中で何か唱えていたが、やおら『村上仏山を訪ひ、座上|賦《ふ》して贈る』と題し、勢いよく即興の詩を書きはじめた。(むろん漢文である)  仏山堂、仏山堂。堂は碑田馬獄の傍に在り。吾、その名を聞きて墻外《しようがい》に望み、書剣|匆々《そうそう》として旧郷を辞す。……仏山雲参じて雲後|蒼《あお》し。  二十四句から成る七言古詩である。 (どうだ驚いたか)  と、内心鼻をうごめかしている。即興と見せながら、実は道々練ってきたものだ。  このとき村上仏山は、四十七歳である。かつて洛中《らくちゆう》の詩壇で名を馳《は》せたこのすぐれた詩人は、玄瑞が得意気に書き下した長詩をしばらくながめ、 「お見事です」  やはり、ひとことそういってから、才気を浮き立たせた十七歳だという長州の書生に、おだやかに視線を投げた。 (批評とは、この程度のものか。見事だというのなら、もっと褒め言葉があってもよいではないか)  などと玄瑞は思う。  仏山は、かすかに笑っている。自分も若いころはこのようであったか、といたわるような目で、詩人に見られていることを、玄瑞は気づくはずもなかった。 「そろそろ門弟たちも集まりましょう。今夜は、共に韻を分って、詩をつくろうと思うが……」  これは来訪者を歓待する意味だ。紹介者の口羽徳祐に対する儀礼でもあったが、同時に玄瑞の詩才を見抜いた上での遇し方だともいえた。玄瑞は、仏山堂で一人の詩人として扱われたのである。  あたたかい仏山のもてなしを受けて、かれは豊前での第一夜をすごし、翌日、中津へ足をむけた。その途中、宇ノ島から山寄りの横武村に立ち寄る。そこには広瀬淡窓の高弟|恒藤醒窓《つねとうせいそう》がいた。淡窓から序文をもらって京都から『遠帆楼詩集』を出版しており、詩名は聞こえている。ここでも玄瑞は『恒藤醒窓を訪《おと》づる』と題する七言を遺して去った。  得意絶頂の気分で、中津から耶馬渓《やばけい》に入る。ここには頼山陽も以前やってきて名作をものしていた。そこで玄瑞も、先学にならって『耶馬渓四首』『羅漢寺』などを賦した。  耶馬渓から本道を行けば、日田へ出ることができる。日田には広瀬淡窓の咸宜園があるが、なぜか口羽は淡窓への紹介状を玄瑞に渡していない。行程を省略したのかもしれなかった。  英彦山の麓《ふもと》を過ぎて筑後へ抜けた。筑後川の流れに沿って行くうちに、緑の視界がひらけてくる。田園地帯をひとり行く玄瑞の影が、菜の花の鮮烈な黄色に吸いとられる春真っさかりの筑後平野である。雉《きじ》の声にも快く耳をくすぐられた。       所見     十里、菜花の外、春風に野の雉鳴く     何人ぞ犢《こうし》を牽《ひ》きて至る、縄の帯、短刀を横たふ   (十里菜花外/春風野雉鳴/何人牽犢至/縄帯短刀横)  やがて二十一万石久留米藩の城下に入る。後年、久留米の志士真木和泉の救出に動くことになる玄瑞が、今は文人として飄然と姿をここにあらわすのである。  久留米には、和田逸平がいる。かれも淡窓門下で、詩をよくした。  久留米から柳河に出た。この立花氏十二万石の城下では、水郷の土堤に咲き乱れる花を見て『柳河途上』の七言絶句ができた。  柳河からさらに足をのばして、熊本に行く。宮部鼎蔵に会った。詩人を気取った玄瑞に、罵声《ばせい》を浴びせかける最初の人である。  宮部は三十六歳。吉田松陰の親友である。山鹿流の軍学者であり、松陰は十歳年上のかれを「宮部先生」と呼んで敬意を表した。  江戸遊学中の松陰が、東北旅行に出かけたのは嘉永四年のことで、これは宮部に誘われたのだ。南部藩の|江※[#「巾+者」]《えばた》五郎が同行した。ところが松陰に対する藩の過所手形の発行が遅れ、出発できなくなった。かれは期限切れの稽古切手を持ったまま、約束通り旅立ったので、事実上の脱藩となった。このため松陰は士籍を削られてしまう。そんなことで宮部との関係は、特別のものがあったのである。 「そのほう吉田さんを存じておるか」  と、やや尊大な口調で、宮部がいった。二十歳ばかりも年が多いのだから、不当だとはいえないが、玄瑞はそれまで会っていた人々の慇懃《いんぎん》な態度にくらべ、宮部の出方が気に障《さわ》った。 「萩の野山獄を出たとか聞きましたが、その後、何をしちょるのか知りません」 「会ってみる気はないか」 「ありませんな」  簡単に答えて、玄瑞は詩帖をめくりはじめた。作品を見れば、あまり小僧扱いもしなくなるだろうという気もある。  宮部は、背筋をのばすようにして、じっと玄瑞をみつめている。目が怒っていた。 「途上の作でありますが、ご高評いただけましょうか」  と、さし出すのを、宮部は黙って受け取り、さっと一読したようだった。  玄瑞は微笑する。 (どうだ、見直したか)  といった顔である。 「九州旅行は、このような詩をつくるためにか。つまらん!」  突然宮部が大喝した。 「久坂玄瑞といったな、そのほう今江戸で何事がおこっているかを知らんのか。吉田松陰を知らずともよい、だが天下の何たるかも心得ず、半端な詩才をひけらかして、旅をするときか。中村さんも、口羽さんもそうせよと奨められたとは思えぬ」 「………」 「獄中にあったほどの人に会うたかと問われれば、なぜ会わなければならぬかを考えるべきだ。私は、悠長な詩論をたたかわすような暇を持ち合わせない。帰っていただこうか」  それだけいうと、宮部はつと立ち上がって、部屋を出て行ってしまった。  かれの書斎から見える庭で、激しく桜の花が散っている。地面を覆った雪のような花弁が、午後の陽をまぶしく撥《は》ねかえすのを、玄瑞は目を細めながら、ながめていた。息をひそめて、屈辱に耐えている。  帰れといわれた以上、出て行くほかはなかった。一言も抗弁しなかったことが悔まれてならない。それでもしばらくは、詩句を練っている。やがて矢立を取り出し、七律を書きとめた。詩帖からその部分を裂き取り、文机の上に置いて、立ち上がろうとしたとき、また宮部が顔を出した。     来り訪づる熊城《ゆうじよう》奇士の廬《いおり》     海防の大議つひに如何     廟堂《びようどう》あに寡《すくな》からんや宋の秦檜《しんかい》     草莽《そうもう》更に存す林則徐《りんそくじよ》……   (来訪熊城奇士廬。海防大議竟如何。廟堂豈寡宋秦檜。草莽更存林則徐……)  出立を促しに来たのか、思いなおして引き止めるためだったか、玄瑞にはわからなかったが、宮部鼎蔵は黙って部屋に入ってくるとめざとく机上の詩稿をみつめた。 「これは出来たな」  穏やかにいって、玄瑞に笑いかけ、 「前言を取り消したい。お腹立ちでなければ、ゆっくりして行きなさい」  と、こんどは磊落《らいらく》に笑った。つられて玄瑞も笑う。やっと談論の空気が生まれた。  たしかに宮部はおどろいていた。この若者が、これほどの見識を持っているとは思わなかった。やはり玄機の弟であり、海防僧といわれた月性に短時日ではあったが師事しただけのことはある。詩中、宋の秦檜とは、宋の宰相である。金《きん》の猛威にさらされた宋を安泰にみちびいた。かれは金との国交を深めることによって祖国を救ったのだが、強国金に低頭した佞臣《ねいしん》として、後世の朱子学派から憎まれている。廟堂には秦檜のような人物が少なくないというのである。  林則徐は、対照的な人物で、清《しん》の政治家だが、イギリスという大国に屈しようとしなかった。かれはイギリス人のもたらすアヘンを没収して、焼き捨てた。いわゆるアヘン戦争の引鉄《ひきがね》となった清国の強硬策は、林則徐の決断によるものである。いま日本国を取り巻く異国の強大な勢力を前に、毅然とした林則徐のような人物は、草莽の中にこそいるであろう。  玄瑞のいうその草莽とは、たとえば僧月性のごとき人であり、在野人としての熊本の奇傑宮部鼎蔵をさしている。 (よくぞいってくれた)  宮部は感激し、単に高慢ちきな若僧と思っていた玄瑞に対する姿勢を、率直にあらためるのである。 「米使ハリスという者が近く着任するらしい。和親条約をさらに通商条約に進めんとする墨夷《ぼくい》の野心に、江戸はざわめいておる。しかも幕府では、病弱な将軍家定の後継の座をめぐって、一橋と紀伊の暗闘がおこなわれ、天下は容易ならぬ揺れ方だ」  宮部は、急迫した時代の様相を語りはじめた。萩にいては聞けないようなことばかりである。玄瑞もまた、兄玄機や月性について話すうちに、いつか口調に熱を帯びてくる。  よほど玄瑞が気に入ったとみえて、宮部は翌朝出発するかれを見送りがてら、加藤清正の墓など城下をひとわたり案内してくれた。 「吉田松陰に一度会いなさい」  別れぎわに、宮部がいった。  玄瑞の次の目的地は、長崎である。  天草灘を渡り、一作をものすつもりで、松橋の船着場に着いたのは三月二十一日だった。  宮部と別れたとたんに、玄瑞はやはり憂いをこめた旅行く詩人の顔になっている。どんより曇った松橋の空には、強い南風《はえ》が唸《うな》りをあげ、海は荒れていた。  玄瑞の頭の中には、頼山陽が天草灘をうたったあの「雲か山か呉か越か……」の名作が韻をかなでている。  時化《しけ》のため船が出ないとわかっても、渡船場に腰を据えて、半日ばかりも、風のやむのを待った。詩句をひねっていれば、時間が立つのは早いのである。  そのうち雨が落ちはじめ、ひどい吹き降りとなったので、付近の船宿に走り込んだ。  翌日も風雨である。一日、詩作にふけった。急がぬ旅の疲れを癒やすには、よい機会だった。ところがその次も、またその次の日も風雨は吹きつのるばかりである。三泊して二十四日の朝になっても、海況が変る様子は見えないので、ついに諦めて陸路をとることにした。 「海面の天の曙、雨益々狂ひ、起つて遥かに望めば、空海|杳茫《ようぼう》たり。天草の一髪わづかに指すべし」  山陽の作を越えるものをと、ひそかに野心した天草灘を捨てて、玄瑞は遠まわりの道を、風に追われるように、少し早足で歩いた。雨はやんだが、暗い雲が空を覆っている。  はじめて旅のさみしさを味わった。孤独には慣れているつもりだが、やはり単独旅行者の愁いが、十七歳の若者の胸をしめつけるのだった。  一日で嘘のように晴れた。  天草灘には嫌われたが、春の有明海を見た。そして湖のように静かな大村湾を渡り、長崎の北方、時津に上陸した。     渺茫《びようぼう》たる嶋嶼《とうしよ》、浪天に連り     数幅の軽帆、海煙を破る     似ず松橋の風雨悪しきに     閑鴎飛ぶこと緩うして夕陽|殷《さかん》なり   (渺茫嶋嶼浪連天/数幅軽帆破海煙/不似松橋風雨悪/閑鴎飛緩夕陽殷)  大村湾を渡るときの七絶である。松橋での恨みが説明のように入っているのは気になるにしても、美しい大村湾の情景が見事にとらえられている。  長崎ではだれにも会わず、宿をとり、数日かけて街をくまなく見物した。  ここで玄瑞は、生まれてはじめて異国の船を見るのである。長崎港に入っていたオランダ船だが、かれはそれを、いかにも憎々しげに「蛮船」と呼ぶ。その黒船をみつめていると、玄瑞は自分でも予期していたように、暗い不吉な気分に襲われる。日本に災厄をもたらす船だという想念がつのるのだ。洋銃をかかげた異相の「蛮兵」の群れが、喊声《かんせい》をあげながら攻め寄せてくる模様を胸にえがいて、思わずこぶしを握りしめる。  玄瑞は、兄玄機の形見となったあの長剣をたずさえていた。 「蛮兵十万、一身当り、剣を撫して瀾《なみ》を観、眉を揚げんと欲す……」  ここにいるのは、詩をたしなむ医学の徒ではない。ようやく武士《もののふ》の境地に、かれはあった。  長崎の次は唐津に滞在した。  やがて唐津を発し、浜崎へ向う。 「海は玄洋に接して狂浪驚かし松林雨を帯びて緑烟横はる。……」  名勝虹の松原を通り抜けるときの作である。  博多湾岸に出て、黒田氏五十二万石の城下福岡に着いたのは、ようやく夏の気配を深める四月の下旬だった。ちなみに新暦なら五月下旬に達するころである。安政三年のこの年は四月が閏《うるう》だから、玄瑞の萩帰着の予定まで、なお一カ月余の旅程を残していた。  福岡は、長崎とは違った大藩の城下町らしい活気にあふれている。玄瑞にとって長崎の異国情緒は、どうしても肌に受けつけないものであった。福岡のほうがまだ安心できる都会である。ただ残念なことに、この城下には、ぜひ会わねばならないほどの文人がいない。あるいは長州人との交流がなく、知らないということだったかもしれないが、いずれにしても商人たちの動きがしきりに目立つ町である。  玄瑞が福岡に立ち寄ったのは、そこが元寇《げんこう》の古戦場であるという理由によるものだ。博多湾をながめていると、元軍を壊滅させたという日本人の誇らしい思いが、かれをとらえるのだった。そのような歴史的大事件の舞台となった土地に城郭を構えながら福岡藩は幕末にいたっても、特別に攘夷思想がはびこるようなことはなかった。明治維新に対しても黒田氏は、日和見の立場でおわっている。  だから博多湾を見て、痛切に弘安の役をしのび、安政の開国事情に思いを馳せるなどは、久坂玄瑞のような旅行者にいえることであろう。それは獰猛《どうもう》な蒙古軍を水際に受けて、勇敢に戦った防人《さきもり》の多くが、鎌倉幕府の派遣した御家人たちであったという話にも通じている。──  博多を出立した玄瑞は、千代の松原を経て筥崎《はこざき》八幡宮にやってきた。ゆっくり帰路をたどる行程だが、この両地点をつなぐ一帯も、元寇の史跡である。筥崎八幡宮の楼門は、玄界灘の怒濤《どとう》を臨んで聳《そび》え、亀山上皇の「敵国降伏」の勅額がかかっている。 「六百年後、丙辰(安政三年)の年、吾《わ》れ来りて慷慨《こうがい》し眦《まなじり》裂く」というほどに、玄瑞は昂揚した。『筥崎にて感あり』と題する作品の冒頭に「相模太郎、真に英傑、断然使を斬る三尺の鉄……」と書きつけている。  宮部鼎蔵から聞いた米使ハリスなどは、北条時宗の故事にならって斬ってしまえという玄瑞の発想は、このあたりからきたものだ。  萩を発って、花鳥風詠といった漂泊をつづけていたかれの詩心は熊本で宮部と会い、長崎で「蛮船」を初見し、さらに博多湾をながめて元寇の昔をしのんでから、急に屈折した。兄玄機の死いらい玄瑞の心の底にあった排外的な思念が、あらわに噴きこぼれはじめたのは、あきらかにこの九州旅行からである。旅をすすめた中村九郎や口羽徳祐の期待を、はるかに越えたところで、玄瑞は新しく生まれ変った。  すでにねぎらいの言葉をもうけて待つ肉親もいなくなった郷里の土を、かれが再び踏んだのは、五月のはじめだった。   邂逅  玄瑞が帰着して間もなく、萩は連日の雨となった。日本海にそそぐ阿武川の支流橋本川と松本川がつくるデルタの上に載せた三十六万九千石の城下町が、さみだれに煙る梅雨の季節である。  萩の武家屋敷の土塀は、下半分が玄武岩で組まれたものが多い。雨に濡れると、それが黒々とした艶を帯び、上部の土の色と真砂土の路地の同じ色あいに挟まれて、歌舞伎模様のようにも美しく見えた。  降りつづく雨の中、迷路にも似た屋敷町の細い道筋を大股にたどりながら、このところ玄瑞は、知人の家を訪問するのが日課となっている。  好生館は、平安古の久坂家旧宅からほど遠からぬところにある藩主の茶屋「南園」に隣接して、かなり広い敷地を持っている。家のない玄瑞は、再び居寮生として、好生館の寮に入ったが、医師の修行に打ち込む気持は以前にもまして薄らいでいるのだ。もっぱら漢方医系の儒学講座に顔を出すのだが、それさえも何となく身が入らない。ひとつには三カ月つづいた旅から帰ったあとの落ち着かなさが、まといついているのだった。  旅の報告で中村九郎や口羽徳祐をたずね、作品の批評も乞うた。口羽は把山の号で詩作に通じていたので、丹念に目を通し添削してやっている。土屋|蕭海《しようかい》のところにも行った。松陰の親友である。 「吉田寅次郎、今は松陰と号し、二十一回猛士などととなえておるが……。会ってみなさい」 (また松陰か)  と、玄瑞は思った。前に中村九郎からすすめられ、旅行中には熊本の宮部鼎蔵もこの人物を絶賛して、別れぎわに念を押すように松陰と会うようにいった。 (どんな男なのだろう)  ペリーの軍艦で密航をくわだて、国事犯になったことなど一応の来歴は知っているが、ぜひ会ってみたいほどの気持になれないでいた。むしろ異国を憎むどころか、みずから接近して、かれらの国に渡ろうとした行為が許せない。会ったところで、外国礼賛のひとくさりも聴かされるのがオチだと思ったりもしていた。しかし、口をそろえたように先輩たちがすすめるところをみれば、やはり相当な人物なのかもしれない。 「二十一回猛士とは、奇妙な号をつけたものですね」 「獄中にあるとき、暇にあかして考えたのであろうよ。実家の姓である杉と吉田の姓からつけたというちょった。二つの漢字を分解すれば“二十一回”となる。松陰は死ぬまでに二十一回の猛を発するというのだ」 「ほう」  玄瑞は、思わず嘆声をあげた。  紹介状を書こうと、その場で蕭海は松陰あてにしたためたものを玄瑞に与えた。 (さて、どのようにして会うか)  寮に帰ると、腕組みして考えこむのである。紹介状をもって、ふらりと訪れるようなことはしたくない。  いわば意表をつくあらわれ方をしようとするところに、玄瑞の稚気がのぞいている。かれにしてみれば、熊本で宮部鼎蔵から一喝くわされたときの経験から、予備知識を相手に与えておきたいと考えてのことでもあった。十七歳という年齢だけで、軽くみられたくないと思う、これも若者らしい配慮といえた。  そこで玄瑞は、ひねり出した戦術とは、まず蕭海がつくってくれた紹介状を添えて、松陰に手紙をおくる。松本村の杉家までは持参するが、面会は求めず手紙だけを玄関先において帰ることにした。藩命で幽室にこもっている松陰に近づくには、それが理にもかなっている。 『義卿《ぎけい》吉田君の案下に奉呈す』と、題した長文の手紙を玄瑞が書きはじめたのは、蕭海と会った直後の五月中旬だった。義卿とは松陰の字名《あざな》である。君《くん》は現代と違って、当時では目上の人に対する尊称だが、この題の勢いからして、玄瑞の気負いが感じられる。内容は、さらにすさまじい。 「久坂|誠《まこと》玄瑞、再拝し謹んで二十一回猛士義卿吉田君の座前に白《もう》す」  という書き出しである。  ……今年春、鎮西に遊び、肥後に入って宮部生を訪れたが、談たまたま貴殿のことに及んだ。宮部が貴殿を称賛する言葉は長々とつづいたのである。いらい私は貴殿を欽慕《きんぼ》すること一通りでなかった。ここに短簡を草し、胸中の一端を述べさせてもらいたい。  しかして、私は貴殿を識らない。貴殿も私のことはむろんお識りにならないであろう。そのような立場にあって手紙を差しあげるのは、唐突のそしりを受けそうだが、少なくとも私は貴殿が天下の豪傑の士であることは承知しているつもりである……。  そんな前文を置いて、玄瑞の筆は時勢論に移る。ほとんどは激しい調子で、憂憤を述べることに終始した。 「綱紀日に弛《ゆる》み、士風日に崩れ、しかして洋夷日に跳梁《ちようりよう》し、しばしば互市(通商)を乞ふ。その意、必ず我が隙をうかがひて、その欲するところを伸ばすに在るなり」  罵声を浴びせかけるような外国排撃の言葉がつづく。そして弘安の役における北条時宗の決断を賛美し、ついには外国からの使臣を殺してしまえというのである。 「彼れ互市を請《こ》はば、我れこたへて曰《い》はん、国法の禁ずるありと。彼れこれを強ひなば、即ち宜《よろ》しくその使を斬るべし……」  まる二日をかけた松陰への手紙を清書して、玄瑞は杉家にむかった。松陰の実家杉百合之助の屋敷は、城下の東郊にあたる松本村にあった。幼少のころ松陰が育った団子岩から麓《ふもと》に下りたあたり、現在の松陰神社境内の一部がそれで、旧宅もそのまま保存されている。 (義卿がこれを読んで、何と答えるかだ)  どうやら得意気な表情だった。  松本村は、萩城下の東郊にあたる。城下との境界は松本川である。  梅雨雲を割ってのぞいた夏の陽が、ギラギラ反射する川面をながめながら、久坂玄瑞はゆっくり松本橋を渡った。急に人家がまばらになる。やがて杉家の玄関に立った。戸はあけ放たれている。 「お頼み申す」  薄暗い屋内に視線を投げ、玄瑞は響きのよい声をかけた。ふと旅行者のような気分になる。  しばらく返事がない。もう一度呼ぶつもりで息を吸いこみかけたところで、人の気配が動いた。あらわれたのは、若い女である。少女といったほうがよい。 「吉田先生はご在宅ですね」  いることはわかっているから、そのようにいった。 「あ、はい」  と、少女は曖昧《あいまい》に答えた。 「お会いせずともよいのであります。これをお渡し下されば……」  玄瑞は、ふところから松陰にあてた書状と土屋蕭海が書いてくれた紹介状を取り出した。 「どちらさまでございましょう」  少女は、意外なほどしっかりした口調で、玄瑞の差し出した書状の受け取りを拒否するようにいった。 「久坂玄瑞です。頭は丸めておるが、別に怪しい者ではありません」 「まあ、そんな……」  と、少女は口に手をあて、訝《いぶか》しげに来訪者の顔を仰いで笑った。笑うと少し吊りあがった目が、糸のように細くなる。色白で顎《あご》が小さく尖《とが》っている。洗いざらしの矢《や》飛白《がすり》をまとっているが、質素ななかにもキリッとした身形《みなり》を整えた姿はやはり武家の娘だ。額のあたりに汗をにじませているのは、裏で家事を手伝っていたのだろう。どうも美人とはいえないが、清潔な処女のにおいを、そこはかとなく漂わせている。 「杉家の方ですね」  押しつけるように書状を渡しながら、念を押した。 「寅次郎の妹|文《ふみ》でございます」  末の妹である。松陰には三人の妹がいる。長妹の千代はすでに藩士児玉家に嫁し、次の妹|寿《ひさ》も藩儒小田村伊之助と結婚して、杉家には文だけが残り、両親を助けて家事にあたっていた。松陰が杉家の幽室に入ると、これの面倒をみるのも文の役目になった。このとき文は十四歳、玄瑞より三つ年下である。早婚の時代のことで、二人の姉は十五で嫁に行っている。文もぼつぼつ適齢期である。  突然訪れてきて、強い陽ざしを背に入道のように突っ立った坊主頭の青年が、いずれ夫と呼ぶ人になるなどとは、そのとき文の思ってもみないことである。それはまた玄瑞にしても同様であろう。  長州藩が、幕末の波濤に乗り出す直前のおだやかな一時期、若い男と女の、これも運命の糸で結ばれる邂逅《かいこう》のときであった。しかし玄瑞にとって、たしかに運命的といえる人物との出会いは、もう少し先になる。  帰ろうとするかれを、文が呼びとめた。 「土屋様のご紹介でしたら、兄はお会いすると存じます」 「………」  玄瑞は、ちょっと躊躇《ためら》って、去りかけた足をとめたが、 「幽室におられる身では、かえって迷惑でありましょう」  と分別くさいことをいった。 「本当はいけないのでしょうが……。とにかく伺って参ります」 「いや、ご無用に願いたい。きょうはお会いせず、それだけを先生のお手許にと思ってきたのでありますから」  こんどは正直にいって、会釈すると身をひるがえすように、照りつける外へ出た。 (何と返事をしてくるかだ)  帰る道々、やはりそんなことを考えている。  熊本で会った宮部鼎蔵が、初めて見せた尊大な態度が思い出された。十七歳の書生とあなどられた屈辱を見事はね返したのは、あの長詩である。松陰にあてては激越した大論文を書いた。まず意表を衝いて、それから会えば、対等に応接してくれるだろう。──  玄瑞はしかしそんな計算をする必要などなかったのである。土屋蕭海の詳しい紹介状で充分だったのに、妙に策をめぐらしたところが、かれの若気というほかはなかった。松陰という人物を知らなさすぎたともいえた。  玄瑞が最初の手紙を届けたそのころ、吉田松陰は野山獄を出て杉家の幽室に入り、約半年間をすごしている。父百合之助や兄梅太郎はじめ杉家の人々は、幽閉の身となった松陰をなぐさめる方法を、あれこれ思いめぐらした。 「獄中で囚人共に孟子を講じたそうだな。その続きをわれわれにしてくれぬか」 「野山屋敷では、万章上篇までやりました。それ以後なら私も望むところです」  思った通り松陰は喜んで承諾した。  六歳で軍学師範の吉田家を継いだ松陰は、みずからも学ぶと同時に、人にものを教える立場におかれた。幼年時代から教師としての宿命を負って、かれは成長したのだ。十一歳のとき、藩主毛利敬親の前で「武教全書」戦法篇を講じていらい、あらゆる人の前で教えた。教えることは、使命であり、生甲斐だった。  どこにいても、松陰は謙虚な姿勢で、「教える」のである。それは獄中にあっても例外ではなかった。野山獄で同囚を集めて孟子を教えるときも、前夜おそくまでかかって想を練り、講義の草案を用意した。  父や兄や叔父玉木文之進までが、聴講したいと膝を乗り出したとき、松陰の心は躍った。文之進などは、かつて松陰の師であった人だ。その師をはるかに凌駕《りようが》する学識をたくわえていたから、立場は逆になったのだが、聴講を申し入れるかれらの目的は、自由を失った松陰をなぐさめ力づけることであった。向学の一族らしい発想である。杉家の幽室における松陰の開講は、やがて重大な意義を加えることになる。歴史を展開させる長州の俊才を養う松下村塾は、この杉家でのささやかな講座を出発点としたからである。  それは松陰が獄を放たれた翌々日の安政二年十二月十七日から早くも「万章」下篇首章をもって開講され、二十四日に下篇を終った。翌年三月までは、松陰の希望で読書・著述にあてられたが、その月の二十一日、新しく近隣の若い者も聴講を申し入れてきたので、それではと続篇の「告子」にはいり、ついに六月十三日、「尽心」にいたる孟子全書を講じ終えた。  松陰が玄瑞の手紙をひらいたのは、その直前である。  松陰からの返事は、意外に早くきた。六月三日付けだった。  胸をときめかしながら、封を開いた。自分が送った手紙と同じくらい部厚い返書だと思ったはずで、実はその手紙がそっくり同封してあるのだった。見ると欄外に「久坂生の文を評す」とあり、細かい字でギッシリ何か書きこんである。  外部と書簡の往復はすまいと誓っているので、返事は書きたくなかったが、それでは来意にそむくので、手紙を返却するかたちでお答えする失礼を許されたいと冒頭に断り書きしてあった。 「君は、自分のことを私は知らないだろうというが、そうではない。私の師山田宇右衛門先生から令兄玄機のことは詳しく伺っていたのだ。私は玄機という人物に会いたいと思っていたが、悲しいことにその機会を得ないままかれは逝ってしまった。玄機に弟があるということも知っていた。かれもまた奇士だと聞き、せめてその玄瑞に会いたいと望んだのだ。しかし、そのことも諦《あきら》めていたところ思いがけなく君の文章を読んだ」  このあたりまでは、玄瑞を喜ばせた。しかも兄玄機に松陰が会いたかったといい、その死を惜しんでくれることが、何よりもうれしいのだ。だが、それに続くあとの文面を読んでいくうちに、玄瑞の顔色が変った。かっと血が逆流して、いったんは朱をそそいだようになったが、しだいに蒼白となり、唇を噛んで呻きはじめた。 「久坂生の文を評す」と題する松陰の返事は、全面玄瑞に対する嘲罵《ちようば》で埋められていたのである。  松陰はいったい何を書いてよこしたのだろうか。その一部をのぞいてみる。むろんこれも口語訳したものである。  久坂生の議論は、まことに軽薄であり、思慮浅く粗雑である。至誠、中《うち》から発する言説とは、とうてい思えない。  世を慷慨するかにみせて、実は名利を求めんとする輩《やから》と少しも変るところがないではないか。私は、この種の文章を憎みこの種の人間を憎む。こういうからには、その理由を述べなければなるまい。これを読んで、よく考えてもらいたい。  君は北条時宗の事跡をもって国勢を論じようとしているようだ。たしかに時宗も一時の傑物であり元使を斬ったのもひとつの決断だが、それは今の時代においてはすでに「死例」というべきものである。  それを持ち出して、今さらメリケンの使節を斬れなどとは、浮薄の説にすぎない。あるいはもし、斬るのなら嘉永六年にやればよかった。安政元年では、もう晩《おそ》いのだ。いわんや安政三年の今に至っては、全く晩の晩である。事機の去来は影の如く、響きの如く変転する。往昔の死例をとって、こんにちの活変を制しようなど笑止の沙汰だ。思慮粗浅とはこのことをいうのである。事を論ずるには、おのれの立場から見《けん》を起こせ。換言すれば、着実であれということだ。  その身将軍ならば将軍の立場から見を起こすべく、大名なら大名、百姓なら百姓、乞食は乞食の立場から起こさねばならぬ。どうしてわが立場から遊離し、わが身から離れて論ずるのだ。今君は医者ではないか。よろしく医者の立場で考えるのがよろしい。私は囚徒である。まさに囚徒の立場で考えるであろう。  聖賢の貴ぶところは議論でなく実行だ。つまらぬ多言を費すより至誠を積みたくわえるがよかろう……。  ほとんど完膚なきまでにやっつける、痛烈なことばを、松陰は書きつらねて、玄瑞の手紙を突き返したかたちである。思いあがった玄瑞の文章が、よほど気に障《さわ》ったとみえた。 「慷慨気節にして天下の豪傑の士」と、玄瑞は松陰のことを手紙の中で持ちあげている。それさえも松陰には腹立たしいのだ。その上「メリケンの使節を斬る」などと、しきりにいきまいているのも片腹痛い話であった。  松陰がペリーの軍艦に辞を低めて近づき、海外へ渡ろうとしたことを、暗に責めるようなところも言外にふくませている。玄瑞としては、意識して皮肉っているわけでもないが、松陰の行動に対する批判めいたものは事実抱いていたのだ。これが松陰の逆鱗《げきりん》にふれたのかもしれない。  しかし、逆鱗にふれたといえば、玄瑞にしても、怒りの眉《まゆ》を逆立てた。松本村の方向を睨《にら》んだまま、しばらくは身じろぎもしなかったが、やがて机にむかうと、たたきつけるように反論を書きはじめた。 「再び吉田義卿に与ふる書」と題しているから、前の「義卿吉田君の案下に奉呈す」とはガラリ違った筆の姿勢をあらわしている。玄瑞にとって、このとき松陰はすでに敵なのであった。撃ち砕くべき相手である。  少しく長い引用になるが、しばらくこの二人の激しい論争を要約しながら追ってみよう。  六月六日に|辱 《かたじけな》く尊報を賜りましたが、読了憤激し、一言申さざるを得ない。 「時宗は以て国勢を論ずるに足らざる也」とは何事ですか。当節はだれも気ちぢこまり、力抜けして、わが国の情勢は日々に退嬰《たいえい》的になりつつある。  それにひきかえ艦を巨にし、砲を大にして、米英夷は進攻しようとしている。「我れ退くこと一歩なれば、即ち彼の進むこと一歩」と古人はいいました。本邦の勢いは、まさに一歩ずつ退いている。  時宗元使を斬るや、天下の人はいった。「元は必ず来寇《らいこう》す」と。かくて弓に絃を張り、剣を砥《と》いで寇を待ち、その来寇するや一戦でこれを殲滅《せんめつ》した。  今でもこの如くあらしむれば、ちぢこまっている気必ず振い、沮喪《そそう》している力は必ず伸びてくるであろう。かくて我が守りに余力があれば、彼も敢《あ》えて進攻はしないにちがいない。しかるに「使を斬るの挙、これを癸丑《きちゆう》に施すべくして、事機すでに失す」などと傍観、坐して敗るるを観ているのは、果して如何なるものであろうか。 「兎を見て犬を顧みるも未だ遅しとなさず、羊を失ひて牢を修補するも未だ遅しとなさず」というではないか。必ずしも「事機すでに失す」とはいわれませぬ。米使を寸断して、諸外国に武威を示すべきである。天下の大計はこれにおいてなく、何で「時宗は国勢を論ずるに足らず」などといい得ようか。  義卿がいう通り、たしかに小生の任ずるところは医である。弓馬刀槍でなく、舟艦銃砲でもない。大将でもなく使節でもない。一医生の身で天下の大計を論ずるは分を越えたことであるとは、義卿の言を待つまでもなく承知している。しかし、敵と剣を交え互いに巨砲発するにあたって、区々たる刀圭を執って、むなしく死するは天下国家のために死するのではなく一身のために死んだことにならないだろうか……。  自分は医生としてこのまま死ぬことになるのではないかと怏々《おうおう》と思い悩んでいたが敢えて他人には語らなかった。語っても無益だと思ったからだ。しかし義卿は、豪傑の士と聞いたので、ひそかにこの胸中を告げたのである。しかるに義卿は、小生を責むるに「慷慨を装ひ気節を扮する者」を以《もつ》てした。その不遜《ふそん》な言辞に屈するものではない。医生が天下の大計を論じたとて人は必ずしも信じないであろう。 「口焦げ唇ただるると雖《いえど》も、天下に裨益《ひえき》なし」といわれるのはもっともである。  だが、小生の大計を論ずるは憤激の余りに出たことであり、強く責めるにはあたるまい。今、われに対する義卿の嘲罵、妄言《もうげん》、不遜は何と甚しいことであるか。義卿にして、この言あるを怪しむ。先の日に宮部生が義卿を称賛し小生が豪傑だと思ったのも、みんな誤りであったようだ。  以上憤激の余り、覚えず紙に撃案した。再拝謹白。 「撃案した」というのである。  書き進むうちに、ますます腹が立ち、筆を持たぬ左手でこぶしを作り、机をたたきながら激しいことばを紙にぶっつけた。封をするのももどかしく、その反論をにぎると、玄瑞は夕日のさす城下を走り抜けて、松本村にむかった。汗だくになって、杉家に着くと文が庭を掃いていた。 「あ、久坂様」  と、文は手を休め、親しげな笑顔を、玄瑞にむけた。 「やあ」  いくらかはやさしい声で答えたが、頬は強張っている。この人も敵の妹だ。甘い顔ができるかといった調子で、 「これを義卿……先生にお渡し下さい」  大急ぎで手渡すと、後ろも見ずに引き返した。 (さあ、何といってくるか)  例によって待ち構えていたが、松陰からの返事はついに一カ月ばかり経ってもこないのである。肩すかしを食わされて、玄瑞の気持は、いよいよ穏やかでない。 (みんなは会え会えとすすめてくれるが、吉田という男、大した人物ではないのではないか)  などと内心毒づいていると、諦めていた松陰からの返事が届いた。外部との書簡のやりとりはしないつもりだったという松陰が、みずからのその禁を解いて、あきらかな書状のかたちをとったものを送ってきている。挑戦を受けて立とうという気構えが、感じられた。 「さきに再書を辱うした。もっと速く答えをすべきだったのに、ゆっくりしていたのは、怠けていたのではない。足下が軽鋭で、未だ深思せず、あわただしく憤激し不屈の言をなす故、これでは口舌で諭し得ないと考えたからである」  と、まず冒頭に釈明しているのが、また玄瑞の怒りをあおるのだった。 「軽鋭とは何だ」  思わず腹立たしいことばが、口をついて出る。 「しかしすでに一カ月余も経った。足下の考えも少しは熟したであろうから、試みに一言しよう」  松陰の、これもなかなか激しい追撃が始まる。 「時宗の挙は、これを癸丑の年に実行すべきだったかもしれないが、今では事機を失しているのだ。それでもなお足下はこれを行えという。それは、足下が時勢を知らないからだ」  松陰の反論は、まず玄瑞の「米使を斬るべきだ」という過激な主張への批判から始められている。  北条時宗が、元の使者を斬った故事にならって、アメリカの使節を殺してしまえという玄瑞の意見を、松陰は空論にすぎないとたしなめているのだった。  およそ英雄豪傑が事功を天下に立て、善謀を後世に遺したのは、志を大にし、その略を雄に、時勢をあきらかにし、事機をつかみ、変に応じて伸縮|張弛《ちようし》をもって事にのぞんだからである。  今や徳川幕府は、すでにアメリカをはじめ諸外国と条約を結んでしまったのだ。それを不可だとしても、わが方から断交すべきではない。国家間の信義を失うことは避けなければいけない。外国とはひとまず平穏な関係をつづけ、その間にわが力をたくわえ、またアジア諸国、とくにシナと提携し、インドにも手をさしのべて連合をかためたのちに、欧米列国と対立すればよいのである。何ぞ必ずしも区々たる時宗を真似て米使を斬り、幼稚に愉快がることがあろうか。  足下は一医生でありながら空論をもてあそび、天下の大計をいう。そこで私は足下を誘うて、正道に進めるように、前回もあのように反論した。しかるに足下はそれが分らず、なおいたずらに坐して論ずるばかりだ。私が大いに惜しむのはそのことである。  足下の滔々《とうとう》千言の書も、要するに弁にすぎぬ。一事として実行に基づくものはないではないか。しかも、憤激の余りこれを心に発して激案すという。怏々|鬱々《うつうつ》として胸迫り心結ばれて、止むことを得ず来り訴えるというのか。まことに気の毒というほかはない。  そこで今一度足下のために、その胸をひらき、その心を広くし、ことごとくその空言の病弊をとり去り、これを実践|躬行《きゆうこう》の域に帰らしめようと思う。謹んで聴け……。  松陰の反論は、しだいに語調激しく、このあともなお続くのである。生意気な小僧を、何としても組み伏せてやろうとする松陰の筆勢は、ますます鋭くのびていく。徹底的にやっつけられたかたちだが、玄瑞もまだ負けてはいなかった。三たび反論の筆を執るのである。  玄瑞の過激な攘夷《じようい》論を、熊本の宮部鼎蔵は、高く賞揚した。その宮部がぜひ会うようにと奨《すす》める吉田松陰なら、文句なし同調してくれるだろうと、玄瑞は予想していた。その識見を褒《ほ》め、激励してやまない返事がくるものと、ひそかに期待していたのに、頭ごなしに叱りとばすようなことばが返ってきたのだ。反駁《はんばく》すればするほど、激しく打ち返してくる松陰の批判を浴びて、玄瑞はようやく困惑を感じていた。天才児とチヤホヤされ、孤独な境涯に同情もされ、甘やかされてきた玄瑞が、初めて突きあたった大きな壁だった。  怯《ひる》みかける自分を叱咤《しつた》して、玄瑞はあくまでもその壁にむかって突撃をこころみる。それはもう駄々っ子のような反抗だが、さすが異才玄機の弟らしい筆勢は帯びている。  実は、松陰からの二度目の返書は、土屋蕭海の手を通じて玄瑞に渡された。 「なかなか派手にやっちょるようだな」  と蕭海は、眉をしかめて松陰の返書を読んでいる玄瑞を見て笑った。かれは内容に立ち入ろうとはせず、松陰と玄瑞の激論を、そばから楽しんでながめているようだった。 「まだ反論するのかね」 「します。許せないのです」 「どう許せないのだ」 「私を空理空論をもてあそぶ者というのですから、一言なきを得ません」 「松陰は、学者でも実践の人だ。それなりに行動した上で、君を批判しておるのであろう。松陰の師佐久間象山は、有名な開国論者だが、みずから外国へ出かけ実地にたしかめようとはしなかった。松陰は、いったん外国と戦えと主張したが、条約が結ばれたと知ると、とにかく外国へ渡り、かれらの国情を把握しようと、それを行動に移した。失敗はしたが、すくなくとも空論をもてあそぶ人物でないことはたしかであろう」 「では、土屋先生も私を空論の徒といわれるのでありますか」 「いやいや、まあ私にまで喧嘩を吹きかけないでくれ」  と蕭海は笑って手を振り、 「どうだ、ぼつぼつこのあたりで、あっさり降参して、松陰と会うたらどうか」 「まだ言いたいことがありますから、屈したくはありません」 「それもよいであろうが……」  と、蕭海は意味ありげに何かいいかけたが、思いなおしたように口をつぐんだ。そのため玄瑞は、もうひとしきり暴れることになるのだが、三度目に書いた「吉田義卿に与ふる書」の冒頭は、やや穏やかな調子になった。蕭海とのやりとりで、いくらかは気持をほぐされたのだろう。玄瑞がその反論を書いたのは、七月二十四日だった。 「きのう土屋氏へ寄って、十八日付けの貴書を得ました。必ず小生のために胸を開いて下さるとのこと、ありがたいお言葉ですが、残念ながら、不肖の惑《わく》いよいよつのるばかりで、一言申し上げずにはおれないのです。敢えて議論を好むのではなく、惑を氷解していただきたいからであります」  一応は教えを乞うという謙虚な姿勢を、初めてみせたが、それでもあとに続けられた文面は、しだいに激昂した外国排撃に終始している。 「徳川氏がすでに条約を結んでいるのだから、これを絶つのは信義を失うとあなたはいわれる。これが問題なのです。すでに人禽《じんきん》雑居し、通商は行われているが、果してわれに利ありや。事実は外国人だけが利をむさぼり、わが国はその害を被《こうむ》るばかりではありませんか」  この中で玄瑞がいう「人禽」とは、日本人と外国人をさしている。禽とは鳥獣の総称で、つまり異人は人間に非ずという排外思想からきているのだ。外国に対する憎悪と蔑視が、一時に噴き出したようなかれの文章である。このきわだった対外的偏見は、ついに死ぬまで玄瑞のものであった。兄玄機をはじめ両親の死が、黒船来航と短絡した少年の魂は、消しがたい傷痕をのこしたまま玄瑞の意識下に沈められたのだろうか。  松陰にはまだそうしたかれが理解できなかった。どのようにしても米使を斬り殺すのだといきまく十七歳の書生論に容赦ない痛撃を加えるのである。  玄瑞もまた執拗に松陰の反論に食いさがっていく。  文書を往復させるかたちで長々と続いた二人の激論が、やっと決着する日がきた。  三度目の玄瑞の反論に対して、三度目の松陰の反駁《はんばく》を述べた「久坂玄瑞に復する書」は、その年(安政三年)八月に入ってからかれの手に届いた。やはり土屋蕭海の家で、それを受け取ったのである。蕭海の前で玄瑞は封をひらき、鋭い視線を書面にそそいだ。 「三たび書を|辱 《かたじけの》うした。拝読一番、私がこれまで疑っていたことは氷解した。足下が米使を斬るとの論を掲げられるのを、私は空論と思っていたが、前言を取り消したい。足下を空虚装扮の徒としたのは、私の誤りであった」  これまでとまったく違う書き出しである。まるで突然といった感じで、松陰が折れているのだ。 (ついに屈伏させてやったぞ)  勝ち誇った目を、玄瑞はあげて蕭海を見た。かれはしかし、知らぬ顔で、開け放れた障子窓のむこうを染める青空をながめている。詩句をまさぐっているのだろう。  玄瑞は、ふたたび文面に目を落とした。読み進んでいくうちに、浮かべていたかすかな笑顔が消え、たちまち緊張した表情となる。 「願くは、足下みずから断じて、今より着手し、米使を斬ることを任となせ。私は足下の才略を拝見しようではないか」  そんなにいうのなら、アメリカの使節を斬ってみせろと、松陰は論法を変えたのである。北条時宗の故事にならえと主張する玄瑞との論争が水かけ論になるとみた松陰は、一転|筆鋒《ひつぽう》の向きをあらため、空論でないことはわかったから、実践で示してほしいというのだった。  足下が見事に斬使の功を成就したら、それから縦横に大活躍するのに何ら困難はないことを私は保証する。ひとつ存分にやってもらいたい。  癸丑のころ、私も微力ながら攘夷を企てたことがある。しかし、才なく略なく、百事ことごとく瓦解した。そして下田から米艦にむかう踏海の挙を決したが、これも失敗してついに捕えられた。およそ私の無能はこのごとくである。そこで私は旧見を洗い去って、新しい計画を立て、心を聖賢の道に潜め、思いを治乱の源にいたすことにした。それは前二書で述べた通りだ。  だが、足下は敢えて賛同しなかった。それはみずからの才略を以て事を為し得るという自信あってのことであろう。まことに私などの及ぶところではない。  久坂生よ、真実その言に違いがなければ、それを証明してもらいたい。足下がいう通りになるなら、実に天下万民の幸せというべきだ。しかし、もしその言を達成できなかったら、無能なる私と何ら異なるものではないぞ。そのときこそ、私はまさに足下の空虚装扮を責めたてるであろう。  玄瑞は、ついに一言もなく、うなだれてしまった。止《とど》めを刺された恰好である。 「どうした久坂」  蕭海が、ようやく声をかけた。かれはこのとき二十八歳。長州で文章第一といわれ、松陰も詩文の批正を求めた人物で、重厚な人となりを慕われた。 「そんなにしょげることもあるまい。実は今まで伏せておいたが、これを読んで見なさい」  笑いながら、蕭海は一通の手紙を取り出した。  蕭海がもたらしたそれは、やや悪戯《いたずら》っぽい笑いである。そして取り出して見せた手紙というのが、松陰から蕭海にあてた六月三日付けのものであった。六月三日といえば、松陰が最初に玄瑞へあてた返書と同じ日だ。つまり松陰は、その日蕭海にあてても手紙をしたためていたのである。今まで伏せておいたというのはその手紙の内容だったのだ。  読めといわれ、玄瑞は何気なく目を通したが、たちまち驚きの声をあげてしまった。 「参った。こういうことだったのですか」 「そういうことだ」  と蕭海も声をあわせて笑った。  久坂生、士気凡ならず。何とぞ大成致せかしと存じ、力を極めて弁駁致し候間、是にて一激して大挙攻寇の勢あらば、僕が本望これに過ぎず候。  もし面従腹腓《めんじゆうふくはい》 の人ならば、僕が弁駁は人を知らずして言を失ふといふべし。この意、兄以て如何と為す、如何となす。  六月三日 蕭海学兄 松陰生  松陰は玄瑞の手紙を読んで、すぐに非凡の才を見てとったのである。しかしその文面には、得意気な顔ものぞいている。受け入れて穏やかにたしなめる方法もあるが、このさいはひとつ衝撃を加えてやれと思ったのである。  どのような反応を示してくるか。こっぴどくやっつけた返書を玄瑞に与えると同時に、松陰は紹介者である蕭海に対し、そのことを断わっているのだ。さすがに慎重に儀礼を尽しているところが、松陰の人柄である。  かれは「一激して大挙来寇」してくることを期待した。面従腹腓の態度をとれば、もう相手にはしなかっただろう。生意気なら生意気らしく、立ちむかってこいというのである。果して、玄瑞は怒り、噛みついてきた。たたきのめしても、起きあがり武者ぶりつく玄瑞の反論に、松陰もいくらかは本気で筆鋒を突き返したが、三度目には切札を用いて、組み伏せた。 「あれはわざとですか。私をためされたのでありますか」  ちょっと気抜けしたものの、玄瑞はいささか憮然《ぶぜん》とした面持ちだ。考えてみると、別の意味で腹立たしくもある。 「ためしたというだけではあるまい。君の思いあがりを矯正しようとする誠実な意図もあることをくむべきだ」 「土屋先生も、私が思いあがっておるとお考えですか」 「思わぬでもないな。だが、それも若さというものであろう。だれにも身に覚えのあるところだ。とにかく世の中は広い。開けて通さぬ者もあるちゅうことを忘れてはならないのだ」 「………」  無言で、玄瑞はうなずいた。九州旅行いらい、また萩に帰ってからも、この二、三カ月のうちに、多すぎるほどのことを学んだという思いがある。蕭海には、そんな玄瑞が、急に大人びたようにも感じられるのだ。 「松陰が会いたいというておる。この次行ったときは、杉家の玄関で踵《きびす》を返さず、幽室をのぞくことだ」 「お会いして非礼も詫びなくてはなりませんね」  そういったが、なぜか玄瑞はただちに、行こうとはしなかった。松陰との出会いのときまで、それからさらに一年という時間がおかれたのである。   辺境の火  杉家の幽室における松陰の講義は、安政三年六月十三日に、『孟子』全篇を終了した。  玄瑞との論争もこのころから始まったのだ。松陰としては講孟が終ったあとの、ほっとした気分で、しきりに食いついてくる書生を相手に筆をとったともいえる。  いきりたつ玄瑞をねじ伏せた八月、松陰は新たな論敵を迎えた。これは年若い玄瑞と違って、相当に手強い相手である。論争らしい論争といえば、このときが最初であろう。  ──黙霖《もくりん》。  一向宗の僧である。安芸国長浜の出身で、松陰より六つ年上だった。奇僧などともいわれる。十八歳のとき聴力を失って唖となったので、文通または筆談によって諸国の学者や志士たちと意見を交わしている。  四十余国を遍歴し、三千余人に会ったという。ペリー来航以前の嘉永四、五年ごろから討幕の志を抱いたというから、筋金入りの尊王家である。月性と交流があり、したがって玄瑞の兄玄機も黙霖と会っているはずだった。豪放といわれた月性に輪をかけたような過激論を吐く坊さんである。  松陰のことを聞いた黙霖は、まだ野山獄にいたかれのところに文通を申し入れ、それいらい手紙をやりとりしている。二人の論争が激化したのは、ちょうど一年経ったこのころである。  勅許を得ずに外国と条約を結んだ幕府に対する松陰の姿勢は「諫幕《かんばく》論」であった。つまり批判し、諫《いさ》める立場をとろうとする。それではだめだと、黙霖はいうのである。幕府は誅《ちゆう》せられるべきだと主張してやまない。 「僕は毛利家の臣なり。故に日夜毛利に奉仕することを練磨するなり」  と松陰はいう。毛利は徳川封建制下にあるが、同時に「天子の臣」でもある。だから自分の立場は、毛利家や徳川幕府に非があれば、諫主・諫幕のために誠意をもって尽す……。  そんな松陰の考え方を、黙霖は冷笑して、 「われわれは王民ではないか。徳川の民ではないのだ。徳川氏は権力を強奪した存在であるから、この“姦権”を誅すべきだ」  と強硬な議論を吹っかけてくる。  この時点で、松陰は士籍を失っているのだが、父杉百合之助は藩士であり、その庇護《ひご》下におかれている。やはり封建家臣としての意識から脱しきれないのだ。  松陰と黙霖との論争は、文字通り火を発するほどに激しく戦わされた。「心血をそそぎこの大論を発した」と松陰が述懐しているほどである。松陰にとっては、これまでにない自分との戦いでもあったのだろう。曖昧な諫幕論にとどまるか、それを脱皮して討幕論にひきしぼるかの境界をさまよいつづける松陰に、黙霖はなおも執拗な痛論を書きつづり、送りつけてくるのだった。それこそ松陰のいう誠を尽して迫る黙霖の説得に、ようやく心を動かした。 「終《つい》に降参するなり」  と、松陰がいったのは、黙霖の至誠の前に屈服したという感じをあらわしている。いわば簡単に玄瑞を組み伏せた松陰も、奇僧黙霖の前には、頭《こうべ》を垂れざるを得なかった。松陰の思想に重大な影響をもたらした論争である。  玄瑞が松陰の前にあらわれるまでには、このように松陰自身も精神を大きく屈折させる過程をたどりつつあった。  松陰が、論争好きであったわけではないだろう。だれかれとなく議論を吹きかけるのではない。自分の思想に火花を発する相手が接近してきた場合にのみ、かれは猛烈な覇気をもって戦った。  玄瑞に対しては、求められてその文章を意識的にきびしく批評し、反論に応じただけだが、それでも論争に近いまでの熱を帯びた。この若者がちらつかせる非凡な資質に感応したからだといえよう。  さて、僧黙霖との激論が一段落したあと、松陰はまた一人強力な論敵に立ちむかうのである。  ──山県|太華《たいか》。  藩校明倫館の学頭であり、長州藩における朱子学の頂上に立つ大儒である。すでに多くの著作を持ち、中央の学界にも知られた学者であった。  安政三年、太華はすでに七十六歳である。松陰は明倫館教授時代、学頭だった太華と一応の面識がある。その縁を頼って、太華のところに『講孟剳記《こうもうさつき》』を届け、批評を乞うた。  これは野山獄中で囚人を相手に、また杉家で親族たちに講じた『孟子』の講義草稿をまとめたものである。松陰は、自分の孟子解釈を、この高名な儒官がどのように評価してくれるかを知りたいと思った。  太華の目から見れば、二十七歳の松陰は、まだ書生にしかすぎないだろう。ちょうど玄瑞が松陰に論稿の批評を求めた情況に似ている。しかも、その批評が不満で、反論をぶっつけていくところもそっくりとなった。  松陰の求めに応じて、太華が返してきたのは、まさに酷評というべきものだった。それはきわめて詳細かつ長文の批評だが、松陰の怒気を誘うほどの内容である。太華としては、片腹痛いといった気持もあったのだろうが、あるいは松陰の奔放な孟子解釈を見て、曲学阿世の徒と思ったのかもしれない。  この『講孟剳記』は、のちに剳記ではおこがましいとして、『講孟余話』と改題した。松陰の主要著作のひとつとして遺されている。 『講孟余話』は、松陰自身もいっているように「随話随録」であり、一般の儒者による講孟とは根本的に違うのである。いわば孟子の説をまないたに載せて、松陰流に料理してみせ、独特の世界観を展開したものだ。孟子に共感し、また反撥《はんぱつ》しながら、おのれの「志」を語ったにすぎない。  訓詁《くんこ》の学風を堅持する明倫館の学頭であり、専門学者の太華には、目に余る暴論ともうつっただろう。ここで太華と松陰の論争が始まるのである。 『講孟剳記』で展開する松陰の論説中、最も注目されるのは、「梁恵王」下・第八章にかかわる「放伐論」である。  中国における易姓革命観を述べたこの「湯武放伐の事」は、徳川幕府のすこぶる嫌悪し、警戒する項だった。松陰は、それを持ち出しているのだ。 「もしそれ征夷大将軍の類《たぐい》は、天朝の命ずるところにして、その職にかなふ者のみ是《こ》れに居ることを得。故に征夷をして足利氏の曠職《こうしよく》の如くならしめば、直ちに是れを廃するも可なり」  曠職とは職務の責任を尽さないことである。松陰は足利氏を例にとっているが、要するに徳川幕府でも失政があれば、これを放伐してよいというのであった。この放伐論は、儒教からくる討幕思想の一根拠をなすもので、松陰がそのことに触れた最初の論文がこれである。  山県太華をおどろかすに充分だった。太華がそれをどのように評したかというと、正面から否定するのではなく、いわば挙げ足をとって、こきおろした。  松陰は、易姓革命観における「天が命じた主旨」の天とは、日本ではとりもなおさず天朝のことだと述べた。「天《あま》つ日嗣《ひつぎ》たる天皇」が天なのである。 「此の大八洲《おおやしま》は天日の開き給へる所にして、日嗣の永く守り給へるものなり。故に億兆の人|宜《よろ》しく、日嗣と休寂《きゆうせき》を同じうして、復《ま》た他念あるべからず」  すると、太華が「天日とは何ぞや」と、きびしく論難するのである。  天日とは太陽のことをいうのか。または太祖照臨の徳を以て太陽にたとえたことばなのか。もし太陽を指していうのなら、太陽は火精であって、われわれの住む大地球に倍すること幾許《いくばく》かを知らぬ巨大な物体であり、地球を去ること幾万里かを知らぬ遠いかなたに存在する。昼夜外天を一周して、あまねく世界万国を照らすのだ。これを以て独りわが一国の祖宗ということは、きわめて大怪事である。  このような所説は、神道者、国学者流のいうところで、人の信じないことを学者は口にするものではない。  太華は、儒家らしい合理主義の目を据えて、ひややかに松陰の論説を衝き崩そうとしているのだった。  たしかに放伐をいうなら、やはりまだ中国のほうが論理的なのである。たとえば孟子の「国家にあって最も重要なのは人民、次は社稷《しやしよく》、君を軽しとなす」という民本観念である。  さらに易姓革命でいう革命の根拠たるべき「天意」の所在が、人心に帰趨《きすう》されるという論理である。  この時点で、松陰にはまだ変革に対する人民への認識が欠如している。松陰がやがて、草莽崛起《そうもうくつき》をとなえるまでには、もう一段階の過程を必要とした。  太華は、孟子のいう放伐論の何たるかを把握していたにちがいないが、親幕的なこの学者は、それについて一言も論評を加えなかった。斜《はす》に構え、天日とは太陽ではないかといった揶揄《やゆ》をもって答えるのである。 「日本の国土は幕府の私領か」という孟子「公孫丑」下・第八章にかかわる松陰の徳川封建制否定論に対しても、太華はせせら嗤《わら》うように、一蹴する。  太華は、諸大名の領国成立の事情を長々と述べ、「天子より是れを賜いたるにも非ず」「天下の武将たるを以て、自然に天下帰して先代に継ぎてこれを有《も》ち候……」と、国土は天下のものだとする松陰の主張を否定してみせるのである。合理主義的に、現実的に論じていけば、幕府の存在は正当化されていく。さすがに太華は老獪《ろうかい》な論客だった。  理路整然としているようで、何かまやかしがあると松陰は思うのだが悲憤慷慨している割には、批評に対する反論の歯切れが悪い。 「此の一句、是れ太華の頭脳、皇道・国運を以て己が任を為す者色を正しうして之れを責めざるを得ず」  この程度では、太華ほどの学者、ビクともしないだろう。要するに二人の立論は、その次元がちがっているのであり、論争のていをなし得ないものともいえた。  松陰は変革に対する「志」や「大義」を述べている。太華はといえば、保守的で、長州藩といわず幕府に対しても御用学者的存在である。もともとそのような人物に、松陰が批評を求めたこと自体まちがっていたのだが、互いの対照的な立場が鮮明に浮かび出たことで、藩内に新しい問題を呼びおこすきっかけをつくったとはいえるだろう。松陰は『太華翁の講孟剳記評語の後に書す』として、次のようにも反撃している。  翁は、からだの無理を押して批評を書いて下さったので感謝している。しかし、その論ずるところは間違いだらけである。  大意は、幕府を尊び、朝廷を押えようとするものでしかない。太華は朝廷を罵《ののし》り、これをそしり、ひとえに人々がその徳を慕いはしないかと恐れているのだ。  私は生まれてこの方、かつて幕府を軽蔑したことはなく、また甚だ朝廷を尊んでもいるので、それを太華は排撃するのであるらしい。太華が私を排撃するなら、それを避けようとは思わない。  太華の「諸侯は幕府の臣たり、天朝の臣に非ず」というが如きはそれを読む者をして切歯させずにはおかないであろう。私は皇道・国運のために発言しようとしているのだ。そのために幕府から刑罰を加えられようと、それを避けるものではない……。  ともあれ『講孟剳記』を山県太華に見せ、その批評を受けたことは、松陰にとって、黙霖との論争のあとにおとずれる重大な転機にもうひとつ発条《バネ》を加える結果とはなっただろう。太華の幕府擁護論への反撥が、諫幕論に足踏みしている松陰を「一筆誅姦権」の討幕論に、大きく一歩近づけたのである。  安政三年十月六日、松陰は昂揚した論稿の筆をおさめ、ほっとした表情で、幽室の窓に映える紅葉の色に視線を投げた。  講孟にひきつづく『武教小学』の講義も終り、何か新しい講座を開こうとしていた。松陰の関心は、江戸遊学いらいのことだが、歴史に傾いている。 「春秋左氏伝から始めようか」  茶を運んできた増野徳民《ましのとくみん》に、笑いながら声をかけた。 「シュンジュウサシデンでありますか」  徳民は、首をひねった。岩国の奥地|山代《やましろ》の村医者の子で、十六歳になるサイヅチ頭の少年である。杉家に寄宿して聴講するこのような人物も、すでにあらわれている。 「春秋左氏伝とは『春秋』の解釈書である。春秋三伝というてな、左氏・穀梁・公羊《くよう》の三つがある。その中の最も有名なのが左氏伝じゃ」 「はあ」  増野徳民は、あどけない顔で、松陰を見上げた。 「左氏伝が、終れば、資治通鑑《しじつがん》もやらねばなるまいな。これは歴代為政者の鑑とするに足るとの意だ。周・後周の史書で……」 「先生」と徳民が、松陰の話をさえぎった。 「先生は、なぜ髪に櫛《くし》を通されないのでありますか」 「勉強に忙しゅうて、その暇がないのである」  無邪気な徳民から、その蓬髪《ほうはつ》を指摘されたので、松陰は苦笑した。外出しないというせいもあったが何日も頭髪に手を入れないで過ごすことが多い。もともと身形に構わない性格で、袖《そで》で鼻汁を拭いたりするものだから、その部分が垢《あか》光りしている。  九州や江戸を股にかけて飛び歩いているころは、それなりに旅装を整えることも少しは気にかけていた。その後、獄中生活を経て、杉家の幽室にこもるようになると、外見にはほとんど無頓着となった。──  安政三年の秋もようやく深まったころから、松陰による『春秋左氏伝』の講義が始まった。聴講者の顔ぶれは、かなり増加している。  父兄親戚をのぞいて、杉家に集まってきたのは次の人々である。  高須滝之允  佐々木亀之助  佐々木梅三郎  中谷正亮  倉橋直之助  増野徳民  佐々木謙蔵  吉田栄太郎  高橋藤之進  岡部繁之助  松浦亀太郎  このうち多くは、松陰が明倫館教授であったころ入門した兵学の門下である。杉家での講義が始まったと聞きつけ、城下から松本村に足をのばしてきた藩士たちだ。  まったく新しく松陰のところにきた者といえば、徳民のほか吉田と松浦がいる。  吉田栄太郎は、杉家の隣に住む足軽の子で、のち稔麿を名乗る、池田屋の変で横死したのはこれから八年後だった。  次に松浦亀太郎は、近くの魚屋の子である。画家を志していた。絵描きに必要な教養とされた漢文を習うのが目的だ。松洞と号す。  松浦松洞は、ついに画家とならず、松陰の感化を受け志士として活躍するが、六年後自殺した。今に遺っている松陰の画像は、松浦が描いた。また剣を持った月性の像も、松浦の筆になるものである。  松陰は、徳民に無咎《むきゆう》、栄太郎に無逸《むいつ》、松洞に無窮《むきゆう》という号を、それぞれつけてやり可愛がった。かれらをまとめ三無とよぶ。 「三無生なる者あり。窃《ひそか》に来りて吾に従《つ》いて学ぶ」 『幽室文稿』の中に、松陰はそう書いている。 『春秋左氏伝』『日本外史』『資治通鑑』など、松陰自身も楽しむように講義が続けられるうち、安政三年は終った。  久坂玄瑞は、まだ白皙《はくせき》の顔を、松陰の前に見せなかった。  安政四年(一八五七)の春である。  前年、アメリカ総領事ハリスの着任で、江戸はいちだんと対外的な緊張の度を加えた。領事館は下田におかれているのだが、通商貿易をせまるハリスは、江戸城へ乗り込んで、将軍に直談しようと強硬な態度を見せていた。  幕府は老中首座堀田|正睦《まさよし》を外国御用取扱に任じて、ハリスとの商議にあたらせる一方、勅許を得る手だてを進めさせた。和親条約につづく通商条約の締結には、猛烈な反対の世論がわきあがっている。最高の攘夷主義者ともいうべき孝明帝が、それに勅許を与えるとはとうてい考えられないのである。  堀田は苦悩するばかりだった。病弱な将軍家定の後嗣をだれにするかで、紀州派と一橋派の暗闘は、ますます激化しつつある。一橋派をかつぐ薩摩の島津氏も動きはじめた。九州の南端に閉じ込められていた薩摩藩が、幕政の動揺につけ入って、中央に躍り出ようとする野心を弾けさせたときだ。  西南雄藩といわれるまでに成長した辺境の外様《とざま》大名が、土を掻《か》きのけて立ちあがる怪物の姿にも見える時代が近づいている。  薩摩と並んで一方に雄をとなえる長州藩は、これも辺境といえる本州西端に蟠踞《ばんきよ》して、機会をうかがっていた。しかしここではなお情況の成り行きを静かに見守る「観望論」を掲げ、藩としては傍観者の立場を一歩も出ないのである。  憂国の炎を燃やしているのは、吉田松陰だけであったかもしれない。いや、そうではなかった。素朴とはいえ海防論を高唱する僧月性がいる。そして、もう一人、まだ一介の医学生にすぎず、いささか幼稚な過激論をふりまいてはいるのだが、久坂玄瑞もいた。  松陰は、これからわずか二年半後に、江戸伝馬町の牢で処刑されるのである。そんな予感のひとかけらもない安政四年三月、松本村の杉家の庭をつつむ桜の木は満開の花をつけた。安政の暗い波濤が、血しぶきをあげて荒れ狂う直前の静けさに萩城下は、物憂い春の眠りを眠っている。  吉田松陰の講義のすばらしさを聞きつけて、杉家に集まる若者が増えつつあるというのに、玄瑞は訪れようとしなかった。松陰が、その玄瑞の噂《うわさ》を、門弟の中谷|正亮《しようすけ》から聴いたのは、三月の終りごろだった。 「山県半蔵が、若い者から、とっちめられているそうであります」 「太華の養子の半蔵かね」 「先生の講孟剳記を評した太華のことばを、受け売りして喋《しやべ》っているのを耳にした者たちが、食いついたらしいです」 「その者たちとは、どういう人々であろう」 「医学生の久坂玄瑞、氏家音熊などで、とくに久坂などは、連日半蔵の宅に押しかけて議論を吹きかけ、半蔵もついに音《ね》をあげたとか」  愉快そうに、正亮が笑った。  山県半蔵は、後年の|宍戸※[#「王+幾」]《ししどたまき》である。明治政府の司法大輔などをつとめ子爵に叙せられる。幕末慶応年間には宍戸備後之助を名乗り、長州征伐の幕使と広島で応接するなど活躍した。この当時は、太華の養子として、跳ね上がり者とみた松陰の激論を批判し、思わぬところから玄瑞らの反撃を浴びたのだろう。 「久坂は、山県半蔵と何を争うちょるのかね」 「天日《てんじつ》とは太陽をいへるにや、という太華の評語はけしからん、屁《へ》理屈ではないかと……。私も同感です」  中谷正亮は、『講孟剳記』を読んでいるし、太華評も知っている。正亮だけでなく、松陰と太華の論争は、いつの間にかかなり伝わっているらしい。 「それからやはり、諸侯は幕府の臣たり、天朝の臣に非ず、という太華の所論を、半蔵がその通り頑張るので、押しかけて論破しようといきまいちょるのですよ」 「半蔵は折れたのか」 「連日連夜やってきてがなりたてるので、まずそれに閉口したのかもしれませんな。なにしろ久坂の声はよく通る。詩を吟じてもなかなかのものでありますよ」 「正亮は、玄瑞とも親しいのかね」 「兄の玄機がかれをつれて、一度拙宅に父を訪ねてきましたのでそれいらいのつきあいです」 「私と論稿を取り交わしたことは話しておりましたか」 「あまり詳しくは知りませんが土屋先生のところで、ちょっと小耳にはさんだ憶えはあります」 「そうですか」  松陰は深く頷《うなず》いた。玄瑞が自分との論争を得意気に語らないところも気に入ったが、それよりも『講孟剳記』の太華評に憤慨してくれていることが、うれしかった。 「そのうち久坂をつれて参ります。会ってやって下さい」  と、中谷正亮は、松陰の胸中を見抜いたようにいった。 「ついでの時、立ち寄ればよい」 「久坂だけでなく、呼びたい連中が二、三おります」  正亮は、このとき高杉小忠太の悴《せがれ》晋作の顔を思い泛《うか》べていた。 「早いものだな、最初の江戸行きから、六年になる。あのときは世話になりました」  と、急に松陰は話題を変えた。 「それは、父にいうてやって下さい。去年七十二で他界しました」 「そうでした。市左衛門殿には厄介をかけながら、このような身で葬儀にも参列できなかったのだ。許してもらいたい」 「いや……」  正亮の目が、少しうるんだ。この人、松陰より二つ年上の三十歳だが、明倫館時代からの松陰の兵学門下である。  嘉永四年の春、参勤交代の藩主が江戸へのぼるとき、遊学生の松陰は中谷市左衛門の冷飯《ひやめし》ということで、それに随従した。二十二歳のときである。冷飯とは、その人の世話になるという意味だ。大組士百六十石の市左衛門は、長男の正亮と、その師にあたる松陰の二人を、行列に加えた。  江戸に出てから、正亮はおとなしく学問に励んだが、松陰は宮部鼎蔵らと出かけた東北旅行が脱藩行為となり、士籍を削られてしまった。あれから、まさに波乱の六年間が過ぎた。  正亮は、あくまで松陰を師と慕い、野山獄を出て杉家に幽閉されたかれが講義を始めたと聞くと、他の藩士にさきがけてやってきた。やがて松門の双璧といわれる久坂玄瑞と高杉晋作を、一門に引き入れたのは正亮である。  また玄瑞にとっては、忘れられない「ある役目」を受け持ったのも、この正亮であった。  中谷正亮が、杉家に久坂玄瑞を伴ってやってきたのは、その年の五月の末で、大雨の日だった。梅雨である。  玄瑞が、初めて松陰に書簡を出してから一年が経っている。やっと姿をあらわしたという感じだった。  その日は午前中薄曇りだったので、玄瑞は傘を用意していなかった。午後、正亮に誘われて、松本村に向う途中から、ひどい雨になった。 「私がさしましょう」  と、正亮の持っている傘をとって、背の高い玄瑞が右手でそれを支えたが、自分の左半身はずぶ濡れである。杉家に着いてみると、正亮は袴《はかま》の裾がわずかに濡れた程度だが、玄瑞は頭から浴びたようになっていた。 「悪かったのう」  そういって、腰の刀をはずすと、正亮は玄瑞を入口に立たせたまま、案内も乞わずに奥へ通ってしまった。  書見している松陰に、 「久坂をつれて参りました」  と告げ、部屋の隅に無造作に刀を立てかける。  松陰は、静かに顔をあげて、敷居のほうをながめたが、玄瑞があらわれないので、どうしたという表情で正亮を見た。 「ここへ呼んでよろしゅうありましょうか」  正亮は、つくったように生真面目な口調でたずねた。 「呼びなさい」  松陰が微笑した。 「では」  正亮は立って、台所のほうに行き、 「お文さん」と声をかけた。「玄関に濡れねずみになった男がおります。手拭を貸してやって下さい」  文はあわてて表に行き、ふりむいた玄瑞を見て、 「あら!」  と思わず叫んだ。 「久坂であります。その節は……」 「それでは、風邪を召しますよ。とにかくお上がり下さい」  やや躊躇《ためら》ったが、玄関横の小部屋に案内して、とにかく袴を脱がせた。重くなるほどぐじょぐじょになっている。  めずらしく松陰が出てきた。 「これは、吉田先生でありますか……」  玄瑞がその場にかしこまろうとするのを押しとどめて、着物も脱ぐようにいい、文には着替えを出せと命じた。 「遠慮するな、久坂」  横から正亮が口を出す。  観念したように、玄瑞は、濡れた薄物の格子|縞《じま》を勢いよく剥ぎ取った。女の肌を思わせるほどに白く、しかし筋肉隆々としてたくましい肉体が、仁王像のようにそこへ立った。松陰の浴衣をもってきた文は、部屋へ一歩踏み入れたとたん、ぽっと頬を染め、それを正亮の手にあずけると大急ぎでそこからいなくなった。  松陰は小柄だから、その着替えは、玄瑞に小さすぎる。脛《すね》をむき出しにした滑稽な姿で、玄瑞はおずおずと案内されるままに、幽室に入り、あらためて松陰の前に両手を突いた。 「見苦しいところをお目にかけました」 「まあ、そう堅くなることはない、これから裸のつきあいをするのじゃから、気になさるな」  機嫌よく、松陰が笑った。しかし、目だけは鋭く、玄瑞を観察している。 「一年ぶりだね、あれから」 「………」 「もっと早く会いにきてくれるかと、私は待っておった」 「土屋先生から、すべて聞かせていただきました。冷汗三斗の思いであります」 「私がためしたのかと、君はいうたそうだが、あるいはそうであったかもしれぬ。しかし決して愚弄《ぐろう》するつもりはなかった。手ごたえを、たしかめてみたかったのだ」 「いかがでありましたか。小生は先生から軽蔑されたと思うちょりました」 「私は人を軽蔑しない。憎むことはあっても」 「安心しました。小生はまだ先生から憎まれるほどの人間ではありませんから」 「安心もできませんぞ」  と笑って、松陰はいちだんと親しげな視線を玄瑞にむけた。 「君と初対面という気がしない」 「小生もであります」 「ところで、まだ米使を斬るつもりですか」 「はい」  玄瑞は、胸を張るようにして答えた。 「ほう、なかなかの頑質だな。さすが玄機の弟御だ」 「米使を斬るだけの力も今はありませんので、高声にそれを鼓吹することはやめました。いずれその機会がくれば、迷わず実践する覚悟はできちょります」 「それもよかろう。しばらくはとにかく学ぶことだな。学ぶことは多い」 「教えていただきとうあります」 「このごろ、皆で資治通鑑を繙《ひもと》いている。よかったら仲間に入りなさい」 「初学の身、よろしくお導き下さい」 「初学の者が、そこにもおる」  松陰は、いつの間にか、玄瑞のうしろに坐りこんでいる増野徳民を笑ってゆびさし、玄瑞に引きあわせた。 「久坂のはみずからいう初学だ。無咎《むきゆう》は、自他共にみとめる初学である」  中谷正亮が、冗談をいった。 「では、中谷さんは」  徳民が口をとがらすと、 「無咎と同じ」  正亮がすまして答える。湿っぽい幽室に、ひとしきり笑いが渦巻いた。  この幽室は四畳半である。仏壇と神棚、それに書架などもあるので、数人がやっと座れるくらいの広さだ。松陰の講義は、普通ここでおこなわれたが、人が多く集まったときは、隣の八畳の客間を使った。  聴講する者が、毎日決まってやってくるわけではない。役務に付いている藩士もいるし、明倫館に通っている者もいる。それぞれに時間を割いて、杉家に顔を出すのである。国事犯の松陰に近づくのを、他に憚《はばか》って、夜間こっそりあらわれる者もいた。──  玄瑞が初めて松陰の前に出たその日は、夕刻から、五人ばかりが集まり、幽室で講義を聴き、終ったのは五ツ刻(午後八時)だった。  雨は、すっかりあがっている。玄瑞は、生乾きの衣類を身につけ正亮と一緒に外へ出た。夕飯は、文がにぎったムスビをふるまわれた。 「この次行くとき、杉家に米を少しあずけておきなさい。われわれもそうしている」と正亮は教えてから「ところで、お文さんが、あんたに仇名をつけた、何とつけたと思う」 「さあ」 「お地蔵さまだとよ」  玄瑞の耳もとで、正亮が哄笑《こうしよう》した。  受講者の顔ぶれは、半数が毎日変っているが、松陰は構わずに同じ速度で先に進んだ。欠講した者は、少し早目に来て、前日聴講した者から大意を教えてもらうといった方法が最初のうちはとられた。  塾の形態が整うにつれて、学習は計画的に進められたが、塾生の学力にも差があるので、松陰一人では処理しきれなくなった。そこで松陰は、野山獄で親しくなった囚人の中に、相当な学識をたくわえている藩士がいたのを思い出した。富永有隣である。かれを出獄させ、ここに招くことを考えている。  塾生は増えるばかりで、杉家の客間を使ってばかりもいられなくなった。庭に別棟の講義室を設けようという話が、自然にもちあがったのは、玄瑞が入門して半年ばかり経った十一月のことである。  別棟といっても、新築するわけではなく、古びた物置を改造しようというのだ。しかも大工を雇えば金がかかるので、塾生の手を使って、作業は進められた。作業には、松陰自身も加わり、間もなく八畳一間の講義室が完成した。多少の隙間風が入るのを我慢すれば、まずは独立した塾舎を得て、一同満足のていで、学習はさらに充実したものとなった。  これを機会に、近所の久保塾にかかっていた「松下村塾」の看板をここに移した。第三期松下村塾の出発である。もともと松下村塾は、松陰の叔父玉木文之進が始めたもので、松本村の少年たちを集めて素読を教えた。松陰も幼時からここで学んだ。文之進が藩の役に付いてからは久保五郎左衛門(養母の弟)が受け継いだ。これが第二期の松下村塾で久保塾とも呼んだ。いわば寺子屋と異なるものではない。  杉家に帰ってきた松陰が、幽室や客間で講座を開いてからは、五郎左衛門も受講し、久保塾の塾生たちも横すべりにやってくるようになった。五郎左衛門は、いつの間にか若い松陰に、松下村塾を譲り渡したかたちである。  普通、松下村塾というばあい、文之進が経営したそれではなく、久保塾でもない、まさしく吉田松陰主宰の第三期松下村塾をさすのである。  松陰は、いよいよ自分がこの塾を主宰する決心をかためたころ、五郎左衛門の求めに応じて『松下村塾の記』と題する一文を草した。玄瑞が入門する直前のことである。歴史に名をとどめた松下村塾の未来を予言したその内容は、辺境の地に、一点の火を激しく燃えあがらせようとする松陰の、誇り高い野心にみちあふれた粋藻《すいそう》というべきものであった。  長門国は僻地《へきち》であり、山陽の西端に位置している。そこにおく萩城の東郊にわが松本村はある。人口約一千、士農工商各階級の者が生活している。  萩城下は、すでに一つの都会をなしているが、そこからは秀れた人物が久しくあらわれていない。しかも萩城もこのままであるはずはなく、将来大いに顕現するとすれば、それは東の郊外たる松本村から始まるであろう。  私は去年獄を出て、この村の自宅に謹慎していたが、父や兄、また叔父などのすすめにより、一族これに参集して学問の講究と村内の子弟教育につとめ、松本村を奮発震動させる中核的な役割を果そうとしているのである。奇傑の人物は、必ずここから輩出するであろう。ここにおいてかれらが毛利の伝統的真価を発揮することに貢献し、西端の僻地たる長門国が天下を奮発震動させる根拠地となる日を期して待つべきである。  私は罪囚の余にある者だが、さいわい玉木・久保両先生の後を継ぎ、子弟の教育にあたらせてもらうなら、敢《あ》えてその目的遂行に献身的努力をはらいたいと思う。──   若者たち 「富永先生に、久坂さんからひとこと苦情をいうて下さいませぬか」  新しい講義室が完成して間もなく、松陰の妹の文が、玄瑞に手を合わせるようにしていった。 「富永先生が何か?」 「困るのです」  松下村塾の賓師として迎えた富永有隣が、厠《かわや》に行かず、講義室の裏に決まって放尿する。天気の好い日は、あたりに異臭がただようというのである。  松陰に訴えても、笑って取りあってくれない。中谷正亮に相談すると、気むつかし屋の有隣のことだから、注意などすれば、わざとでもやりかねない。そんな役目は久坂がよかろうと教えてくれたという。 「私でもだめでしょう」 「すぐそばに物干場があるし、嫌なのでございます。このままでは」  文は、いくらか甘えるようにいう。 「そのうち、機会があれば……」  と、つい約束してしまった。 (厄介なことを引き受けたな)  玄瑞は苦笑しながら、あの難物をどう説得するかを、真剣に考えている。  富永有隣は、野山獄での松陰の同囚だった。もっとも松陰が入獄したとき、有隣はすでに在獄四年目を迎えていた。  上士の家に生まれ、明倫館では山県太華について儒学をおさめた。相当な学識もあって、一時は藩主の小姓役までつとめた有能な武士だが、性|狷介《けんかい》で、周囲との折り合いが悪く、波風の絶え間がなかった。遠島になったのは、讒訴《ざんそ》によるものだったという。罪が晴れ、許されてからも親族一同が申し合わせ、借牢願を藩に出して、投獄したのである。  獄中でも鼻つまみ者だったが、松陰が下獄してから、急におとなしくなった。その人柄に打たれ、たちまち感化された彼は、松陰にすすめられて、獄中で囚人たちに書を教えたりもした。書家としても非凡の才にめぐまれていたのである。  出獄した松陰は、松下村塾の人員が増えはじめると、有隣を招くことにし、かれの釈放運動にとりかかった。藩に対してはもちろんだが、有隣のような囚人は、親族の同意がないと、牢を出してもらえないのである。親族の説得には、松浦松洞や吉田栄太郎らが松陰に命じられてあたり、ついに成功させた。  有隣だけでなく、松陰は野山獄で同じような立場にある囚人の釈放運動を進め、結局十一人のうち八人を出獄させている。  松下村塾に引き取られた有隣は、心から感謝して、松陰の期待に応えた。四十歳になったかれは、若い塾生たちに対し持前の尊大な態度をとりはしたが、結構まじめに教えた。皆になじもうと努力もしているようだった。それでも傍若無人な性格は、日常生活のあちこちに顔をのぞけるのである。やはり奇人というほかはなかった。  文から頼みこまれた玄瑞は、講義室から少し離れた厠に行くのを面倒がる有隣に、所嫌わぬ放尿をやめるよう注意する機会を、それとなくうかがっていた。  その日、講義室で有隣をまじえた数人が雑談しているときのことである。有隣が、突然立ち上がった。何くわぬ顔で、玄瑞もそのあとにつづいて戸外へ出る。  有隣について玄瑞が席を立つと、それを追うように、中谷正亮・吉田栄太郎・増野徳民の三人がゾロゾロと続いて出て行く。事前に打ち合せてのことである。案の定、有隣が袴の裾をからげて、いつものところに放尿している。 「それ」  と、玄瑞が小声で合図した。  四人は小走りにやってきて、有隣の横に並び、一斉に放列をしいたものである。徳民などは、出ないのを無理して力みかえっている。 「これは、どういうことじゃ」  有隣が、身ぶるいして、怒鳴った。 「有隣先生」と玄瑞が正面を向いたまま、大声で答えた。もともと声は大きいのである。「先生は、村塾の師であらせられますから、われら塾生は、すべて師の言行を学ぶのであります」 「………」 「なかなか爽快《そうかい》なものですな」  正亮が、とぼけたようにいった。笑ってはいけないと玄瑞にいわれているので、だれも必死でそれをこらえている。 「むっ、小癪《こしやく》な若僧めら」  有隣が一同を睨《にら》んだ。眉《まゆ》の薄い凶暴な顔つきは憎悪のみに生きてきた歳月のつくりだしたものであろう。有隣は、こぶしをにぎり、背の高い玄瑞の全身をねめまわしていたが、にわかに肩の力を抜いて、大笑した。  そんなことがあってから、有隣の悪癖は、嘘のようにおさまったばかりか、塾内での言動も賓師らしく心得るといったふうに見えはじめた。正亮から事のいきさつを聞いた文は、 「お地蔵さまの知恵ですねえ」  とうれしそうだったが、有隣が心服したのは、やはり松陰に対してであった。  ついでに有隣のその後を書き加えておく。  松陰が再投獄されて、村塾からいなくなると、またぞろ有隣の生地が出はじめ、塾生たちとの折り合いが悪くなった。そのころには玄瑞も塾にはいないのである。村塾を出た有隣は、周防《すおう》の秋穂《あいほ》に私塾をひらいた。  慶応二年(一八六六)、第二次長州征伐の幕軍との戦いがはじまると、有隣は刀を執って戦列に馳《は》せ参じた。  明治になり、かつての“志士”たちは、新政府に迎えられて次々と中央にのぼって行くが、有隣は動かない。立身出世をあせるかれらに、ひややかな視線を送るだけだ。死ぬまで断髪を拒否し、刀をさげ歩いた。明治二年(一八六九)から三年にかけて、新政府の仕打ちを怒る諸隊兵士の叛乱が、山口藩庁を中心として発生した。有隣が脱隊兵の黒幕として指揮をとったのではないかと、当時熊毛郡にいたかれのもとに追捕《ついぶ》の手がのびた。有隣は逃げて、土佐に潜んだ。  やがて西南の役である。それに内応したとして、有隣は国事犯として全国に指名手配された。逃げきれぬと覚悟して自首し、東京の石川島監獄に投げ込まれる。獄中では『大学述義』などの著書を成すほどのしたたかな学徒の一面をのぞかせている。終身刑だったが、十七年(一八八四)に特赦により出獄、故郷に帰って私塾をひらいたが、不遇のうちに三十三年(一九〇〇)の師走も押しせまった二十日の夜、八十歳の生涯を終った。  国木田独歩『富岡先生』のモデルとしても有名な有隣の波乱にとんだ歩みは、しかし早逝した玄瑞の知るところではなかった。  中谷正亮が、新しい入門希望の若者をつれてきたのも、塾舎完成後間もなくのことであった。  背丈は普通以下だが、痩せているせいか、それほど低くは見えない。というよりもこの男、思いきり背のびしているのだった。よくいえば姿勢がよい。  ──異相  というべきかもしれない。ひどいアバタだ。幼いころ天然痘をわずらったのだろうが、当時ではめずらしくもない。何よりも特徴的なのは、その並はずれた馬面である。  額が広い。糸のような切れ長の目が、吊りあがっている。俗にいう狐目だが、微笑をふくむと、どことなく親しみのある表情になった。しかし、めったに笑わないのである。キュッと口をへの字に引き結んでいる。  全体がほっそりしていながら、袖《そで》口からのぞいた手首などはいかにも骨太で、精悍《せいかん》な体臭を、そのあたりから発散しているようだった。かなり剣術をやっているらしい。  初対面の塾生にむかっても、昂然と肩をそびやかして、いわば不遜《ふそん》な態度をとる。剣の自信もさることながら、上士の家で甘やかされて育ったわがままな性格を、そのようにむき出しにしているのだ。 「高杉晋作をよろしく頼む」  正亮が、まず玄瑞に紹介した。 「お名前は聞いちょりました。小生は久坂玄瑞です」 「ああ、おぬしか」  晋作は、ひとことそういっただけである。玄瑞は、穏やかに笑って、 「松陰先生は、何かいわれましたか」  と、無理に話の糸口を引き出すような口ぶりで話しかけた。 「まあ、気がむいたらやってこいといわれた。俺は、夜にでも暇が出来たらのぞくつもりだ」  これは晋作の嘘で、夜こっそり家を抜け出してでなければ、村塾に通えない立場におかれている。中谷正亮にしつこく奨《すす》められてその気になり父親の小忠太に入門のことを話すと、許さないという。 「吉田松陰とは、寅次郎のことか。あの人は国禁を犯して今は幽囚の身であろう。そういう人物に近づくのはよろしくない」  実直な小忠太としては、当然の判断だが、かれだけでなく、松陰を危険人物とみて、その感化をおそれ、わが子の入門を禁ずる親も少なくはなかったのである。  晋作は名倫館に通っているが、十年一日のごとく訓詁《くんこ》を押しつけられる学習にあきあきしていた。だから学内にある道場「有備館」で剣術の稽古に励む日が多い。しかも明倫館では、学生が時事を論ずることを禁止しているのである。つまりは幕政についての批判的言辞を、いましめているのだ。山県太華は、すでに学頭をやめているが、明倫館の保守的な学風は、かれが樹立したそのままを受け継いでいる。  松本村の松下村塾で、面白い講義があるという噂を、晋作はずっと前から耳にしていたが、わざわざそこまで行って本を開くのは億劫《おつくう》に思われた。中谷正亮に強く奨められて、ようやくその気になったが、こんどは父が許さない。上げかけた腰をおろそうとしたところを、正亮から強引に腕を引っ張られてやってきたのだが、温容な中にも鋭い気魄《きはく》を秘めた松陰の人柄に、ふと心|惹《ひ》かれた。 「詩作に励んでおるそうだね」  松陰にいわれて、晋作の目が、にわかに輝きはじめる。 「今は剣術に身を入れちょりますから、それほど作っておりませんが、去年の作をひとつお目にかけたいと存じます」 「ぜひ拝見しよう」  微笑をたたえながら、松陰が硯《すずり》箱と紙を晋作の前においた。 「御免」  と、晋作は、さらさらと七言絶句をしたためた。得意気な様子がほの見える。       立秋     昨雨|炎《えん》を洗って涼味新たに     今朝秋立って葉声|頻《しき》りなり     始めて看る林景の詩意に堪ゆるを     残月|依々《いい》として影半輪   (昨雨洗炎涼味新/今朝秋立葉声頻/始看林景堪詩意/残月依々影半輪)  去年の作といえば、晋作が十八歳のときである。玄瑞が一つ年下だから同じ安政三年、十七歳のかれの作品が、はるかに晋作よりすぐれている。  晋作のこの「立秋」は、まだ習作の域を出ていない。もっとも同年輩の若者で、これほどの詩を書ける者は、ざらにはいないはずであった。 「見事だ」  まず松陰は褒《ほ》めた。晋作が、鼻をうごめかす。 「これからは詩作にも打ち込むつもりであります。批正をお願いいたします」 「久坂玄瑞の意見もたたいてみるがよいな。そなたより一日の長というべきであろう」 「玄瑞がですか」  露骨に不満な表情を見せた。あとで正亮から玄瑞を紹介されたとき、晋作は、瞬間、松陰のその言葉を思い出したのだ。 (こんな医者の卵に負けてたまるか)  俄然《がぜん》、競争心をかきたてられながら、その日以後、晋作は城下の菊屋横丁から、毎夜通ってくるようになった。やがて松陰に心酔し、玄瑞と並んで松下村塾の双璧《そうへき》といわれるまでの存在にのしあがるのだが、この秀才を迎え入れたころの松陰門下の顔ぶれもすでに錚々《そうそう》たるものだった。  玄瑞、晋作のほか中谷正亮、吉田栄太郎、冷泉雅次郎、品川弥二郎、伊藤利助、佐世八十郎、飯田吉次郎といった、いずれ名を馳せる人々が入門していた。  佐世八十郎はのちに前原一誠、伊藤利助はしばらく後に俊輔と改名、さらに博文となる。伊藤は、中間《ちゆうげん》の子だが、松陰の親友|来原《くりはら》良蔵の部下として相州警備に出陣し、帰藩して間もなく来原の紹介で、村塾に入った。十七歳だった。小柄だが図太い性格で、物怖《ものおじ》しない。 「久坂さん、どうかの、この漢詩。松陰先生に見せる前に、ちょっと直してつかさい」  などと稚拙な七言を、玄瑞の鼻先に突きつけたりする。塾生のあいだでもめごとでもあると、進んで仲裁役を買って出るのも伊藤だった。 「利助は、将来周旋家になりそうだ」  松陰は、かれの未来を早くも予言している。政治家としての資質を見抜いたのである。  安政四年十一月、松下村塾の新しい塾舎が出来あがったこのころ山県小輔(有朋)はまだ入門していない。また久坂玄瑞と終焉《しゆうえん》を共にする寺島忠三郎、入江杉蔵が村塾にあらわれるのも、翌五年のことである。  武士の子も、軽卒の子も、商人の子もいる。雑多な石で砦《とりで》を築くように、松下村塾の厚い人垣ができあがって行く。  初冬の薄日がさした塾の庭のほうで、声がしている。 「高杉さん、一度、手合せを願いたいね」  たまに昼間やってきた晋作に、伊藤利助がのんびりした声をかけるのを、玄瑞は読書しながら、遠くに聞いたように思った。 (利助め、やられるぞ)  玄瑞は、ひとり笑いして、立ち上がった。ちょっと倦《う》んだところだ。吉田栄太郎や増野徳民らも、それに続いてぞろぞろと庭に降りて行った。  晋作は、伊藤などから、あまり気易く声をかけられることを好まない。松陰の手前、面とむかって、嫌悪の感情を投げつけはしないが、どことなく撥《は》ねつけるような態度をとる。伊藤から、手合せをと挑まれて、晋作がもう癇《かん》をたてている気配が、玄瑞にはわかるのである。  藩校明倫館には、藩士の子弟しか入学できない。したがって封建家臣の序列が、学生のあいだにも厳然と持ち込まれている。才能とか実力に関係なく、身分秩序が学問の場をしばっているのも官学の特色だ。教授時代から、そうした空気に批判的だった松陰は、松下村塾の門をことさらに広げた。吉田栄太郎がつれてきた町の不良少年までも入塾を許し、名までつけてやっている。 「村塾にある限り、一切の身分を無視する。みんな対等に交われ」  絶えずそのことを、松陰は強調した。伊藤利助は、得たりかしこしと、それを実行しているのだ。玄瑞はじめ佐世八十郎ら武士身分の者も、ほとんどは異論なく、利助の狎《な》れなれしい態度を笑って許している。  晋作だけが、無言で抵抗を示した。萩藩の百五十石といえば、上士に属する武士である。その家の嫡男たる晋作に、城下でなら中間の子の利助は声もかけられないほどの身分のへだたりがある。 「高杉家は、毛利譜代の臣である」  やがて四民平等をうたう奇兵隊を組織した晋作にして、これは死ぬまで抱きつづけた誇り高い武士意識であった。しかし、人間はみな平等だということを実地に示した師松陰の教えを、理屈の上では理解していたのだ。それでなければ民兵組織の構想も生まれなかっただろうが、足軽や中間と同列におかれることを、かれの皮膚そのものが嫌悪した。まして、まだ松下村塾に通いはじめて間もないころの晋作にとって、伊藤利助の態度は、何としても許せないのである。 「竹刀はあるのか」  と晋作が、皮肉な笑いをもらしながらいった。 「ありますよ」  すぐに利助がふたふりの竹刀と面・コテの防具を持ってきた。 「俺は不要だ。お前はつけろ」  晋作は、右手で二、三度竹刀に素振りをくれて、利助が防具をつけるのを、傲然《ごうぜん》と待っている。そのような晋作は、ふしぎに大きな男に見えた。 「利助、お前の剣尖《けんせん》が、少しでも俺のからだのどこかに触れたら、土下座してやろう」  とかれは怒鳴った。声には嘲《あざけ》りのような響きがある。  頷《うなず》くと、利助はいきなり打ちかかっていった。面具にかくれて、表情はよく見えないが、竹刀を振りおろす勢いには、怒りが感じられると、玄瑞は、ふと思った。 「どっこい、どっこい」  武者ぶりつく利助を軽くあしらいながら、晋作は嗤《わら》うようなかけ声を発するのである。  利助は、晋作の竹刀の先にふりまわされ、ついには足払いをかけられて、土の中にもんどり打って転がった。それでも起き上がり、執拗にかかっていく。ふらふらになりながら、なおも体ごと突進するのである。あしらっていた晋作が、ようやく大上段から利助の頭部に振りおろしたのは、多少あつかいかねたからだろう。  ボコッという鈍い音が響いた。防具はつけているが、見事に決まると相当な力がかかる。二度、三度と痛打を浴びせられて、もはや利助は呆然と立ちつくす恰好になった。  そこに力まかせの「突き」を入れられて、一間ばかりも後ろに跳ね飛び、長々とのびてしまった。 「利助、大丈夫か」  玄瑞が走り寄って、手をさしのべようとすると、ムックリ起きなおった。片手で面を脱ぎ、 「参りました。しかし面白かったのう。そのうち、またお手合せ願いたい」  と、無理に笑顔をつくっている。 「ついでに教えてやるが、お手合せなぞというのではない。一手ご教授にあずかりたい、そう申すのだ」 「承知しました」  こんどは利助が顔をしかめながら答えた。 「久坂、おぬしどうだ」と晋作が、両足をふんばった姿勢で、挑むようにいった。凶暴な勢いが止まらぬという様子である。 「では、一手ご教授願いたい」  玄瑞は、やむなく利助がまだ握りしめている竹刀を取りあげ、晋作のほうに歩み寄った。 「応じて下さるとはありがたい」  晋作がニヤリと笑った。詩文においては、まだ君は玄瑞に及ばないと、よく松陰はけしかけるようなことをいった。内心いまいましく思っている相手と、偶然、立合う機会をつかんだのだ。 「支度されよ」 「高杉さんがそのままなら、私もこれで」 「素手でよいのか、痛いぞよ」 「あたれば、双方痛いであろう」 「………」  晋作の目が怒った。  玄瑞は青眼に構え、突然、奇声ともいえるかけ声をあげた。耳をつんざくような声量である。食いしばった歯の間から噴き出るようなその声を発しながら、玄瑞は、一歩二歩と前進する。  晋作は、上段にとってそれを迎えようとしたが、ふと困惑の色をうかべた。玄瑞は、必殺の双手突きに出ようとしている。つまり相打ち覚悟の捨身の戦法である。これは小手先の剣技で避けられるものではない。技の差はひらいていても、双手に武器を支えて、至近距離から体ごとぶつかってくる必死の敵となると、かなりの剣客でもあしらいかねる。  玄瑞のような六尺ゆたかな巨体が、双手突きで激突してくれば、その頭部にしたたか一撃をくれたとしても、ほとんど同時に胸か腹を突かれ、余った勢いで、痩せた晋作はふっ飛ばされるにちがいない。  玄瑞がさらに一歩踏み出すと、晋作は一歩後退し、つづいて地面の凹凸を足裏でまさぐりながら、左へ左へと円をえがいて移動した。まるで決闘のような緊迫した空気がたちこめ、見物の塾生たちも思わず息をひそめて、遠くから二人をとりまいている。 「それまで!」  鋭い制止の声が響いたのは、晋作の円運動が止まった瞬間である。玄瑞が、巨体を丸めるようにして、地を蹴ろうとするときでもあった。声は講義室のほうからしたので立合っていた二人も、とりまきの者たちも、一斉にふりかえった。  松陰が敷居際に立って、みんなを睨んでいる。その険しい表情に射すくめられながらも、ほっとした気配がただよった。そのまま何もいわず松陰は母屋に引き返した。休憩時間は、もう半刻ばかりも残っている。このところ著作に打ちこんでいる松陰はわずかな時間も惜しいのであろう。 「だれが呼びに行ったのだ。勝負をつけたかったのう」  いつの間にか見物のなかにまじっていた富永有隣が、さも残念そうにいう。 「勝負はついちょった。私の負けですよ」  すかさず玄瑞がいった。 「いや、相打ちになったはずだ。突きにくるつもりであったろう、怖しかったぞ」  と、晋作は笑い、 「おい利助、まだ痛むか」  めずらしく伊藤にもやさしい声をかけた。 「あれほど頭をどやされたら、痛みもしますが、少しは頭脳明晰になったやもしれません」  頭を掻《か》きながら、おどけてみんなを笑わせる。 「久坂さんの後は、私がお願いしようと思うちょりました」  吉田栄太郎が、晋作にいった。 「栄太郎は槍であったのう」 「足軽の家は、槍を習うのが昔からのしきたりでありますから。少しばかり宝蔵院流をかじりました」 「槍は厄介だな。俺のほうがやられるかもしれん」  晋作の態度が、かなりやわらいでいる。たしかに、ふんいきがガラリと変った。孤猿のように、一同から離れてひとり力みかえっていた晋作が、急に輪のなかに踏みこんできた感じである。  講義が終り、晋作が帰って行ったあと、玄瑞が増野徳民らと雑談しているところに、文《ふみ》がやってきて松陰が呼んでいると告げた。庭に降りると、 「きょうは胆が冷えました。高杉さまは乱暴じゃから怖しゅうございます」  文がかれを見上げていった。頬をほんのりと染めている。 「先生のところへ注進したのは文さんですか」 「いいえ、わたくしではありません」 「だれであろう……」  あとはつぶやきながら、ひとり大股で杉家の裏にまわり、松陰の幽室にやってきた。叱られるのではないかと、多少は覚悟しているのだ。 「面白かったな」  意外なことを松陰はいった。 「やむなく、でありました」 「あれでよいのだ。晋作のことは、以前から気になっておったが利助もよくやってくれた」 「だれが知らせて参りました?」 「利助だよ」 「………」 「晋作に挑んだのは、利助らしい心配りがあってのことだ」  晋作がどうも塾生たちになじまないと見た伊藤利助は、みずからかれに接近する手段として、立合いを挑んだらしい。ところが晋作と玄瑞の対決までは予想していなかった。しかも果し合いにも似た険悪な模様になった。 「このぶんでは、どっちかが大怪我をすると、あわてて知らせてきおった」  松陰が大声で笑うのもめずらしい。上機嫌なのだ。 「利助はよくやってくれた。人の誠とは、そのようなものである。誠を尽せば、必ず通ずるのだ」 「よい勉強になりました」 「そなたもよくやった」 「粗暴なふるまいであると、先生から叱られはせんかとビクビクしちょりました」 「たしかに、平時の喋々《ちようちよう》は、事に臨んで必ず唖、平時の炎々は事に臨んで必ず滅すということも心がけておく必要はある」 「わかりました」 「しかし、きょうの場合は、あれでよかった。闘うときは、おのれを狂《きよう》と化さねばならぬ。敵の強弱を問わず、細心の戦備と大胆な決断に身をゆだねるのが英雄の道であろう。獅子王狐を捕るに虎を捕るの勢いをなすとは、そのことだ」 「まあ私にとって、高杉さんは狐が獅子を捕ろうとするようなものであります」 「いや、そうでもない。剣術などというものは、所詮《しよせん》むなしい巧事でしかない。晋作にもいつかそれがわかるときがくるであろう」  まずはそんな会話が、かなりの時間とりかわされる。松陰の態度も、いつもと違っていることを、玄瑞は気づいている。 「ところで、そなたはいつまで好生館に寝泊まりするつもりだ」  突然、松陰がいった。 (このことだったか)  内心うなずきながら、 「別にいつまでと決めちょるわけでもありませんが、口羽さんはもうしばらくそうしちょれといわれます」  口羽徳祐は、前にも述べたが、久坂玄機の友人で、玄機の死後、何かと弟の玄瑞に目をかけてやっている藩の重臣である。この翌年には寺社奉行に就任している。玄瑞の属する寺社組には、すでにこのころから顔が利いていたのだろう。 「めぐまれた境涯ともいえるが、医師の修業もあまりせずに、好生館の居候では気がひけはしないか」 「それはあります」  と玄瑞は笑った。 「医者になるつもりはあるのかね」 「実は、ないのであります」 「では、好生館を出る手だてを考えなさい」 「何か、よい方法はありましょうか」 「ないこともない」 「お教え下さい」  玄瑞が、膝を乗り出した。 「杉のこの家に、居を移せばよいのだ」 「?……」 「ここで私たちと、一緒に暮らそうではないか」 「それは、まあ、願ってもないことですが、ご家族、つまり杉百合之助様や、それからご母堂や文さんもご承知下さるでしょうか」 「文は、大歓迎です」 「………」 「文は、望んでおる」  松陰は、真顔だった。  玄瑞は、声をのんだ。  要するに、松陰は、妹の文を嫁にせよと玄瑞にいっているのだ。  杉家で一緒に暮らそうという松陰の言につられて、思わず目を輝かしたが、そうとわかれば早く退散しようと、玄瑞は腰を浮かした。 「このようなことは、しかるべき人を立てなければなるまいが、いつも顔を合わせておるのじゃから、そなたの意向だけは直接きいてみようと思ったのだ。非礼を許してもらいたい」 「いえ、非礼などと……。しかし小生としては、まだ身をかためるときではないと思うちょります。第一、先生にしても……」 「私は、孔子にならって、三十まで嫁をとらぬ。学問に打ちこみたいと決めておるのだ」 「では、小生も三十までひとりでおります」 「玄瑞は違うぞ」と松陰は声を強めた。「天涯孤独の身ではないか。私には杉という家があるが、そなたには、家がない。来年、祝言をあげるとすれば、十九歳であるから、年齢からいうても妻帯するには充分だ。人には、寄方《よるべ》が要る。どうかね、文をもろうてやってくれぬか。三つ違いなら似合いであろう」 「ありがたく、もったいないことでありますが……」 「杉の娘では不足というのか」 「いえ、決してそんな……。何しろ突然のことでありますから……」  玄瑞は、懸命に尻ごみした。 「今、返事をせよというのは無理かもしれんな。考えておいてほしい」 「そうさせていただきます」  と、玄瑞はその場をのがれた。  松陰の三人の妹のうち、二人はすでに片づいている。それぞれの婿となった人物に、不満があるわけではないが、文には、とびきり秀れた男を選んでやりたいというのが松陰の願いだった。末の妹ということで、松陰は特別に文を可愛がった。二人の姉にくらべると、文は容色が少しばかり劣る。 「わたくしは、このまま兄様のお世話をいたします。嫁になぞ行かなくてもよいと思うちょります」  と文はいう。だからこそ、余計に可愛さはつのり、だれか抜群の男子はおらぬかと松陰はあたりを見まわしていたのだ。優秀な血脈に結びたいというひそかな願いもある。松陰のことだから、相手は必ずしも武士でなくともと考えているのだろうが、父杉百合之助は、それほど開明的ではない。やはり武士をと、望むにきまっている。  松陰は、はじめ桂小五郎に白羽の矢を立てた。明倫館時代の兵学門下である。藩医和田昌景の子だが、桂家を継いで、九十石大組士の身分を得ている。明倫館での成績は、中程度だが、資質はあると見た。何よりも小五郎は、好男子である。  どうか、ともちかけたのは、嘉永五年で、小五郎が二十歳の春だ。そのとき文は、まだ十歳である。杉家にもよくやってきて、その少女を小五郎は、遊んでやったりもしている。松陰は約束だけでもしておきたいというのだった。 「考えさせて下さい」  といったまま、小五郎はその年の秋、剣術修行ということで江戸に出てしまった。それきり萩にはほとんど帰ってこない。一度、江戸へ行く人を介して打診してみると、こんどははっきり断わってきた。そうこうしているうちに玄瑞があらわれたのだ。 (この男だ)  松陰は、もう決めてしまっている。  師走もなかばを過ぎると、雪の日がつづいた。日本海から吹きつける寒風に乗って、その日も小雪が舞っていた。  松本橋を渡りかけた玄瑞を、うしろから大声で呼ぶ者がいる。ふりかえると、中谷正亮だった。追いついてきた。 「寒いから、歩きながら、話をしよう」  と、正亮がいった。 「あらたまったことでしょうか」 「そうじゃ、あらたまった話だ。松陰先生から、ぜひにと頼まれた、といえばわかるだろうが」 「困りましたな」  玄瑞が、吹きつけてくる雪にむかって、前かがみに、大股で歩くものだから、正亮は小走りになりながら並んで、 「文さんを嫁にもらえ」  と怒鳴った。 「松陰先生だけの意志でしょう。ご両親もおられることだし、文さんの気持もある」 「百合之助殿はもう納得だ。お文さんは、もう訊くまでもない」 「どうしてわかるのです」 「玄瑞の前に出ると、顔を赤くするではないか。塾生のあいだでも評判だぞ。いや悪い評判ではない。木石《ぼくせき》のごとき松陰先生も、気づいておられるそうじゃ」 「おどろきましたな」 「とぼけるな、詩人ともあろう玄瑞が、感じないはずはなかろう」 「何とか断われませんか」 「お文さんもだが、松陰先生のおぬしに対する惚れこみようは尋常ではないのだ。断われんぞ」 「小生の気持はどうでもよいのでありますか」 「ほかに好きな女でもおるのか」 「そんなものはないが、気がむかんのです」 「なぜだ」  正亮の追及に、玄瑞はしばらく戸惑っているふうだった。橋の中ほどにきて、雪はやや小降りになった。 「腹蔵なくいうてみい」 「文さんは、不別嬪でしょう。嫁にするなら、美しい人をと、これは前々から考えちょったことであります。これは、しかし松陰先生にはいわんで下さい」 「馬鹿たれ!」  一喝して、正亮が足を停めた。二、三歩行き過ぎて、玄瑞がふりかえった。坊主頭の雪を払いながら、 「腹蔵なく言えといわれるから申しあげたのです。美人の妻を持つ、これは昔から男子の望んできたことではありませんか」  怒鳴りかえした。 「これは甚だ玄瑞に似合わぬことを聞くものだ。美人の妻を持ちたいなど、太平の世の文弱の徒がほざくことだ。今の時勢に、大丈夫たらんとし、米夷を斬るなどと叫ぶおぬしが、妻をめとるに容色を選ぶべきであるか!」 「………」  それきり二人は、黙って歩きだした。松下村塾に着くと、講義室にはもう十人ばかりが集まっていた。 「諸君、玄瑞が嫁をもらうぞ」  正亮が、大声でいい、玄瑞は、黙ってうつむいた。どうやら観念した様子である。 「相手は、どこの娘ですか」  松浦亀太郎が、はしゃいだ声をあげる。 「松陰先生のご令妹お文さんである」  一斉に、拍手がおこった。 「それにしても、松陰先生の妹となると、夫婦喧嘩もできんな」  飯田吉次郎が、真面目な顔でいった。 「なあに、構うことはない。いうことをきかんければ、ぶっとばしたらええのじゃ」  憮然《ぶぜん》とした口調で、有隣がいう。 「杉家でくらすのですか」  伊藤利助が、玄瑞にたずねたが、黙っているので、中谷正亮が答えた。 「当り前だ。好生館の寮に夫婦で入るわけにはいかん」 「家を持てばええのですよ。さがしましょうか」  利助は、今にも立ち上がりそうな気配だ。 「まあ待て待て。すべてはこれから先生と相談する」 「中谷さんに、口説きおとされたわけですか、久坂さん」  と、およその事情を知っているらしい利助がいった。 「そんなところじゃ」  はじめて玄瑞はうなずいたが(これでは文さんが気の毒だな)と気づき、答えなおした。 「しかし文さんなら、小生にはすぎた嫁だ。松陰先生を兄とするのは、少々気がひけるが、中谷さんの強いすすめで、お受けした。まあよろしく頼む」 「玄瑞、先生のところへ行こう」  正亮が、玄瑞を伴って母屋のほうに消えると、塾生たちのあいだでひとしきり話がはずんだ。  尻ごみする玄瑞をねじ伏せて、文との結婚を承知させた正亮の強引さをいう者が多い。 「松陰先生に報告する前に、われわれに発表するちゅうのは、中谷さんとして、いささか軽率ではないか」  吉田栄太郎が、正亮を非難した。 「そうではない。塾生の中から一人選ばれて松陰先生の妹御を妻とするのだ。塾生の気持を真っ先におもんぱかるところが、正亮のできたところじゃ。松陰先生にしてみれば、あの妹御を玄瑞にめあわせようとすることに一心じゃからな。玄瑞がそれを承知した報告など、明日でもよいくらいだ」  と、有隣がいう。 「しかし、物事には順序がある」  栄太郎が、反駁《はんばく》した。この栄太郎と有隣は、気が合わないというのか、小さなことでよく衝突した。 「有隣先生のいわれるのも、栄太郎のいうことも双方一理あるところだが、今はそれを争うているときではありますまい、みんなで祝意を表すべきでしょう」  利助が、さっそく二人のあいだに割って入る。 「そうだ、その通りだ」  佐世八十郎の一言でどうやらおさまったところに、松陰・玄瑞・中谷正亮があらわれた。近日中に祝言を挙げることが、正亮の口から伝えられる。 「土屋蕭海先生に媒酌の労をお願いし、結納の儀、嫁迎えの礼などは、きちんと済ませ、ケジメをつけた上で、玄瑞は杉家に同居することになった。婚礼は内輪でおこなわれるが、塾生も列席してほしい」  婚儀の段取りを正亮は一任されたらしい。 「玄瑞は、僕の義弟になるが、松下村塾の塾生であることに変りはないのであるから、手心は加えぬ。諸生も玄瑞に遠慮する必要はありません」  最後に松陰はきびしいことをいったが、いつもより明るい表情だった。玄瑞はといえば、困惑したように、終始うつむいてばかりいる。  三人の妹がかたづいたことで、松陰は重荷をおろした気持になっている。家には両親や兄もいるのだが、この妹たちに対するかれの気の使い方は、特別のものがあった。  三人のうちでも、末の文をことさら、可愛がったことは、松陰自身が『文妹の久坂氏へ適《とつ》ぐに贈る言』に「少妹の生まれた時、玉木の叔父が非常に喜んで、文之進の一字をとり与えた。お文というのはそのためである。汝は晩《おそ》く生まれたので、僕は最も可愛く思っている。お文の称にそって、今後も家事の暇に読書し、一通り大義に通じておかなければならない。婦人の読書は男のようにはいかないだろうが、精一杯努力すべきであろう」と書いている。  この『文妹の久坂氏へ適ぐに贈る言』は、安政四年末、玄瑞との婚儀が整ったとき、文に与えたもので、原文は漢文でしたためてある。さすが杉家の女性らしく、この程度の読解力はあった。先に松陰は、文のために班照《はんしよう》(シナ後漢時代の女性、曹大家)が著わした『女誡《じよかい》』七章のうち専心篇をくわしく講じてやっている。  松陰は、文に贈ることばで、次のようにいうのである。  久坂玄瑞は、防長における年少第一流の人物であり、天下の英才である。少妹には過ぎたる人物だ。  しかし人の憂うべきは自ら励まざるにある。自ら励み自ら勤めるならば、何の成らざることがあろうか。酒食のことを工夫し、父母に心配をかけぬように、家事を間違いなくやっていけ。『女誡』にある貞節・専心のごときは、嫁ぐ初めの覚悟が大切なのだ。  少妹すべからく怠ることなかれ。ここに過ちをするほかに憂うことはなく、稚劣な汝が天下の英才に妻たるの道もこのほかにはない。  例によって説教調のものだが、「年少第一流の人物」に妹をとつがせる松陰の喜びが言外にあふれている。  その年十二月二十四日付で、僧月性から松陰にあてて祝いの手紙が届いた。 「御令妹を久坂生へ御めあわせの由、御好配を得られ大慶に存じます。たしか御令妹は先年、桂生に勧められたことがあったと記憶するが、小五郎は壮士ではあっても、読書の力と憤夷《ふんい》の志は、久坂生が遥かに勝るべく、まことに佳き婿であります……」  松陰はヒヤリとした。歯に衣きせぬこの坊さんは、以前桂小五郎に文はどうかと持ちかけたことを知っていて、かれより玄瑞がよかったと祝詞を述べているのだ。  玄瑞が知ったら、あまりよい気持はしないだろうから、このことは内密にしておくつもりだった。しかし、月性は玄瑞と親しい間柄にあるので、いずれその口から伝わるかもしれない。では今のうちに打ち明けておくほうがよいと松陰は思い、月性の手紙を「和尚からだ」と、さりげなく玄瑞に見せた。 「桂さんより読書の力が勝れているとは、ちと褒めすぎですね」  玄瑞は、笑いながら、そのことだけをいった。 「いや、僕も和尚と同意見だ。まして憤夷の志でそなたの右に出る者はいまい」 「それはいささか僕も自負するところがあります」  と、玄瑞は翳《かげ》りのない声で、笑った。  ところで、このころから松陰は「僕」という一人称を使った。  松陰が初めてこの謙称を用いたのは、江戸遊学中の嘉永四年(一八五一)十二月九日付で、山田宇右衛門にあてた漢文の手紙であった。これ以後、松陰は親しい人々に対しては「僕」を使いはじめた。しかし藩に提出する公文書などには「私」を書いている。  もともと謙称としての「僕」はかなり古い時代のシナで使われたもので、今たしかめ得たところでは『漢書』の韋玄成伝に見られるが、もっと以前にも出てくるらしい。  日本には平安時代かにこのことばが輸入された。しかし僕と書いてヤツガレと読み、ボクと音読みにしたのは、ずっと後世で、幕末でもまだ一般化してはいない。松陰が漢文の手紙で、当然これをボクと読ませ使ったのが、おそらく最初であろうと思われる。  その手紙を書く二カ月前ごろから、松陰はしきりに『漢書』を読んでいるのだ。それで得た知識ではあるまいか。やがて松下村塾の主宰となり、若い人々に対して「僕」を使う。塾生たちもそれを真似るというわけである。  松陰の死後、文久三年(一八六三)の時点で、志士たちがやりとりした手紙をあらためると、久坂玄瑞・高杉晋作・入江九一(杉蔵)・松浦松洞・中谷正亮らが申し合せたように「僕」を使っている。  いわゆる松下村塾グループに限って、この謙称を用いており、長州人でも桂小五郎や村田蔵六は「私」である。他藩では武市半平太が「小生」、淵上郁太郎が「野生」、五代才助が「小生」といったように、「僕」を使っている者はいない。つまり幕末の早い時期において、「僕」の謙称をもちいたのは松下村塾生だけだったといってよい。  だが慶応二年(一八六六)になると、薩摩の大山格之助が「僕」を書いている。それが高杉晋作との往復書簡であるのをみると、「僕」という自称が、このころから普及していく過程を思わせる。  絶えず自己主張をくりかえした松陰が、最もふさわしい自我の謙称として選んだのがこの「僕」であった。のち松下村塾の者が、みんなこれにならい、彼らと接触のあった人々に伝わっていく。  拙者、それがしといった武家ことばを、僕とおきかえた松陰の一人称は、新しい人格を表現するものであり、明治に始まる新時代に受けいれられて、現代にまで生きつづけていると考えてよいだろう。 「僕」という謙称は、奇兵隊で統一用語に決められたのが最初だという説があるが、これは俗説としなければならない。隊の規約などを詳細に記録した『奇兵隊日記』にも、そうした記事は見られないからである。もっとも初代総督の高杉晋作がしきりに「僕」を使ったので、隊士がこれをならったことから、そんな俗説が生まれたのかもしれない。たしかに高杉晋作は、松下村塾に通いはじめてから、手紙などにも「僕」を連発した。松陰に心酔したせいもあるが、この謙称がよほど気に入ったものとみえる。  玄瑞もむろん「僕」を使った。そういうわけで、これから松下村塾の人々の用いる自称は「僕」としよう。  さて、玄瑞と文の婚礼もとどこおりなく済み、安政四年は、静かに暮れるのである。 [#改ページ]  第二章 憂国の賦   狂夫の言  安政五年の正月を、久坂玄瑞は松本村の杉家で迎えた。十九歳の春である。  百合之助夫妻、玄瑞夫妻、そして松陰を加えた五人で屠蘇《とそ》を祝い、雑煮の湯気を楽しむ元日の朝の食卓をしみじみと味わった。みずから望んだ文との結婚ではなかった。ほとんどは周囲で事が運ばれ、その流れに身を任せているうちに、落ち着くところに落ち着いたという感じがしないでもない。 (しかし、よかった)  と、玄瑞は思う。十四歳のとき失った家庭の団欒《だんらん》を、ようやく取り戻したという思いもあった。  食後、部屋に入ると、かすかに女のにおいが漂っていた。未熟な愛撫を交わす文との新しい生活が始まって、まだ一カ月にもならない。少女のように恥じらう新妻の姿態を胸に泛《うか》べて、ひとり顔を赭《あか》らめながら、玄瑞は机についた。  新年の所感を、詩に托そうとして思いを凝らしたが、何か放心したように詩句がわいてこなかった。しばらくすると、ひそやかな衣ずれの音をさせて文が部屋に戻ってきた。手早く片づけものを終ったらしく、外した襷《たすき》を手に持っている。 「檀那さま、お茶をいれましょうか」  と、細い声でいう。 「いや、それよりも松陰先生はお部屋かね」 「まあ、兄上とでもお呼びなされませ」  急に、いつもの快活な声になって、文が笑った。 「そうは呼べん。やはり先生である。どうしちょられる?」 「塾のほうでございます」  新年休みで、塾生はこないはずだが、松陰はひとり講義室にいるらしい。妹夫妻の初めての元日を、そっとしておきたいという心配りかとも思われた。 「僕も行きます」と玄瑞は立ち上がり、不本意な顔の文に、「お茶はそっちに運んでもらおうか」といいのこして部屋を出た。  松陰は、瞑想《めいそう》にふけるように、端座していた。長くそうしていたらしく、火鉢の炭火は白く灰をかぶったままになっている。大勢の塾生が集まっているときはよいが、一人そうしていると寒々とした講義室だった。冷気に沈む姿のまま松陰は、目を開いて玄瑞を迎えた。 「お邪魔でなければ、韻を分けていただけませぬか」  玄瑞は、詩の競作を挑んでいるのだ。多少重い気持で、松陰はうなずいた。  短古《たんこ》とし、韻は松陰が下平《かひよう》、玄瑞が上平《じようひよう》をとった。短古とは、古詩にならう漢詩の一形式で、簡単にいえば句数の少ない古詩である。絶句などにくらべ平仄《ひようそく》の規則もゆるやかなので、くつろいだときの作詩にむいている。     梅は百花の魁《さきがけ》となり     春香十分に宣《の》ぶ     人は誰れか豪傑の徒ぞ     能《よ》く天下の先となる     此の身幸ひ未だ死せず     例に沿《よ》って新年を迎ふ   (梅為百花魁/春香十分宣/人誰豪傑徒/能為天下先/此身幸未死/沿例迎新年)  松陰がまず新年短古第一首を示した。たちまちにして出来あがったというほどの早さである。  さきほどから松陰は、詩句を練っていたのだろうか。つづけて二首、三首とつくりはじめ、一刻ばかりの間に十五篇の短古をうたいあげた。考えていたとしても、さすがのものといわなければなるまい。玄瑞は驚嘆して、師の作をながめているだけだ。圧倒されて、いつもの彼と違い、どうもうまくいかない。  この二人が韻を分けるのは初めてのことで、松陰もそれなりに競争心を覚えたのかもしれないが、先に挑んだはずの玄瑞は、苦吟するばかりだ。やっと一首を示したが、自分の目にも駄作としか映らず、すぐに破ってしまう始末である。 「そのようなこともあるものです」  と、松陰はしょげかえる玄瑞をなぐさめ、再び筆をとると、「実甫《じつぽ》の韻に歩す」として、上平をとりあらためて短古十五篇をなした。実甫とは、松陰がつけてやった玄瑞の字《あざな》である。  最初、玄瑞から誘われたとき、あまり気乗りしなかった松陰が、しだいに昂揚して、次々と吐き出すように作った短古は、ついに三十篇にのぼった。ものに憑《つ》かれたような松陰の矯激な詩心に照射され、玄瑞は突然ことばを失ったのかもしれない。松陰は、最後の短古で、次のようにうたった。     幽囚出づべからず     坐して遠人山に対す     山鳥我れを慰むるに似たり     来りて庭柳の間に鳴く     東風|且《まさ》に凍を解くも     憂愁の顔を解きがたし   (幽囚不可出/坐対遠人山/山鳥似慰我/来鳴庭柳間/東風且解凍/※[#「匚」の中に「口」]解憂愁顔)  遠人山は、松本村の近郊にある唐人山をさしている。  憂国の情を詩句に托していた松陰は、自由を束縛された自身に対する口惜しさを、今さらのように噛みしめるのである。 「僕は、少し書きものをします」  松陰は、いきなり立ち上がると、まだ苦吟している玄瑞を残して、自室に引き揚げてしまった。玄瑞は筆を投げ、松陰の置いて行った短古を、しばらくはじっと眺めていた。 「何如ぞ今の君子、明哲巧みに身を保つ」「征夷果して何の意ぞ、全く心肝なきに似たり」「志士|徒《いたず》らに長嘆す」といった句が並んでいる。幽囚されている人の苛立《いらだ》ちを、玄瑞は初めて身近に見た思いだった。  荒っぽい足音がして、だれかが講義室に入ってきた。 「何じゃ、玄瑞一人か。嫁さんを放っちょいてよいのか」  高杉晋作が、笑いながら立っている。 「元日から詩作|三昧《ざんまい》とは真面目なことだのう。傑作ひとつ、拝見しようか」  そばに坐りこんだ。酒の匂いがする。 「僕のは駄作だ。見せられん。これは松陰先生の短古三十首」 「どれ」と、大ざっぱに晋作はそれに目を通して「先生に年始の挨拶にきた。むろんご在宅だな」 「今、書きものをしちょられる」 「邪魔すると機嫌をそこねるな、出なおすとするか。ではこれから一緒に正亮の家に行こう。正月ぐらい酒を飲め。それとも可愛い嫁さんのそばにおるか。無理には奨めん」 「出かけよう」  苦笑しながら、玄瑞は、ふと机にむかっている松陰のことを思った。 (何を急に書き始めたのだろう)  理由もなく、不吉な予感が、かすかに玄瑞の脳裡を走る。  元日、玄瑞と韻を分かって作詩したことが発火点となったかのように、松陰はにわかに筆を執った。  まず書いたのは『吉田氏略序』である。吉田家の家史だが、なぜかれが思い立ってそれを書いたかは、次のような文章であきらかにされている。 「嗚呼《ああ》、吉田氏は世々不幸にして、或は国亡びて節に殉じ、或るは短命にして子なし。独り矩方《のりかた》(松陰)身づから邦典を犯して以て覆敗を致す。不幸には非ざれども、不孝の罪これより大なるはなし……」  吉田家先祖の霊に詫びようとするのは、過去の行状だけでなく、近い将来に「邦典を犯」そうとしている自分である。つまり幽囚の身で新しく行動を起こそうとする松陰の決意が、そこにあらわれている。死を覚悟したのだ。吉田家は松陰の代で断絶するかもしれない。今のうちに、家の歴史を書きとめておこうというのであった。みずからの危険な門出を送る、かれらしい儀式ともいえた。  その『吉田氏略序』を書き終えると、息もつかず激しい勢いで筆を走らせた。連日夜を徹して机にむかう痩躯《そうく》白面の姿を、杉家の人々ははらはらしながら見守っている。松陰が筆をおいたのは、一月六日である。 「読んでみてくれぬか。気づきがあれば教えてほしい」  それを松陰は、まず玄瑞に見せた。 『狂夫の言』と題してある。「狂」の字が、いかにもまがまがしく躍っている。  容易ならぬ時勢を述べ、長州としてとるべき方策を論じているのだ。江戸下獄いらいの沈黙を破って、公然と政治批判の舌鋒《ぜつぽう》を展開したこの『狂夫の言』は、上書のかたちをとっている。松陰はそれを藩政府に提出するつもりである。士籍を失い、しかも幽囚の身で、過激な論陣を張ることは、破滅に通ずる危険な行為であった。  あらゆる災厄を覚悟の上で、松陰はノロシを打ち上げたのだ。かれと不可分の位置にある松下村塾もまた、当然このときから不穏な鳴動を始めるのである。 「天下の大患は、其の大患たる所以《ゆえん》を知らざるに在る」という書き出しでつづられる『狂夫の言』は、第一にアメリカが修好通商条約を幕府にせまっていること、また将軍継嗣問題で国内が分裂の危機に直面していることなどの中央情勢から説きおこしている。それらに対する長州藩の反応の鈍さ、傍観的態度をなじる痛烈な藩政批判であった。 「これを藩に差し出されるのでありますか」 「そうじゃ」 「藩が受けつけるでしょうか」 「それは出してみなければわからぬ。徒労だというのかね」 「とは思いませんが……」 「今は、だれかが本当のことを言わなければいけない時です。これで罰を加えられようとも、敢《あ》えて恐れるものではない。届けてくれぬか」 「だれの手許に出されます」 「土屋さんか、中村さんから家老の益田殿に渡してもらうつもりだが、やはり土屋さんがよい」  と松陰はひとりうなずいている。土屋|蕭海《しようかい》のところに、玄瑞が使いに立って『狂夫の言』を届けたのは、その翌日だった。 「正論とは思うが、このようなものを公《おおやけ》にして、吉田さんは大丈夫かな」  蕭海は、首をかしげた。家老の益田|親施《ちかのぶ》と懇意なので、松陰が望めば、その『狂夫の言』を手渡すことは容易だ。 「そもそも狂夫などというのが気になる。本人はへりくだっているつもりじゃろうが、その字義通りに受け取りかねないのが世の中である。そうは思わぬか」 「狂夫とは、へりくだりでしょうか」  と、玄瑞は反問した。 「でなければ、ますます悪い」  どうやら蕭海は、上書の仲介が迷惑のようであった。  玄瑞も師のためにいくらか躊躇《ためら》うところはあるが、相手が益田親施なら、善意に処理してくれるという気がする。この家老には人望があった。それに学者としての松陰に、身分を越えて私淑しているようだから。 (益田家老に判断させればよいのだ)  玄瑞はそう思った。その上書をつくる松陰の必死な姿勢を知っているから、蕭海のところで握りつぶさせたりはしたくない。無口にねばった。 「とにかく……」 「よし、とにかくお渡しする」  蕭海も肚《はら》を決めたようだった。  やや不安な気持で数日をすごしたが、反響はまったくなかった。益田が手許にとどめているのだろうと思われた。松陰は意に介さないというそぶりで、その後も『対策一道』『愚論』『続愚論』など、勢いづいたように、上書を差し出した。  自分の論策について、藩がまったく反応を示さないので、松陰は『対策一道』や『愚論』の写しを京都にいる知友|梁川星巌《やながわせいがん》に送りつけた。星巌はこれを公卿に渡し、ついには孝明帝の目にふれるという予想外の結果をもたらした。  一方、一月に出した『狂夫の言』が、偶然、藩主敬親の手許に届いたのは六月に入ってからだった。益田は必ずしも握りつぶしていたのではなかったのだ。重臣連の間には回覧されていたのである。以後、松陰の建言は、すべて目を通すと藩主はいいだした。これも悲痛な覚悟を決めていた松陰にとって予想外のことであり、玄瑞や蕭海の不安も杞憂《きゆう》に終ったことになる。  だが、松陰はこれでさらに勢いづいた。その加速された行動が、やがて周囲の者が惧《おそ》れていた方向に、松陰を駆り立てるのである。  ところで、松陰の上書を藩主が読むようになった結果はどうだったか。松陰の建言は、たとえば武力に訴えても修好通商条約は締結すべきでないといった長州藩主としてはどうにもできない問題もふくまれている。また藩の内政に関する献策も、採用されることはあまりなかった。ただ、松陰がくりかえし強調した人材登用だけは、実際面にかたちとなって現われた。これが松下村塾と強く結びつくのである。  塾生のなかの足軽、中間、商人の子に生まれた下積みの人々が、藩の要務を帯びて、江戸や京都に進出し、政治運動への重大な足がかりを得たのは、藩の人材登用によるものであった。しかもそれは藩に対する松陰の積極的な“塾生売り込み”の成果である。松下村塾が、拠点としての役割を果し得たのは、それなりな松陰の努力があってのことであった。   郷関を出づ  安政五年一月末、玄瑞は心待ちにしていたある朗報を受け取った。江戸遊学を許されたのである。 「当春出足月より往《さき》三十六ケ月御|暇《いとま》さし許され下され候やう御断りの趣、願ひの如く御許容をとげられ候事」  遊学の目的は、医学稽古のためとなっている。これは名目だけのことで、玄瑞はとっくに医者になる志は捨ててしまっている。しかし好生館諸生の肩書はそのままになっているから、学ぶとなれば医学としかいいようがない。とにかく江戸へ出るためには理由が必要なのだった。  遊学を勧めたのは松陰である。  このころ松下村塾は、ようやく最盛期を迎えようとしていた。村塾の四天王といわれる久坂玄瑞・高杉晋作・吉田栄太郎・入江杉蔵をはじめ主要な顔ぶれは、すでにそろっている。  入門を希望する若者はあとを絶たず、在籍の数だけなら三百人を超えるほどだった。もっとも毎日通ってくるわけではなく、怠けたり、途中で辞めてしまったりした者も少なくはない。やはり松下村塾の正規の塾生といえる者は、五十人前後とみてよいだろう。後年、塾生として名を遺したのは、そのなかの三十人余である。 「家で本を読むばかりが道ではあるまい。すべからく翔び出せ」  松陰はしきりにそれをいう。かれ自身若いときからずいぶん旅をした。その青春は、旅と共にあったといってよい。九州から青森までも駆けめぐっている。旅の間に思索し、詩心を養い、多くの先達に会って識見をみがいた。そして何よりも各地の情況をその目でたしかめた。  ──飛耳長目《ひじちようもく》。  それを松陰は、標語としてつねに塾生に呼びかけた。文字通り、耳を飛ばし、目を長くして広く情報を集め、未来を洞察せよというのである。  自由に動けるとき、松陰は自分の足で情報を集めた。新刊の書籍などもできる限り入手し、借覧して海外にも目をとどかせようとした。ついにはペリーの軍艦で、みずから外国へ渡航するという飛耳長目の最たる計画を実行に移し、失敗して幽囚の身となった。  自由を奪われた松陰にとって、飛耳長目の手足となるのは、松下村塾の塾生にほかならない。かれは自分のその目的のためにも、塾生を雄飛させなければならなかったのだ。松陰の分身となって、真っ先に村塾をとび出して行くのは、玄瑞である。  玄瑞の出発が近づくと、松陰は頼山陽門下の高足として知られる森田節斎や江戸在の親友桂小五郎また旧師佐久間象山その他の知友にあてて、玄瑞の紹介状を書いた。  玄瑞に与える「送序」もつくった。送序は、旅立つ者へはなむける励ましと惜別のことばである。やがて次々と萩を離れる門下生の一人ひとりに、松陰は懇切で情愛のあふれる送序を贈っている。妹婿の玄瑞に対する送序は、当然のことながら熱意をこめた長文のものとなった。自分の手許から飛び立って行く義弟に対する訣別の辞を、松陰はこのようにしめくくるのである。  ……実甫よ、往け。士この間に生れてゆく所を選ぶことを知らずんば、志気と才と、はた何の用ふるところだ。  生きて死に如《し》かざるや久しいかな。  実甫の行きて、皇京をよぎり、江戸を観れば、それ必ずやあまねく天下の英雄豪傑の士に見《まみ》えん。  往いてともに此の義を討論し、以《もつ》てこれを至当に帰し、返って一国の公是を定めんこと誠に願ふところなり。  もし然《しか》る能《あた》はずんば、吾《わ》れの推すに少年の第一流を以てせる。一家の私言となりて、天下の士に愧《は》づべきや大なり。  実甫よ行け。これを贈言となす。  二月二十六日、玄瑞は大勢に見送られて萩城下を発った。  最盛期にある松下村塾の声援と杉家の人々の温和なまなざしに見守られながら華やかな旅立ちだった。九州行きのときとは、まったく違う空気につつまれている。  松陰を除く見送りの者は、橋本橋を渡り、金谷神社の前までも蹤《つ》いてきてくれた。ここで別れる。  訣別を告げる男たちの群れからやや外れて、一人ぽつんと文が佇《た》っていた。控え目なその姿が目の裏に焼きつきはしたが、今は長途の旅にむかう若者の興奮によって湿っぽい感傷は抑えられている。  玄瑞は、昂揚した視線を、晴れあがった早春の空に浮かぶ雲にむけて歩き出した。それは、六年後の狂瀾怒濤《きようらんどとう》のなかに、かれの短い生涯が燃えつきるときをめざしてひたすら駆けて行く志士としての第一歩である。       「将《まさ》に発せんとす」     行李|蕭々《しようしよう》として旧関を出づ     腰間の鉄剣、響いて環の如し     この行もし微志を償はずんば     何の面《かんばせ》ありて重ねて来り故山を見んや   (行李蕭々出旧関/腰間鉄剣響如環/此行若不償微志/何面重来見故山)  出発が遅かったので、山口に着いたのは夕刻だった。鴻ノ峯の落日が美しい。  日がとっぷり暮れたころ富海《とのみ》に着き、ここで第一夜をすごした。富海は防府の東方、瀬戸内海を上下する船の発着場である。  翌朝、乗船して熊毛郡|阿月《あづき》に上陸する。阿月は萩藩の家老|浦靫負《うらゆきえ》の知行所で、その重臣|秋良敦之助《あきらあつのすけ》は、松陰と親しい。秋良のところに立ち寄ったのは松陰の依頼によるもので、ここでは藩内外の情況がよくわかる。だが、秋良は、数日前、江戸へむけて出発したあとだった。  再び乗船するまでの時間を利用し、松陰に報告の手紙を書いて飛脚便に託す。行く先々から、ほとんどは松陰にあてて手紙を発送した。師を喜ばせようとする玄瑞の思いやりである。松陰もまたその都度、江戸藩邸気付で玄瑞あてに返事をしたため送り出した。思いつくままに、あれこれと江戸での用事をついでに依頼するのも松陰らしいところだ。  阿月を出た玄瑞は、岩国、厳島を回り、広島へ上陸して吉田にも遊んだ。吉田は毛利氏のふるさとである。それから備後藤江村にいる森田節斎をたずねた。この旅で玄瑞が会うべき最初の人である。節斎は四十八歳だった。松陰からの紹介状のほか、月性がくれた紹介状もある。節斎は歓待してくれた。  九州旅行のように、玄瑞は詩才をひけらかすといったことを、すでにしなくなっている。成長というものであろう。  求められて「呈森田節斎」の七律を示し、この儒者を感嘆させた。そのときまでに、かれの旅の詩帖には、もう十一篇の作品が書きとめられている。  ゆっくりした足どりで備中を過ぎ、いつか大坂に入る。淀川の川舟で京都についたのは三月なかばだった。江戸までの旅程はまだ半分を残しているが、京都は目的地の一つだ。あこがれの王城の地であった。  そして玄瑞にとっては、やがて初めての恋を経験させ、さらには無慙《むざん》に骨を埋むべき聖地となる場所である。  京都では、三条小橋西入ルの池田屋に宿をとって、十日ばかり滞在した。  まず御所を拝し、二条城を望見し、また嵯峨野を遊歩して、またたくうちに三日が過ぎた。四日目にはじめて御池通りの長州藩邸をのぞいた。 「久坂、遅いではないか、えらく道草を食うたものだの」  思いがけない人物から声をかけられた。中谷正亮である。玄瑞を追っかけるように、萩を出たのだという。 「僕は池田屋に泊まっちょります」 「なんじゃ、そんなことか。何故お屋敷に来んのだ」 「たかが好生館の一医生でありますから、大手を振って屋敷の門をくぐっても、隅でちぢこまっておるのが精一杯です。わずかな日数だから、宿をとってのびのびと暮らしたい。この三日間、京のあちこちを、駆けめぐりましたよ」 「玄瑞らしい」  と、正亮は笑った。  この日から、五日間、玄瑞は正亮と一緒に行動した。主として名のある人物のところをめぐり歩いたのである。  まず梁川星巌と会った。通称新十郎、美濃の人で、漢詩人として知られた。尊王論者で、梅田|雲浜《うんぴん》、横井小楠らと交流し、反幕派の公卿とも交わった。星巌は、松陰とも親しく文通していた。松陰の論文を公卿に渡したのはこの人である。  松陰の紹介状を持って、玄瑞たちが訪問した半年後に、星巌は病死した。あたかも井伊|直弼《なおすけ》による弾圧の手がのびる寸前だった。つまり玄瑞が初めて京都に入ったのは、将軍継嗣問題や通商条約調印をめぐる幕政批判に血の粛清を加える安政大獄が、ようやく始まろうとする直前の無気味な静寂におおわれたころである。  玄瑞と中谷は、京都で梅田雲浜にも会った。星巌と雲浜は、当時京都にあって反幕的な姿勢を露骨に示す二大論客である。  雲浜──通称源次郎は、若狭小浜藩士で朱子学の大家だ。尊王攘夷をとなえ、将軍継嗣問題では、一橋派に属し、紀伊を擁する井伊直弼の排斥をくわだてた。 「妻ハ病床ニ臥《ふ》シ児ハ飢ニ泣ク……」という雲浜の詩は有名で、志士たちに愛唱された。しかし玄瑞が京都で会ったころの雲浜は、貧乏どころか、かなり経済的にもめぐまれた生活をしており、門弟も多かった。松陰のところに一時通ってきていた赤根武人《あかねたけと》も雲浜の弟子になっている。かれは周防柱島の医者の子で、陪臣の家に養子として入り、赤根姓を名乗った。いずれ玄瑞とも、しばらく行動を共にすることになる人物である。  玄瑞と正亮は、安政四年|閏《うるう》五月に、萩で梅田雲浜と一度会ったことがある。そのころ雲浜が長州にやってきて、松陰を訪問したからだが、親しく話す機会はなかった。 「あのとき松陰先生は、雲浜にあまりよい感じを抱かれなかったようじゃ」  と、正亮が、梅田家にむかう途中でいった。 「道理で、紹介状を書いて下さらなかった」 「それは知己の間柄だというので不要と考えられたんじゃろうがまあ、それだけではないな」 「松陰先生が雲浜を嫌われる理由は何ですか」  玄瑞は眉をひそめて、正亮にたずねた。 「雲浜ちゅう人は、第一に態度が尊大である。以前、松下塾にきたときも、われわれ塾生には鼻もひっかけんといった様子じゃったろう」 「そういえば、そうでした」 「松陰先生のような謙虚な姿勢は、みじんもうかがわれない」 「初めは尊大に見えても、親しくなってみると意外に好人物という人もおりますよ」  玄瑞は、宮部鼎蔵のことを思い出していた。佐久間象山にはまだ会っていないが、この人もずいぶん横柄なもののいい方をするらしい。それでも松陰は、師として象山を心から尊敬している。 「外見だけで、簡単には決めつけられません」 「何じゃ、玄瑞は嫁をもろうたら、とたんに分別臭いことをいうようになったな」 「………」 「お文さんに手紙を出したか」 「江戸から出そうと思うちょります。それはともかく、松陰先生が雲浜を嫌われる理由はもっとほかにあるのでしょう」 「ある。雲浜は、商人のようなことをやっておる。長州藩の物産御用掛を引き受け、松陰先生に会うたときも、そんな話ばかりして、学問のことは二の次といった態度じゃったらしい」  梅田雲浜が萩にきたころ、藩政を牛耳っていたのは坪井九右衛門である。坪井は、財政改革の一環として、江戸や上方との物産交易を進めようとした。大坂商圏との取り引きを、雲浜にゆだねたのである。かれの門下には、そうした実務家や地主・商人たちがいるのだ。  ──勤王家の山師  などと雲浜のことを悪くいう者も京摂間にはいるようだった。  松陰は、敏感に雲浜のそうした体質を見抜き、嫌悪したのであろう。 「雲浜のところへ行くのはやめようか」  急に正亮はいいだした。途々、雲浜の人物評をしているうち、会う意欲を失ったのだろう。 「この目で、たしかめてから、交わりを絶つかどうか決めても遅くはないでしょう」 「そうか、玄瑞の分別に従おう」  正亮が笑う。  二人はいつか一乗寺葉山観音の近くまでやってきた。雲浜の居宅はそこにある。雲浜は気軽く面会に応じた。 「うむ、一別いらいであったな」  松陰のところで、玄瑞や正亮と会ったことを憶えているという。 「その坊主頭は、とくに忘れられぬ」  玄瑞にむけては、そんな冗談もいった。なるほど尊大なもののいい方はするが、予想していたよりは、ずっと親しみをみせ、しかも歓迎してくれた。 「お富、済まぬが酒を買うてきてくれぬか」  家事を手伝っているらしい少女にいいつけ、酒肴《しゆこう》の用意を命じたりした。お富は雲浜の兄の子である。妻子と離れて暮らしているかれの身のまわりの世話を引き受けて甲斐々々しく働いていた。後年、山田|勘解由《かげゆ》(中川宮家の臣)と結婚した山田トミで、明治になると日本最初の私立女学校を夫と共に経営した。  雲浜の家には、このお富のほかにもう一人女が、そのときいた。お富の友だちで、近所の町医者、井筒玄庵の娘である。タツといった。遊びに来ていたのだが、急の来客でお富が忙しくなったので、タツも手伝うことになった。  お富より二つ三つ年上のタツは、ちょうど玄瑞の妻の文と同い年ぐらいだが、色白のふっくらした面立ちは、美少女のようだった。大きな黒目を輝かしたタツと、一度だけ玄瑞はそのとき視線をあわせた。 「萩で、吉田さんには、どうも嫌われたらしい」  少し酔いがまわると、雲浜はそんなことをいった。 「学問の話をせず、物産取立の問題などをしきりにいわれたので松陰先生は退屈されたのではありませんか」  玄瑞は、先刻正亮から聞いた通りのことを遠慮せずにいう。 「そうかもしれん。だが、今はそれも大事な時節である。朱子学だけで、幕府と喧嘩はできんからな。物産取立は、当今どこの大名もやろうとしておる。肥前藩、松山藩然り、宇和島藩然りだ。薩摩もやっとる。西南諸藩がそれを競っておるとき、長州だけが手を拱《こまね》いていることはないと、おぬしたちの藩に進言したのだ」 「それで、藩政府はご指示通りにやっちょるでしょうか」  正亮が、ようやく気乗りしたらしく、質問をむけた。 「藩のお偉方はその気になったが、役人がだめだ。地主・豪農を物産取立の役に任じ藩に直結したので、地方《じかた》諸役所が無視されたというてそっぽをむいてしまった。逆に瀬戸内方面の地主・豪農は、物産取立に藩が乗り出すことを喜ばぬ。不平ばかり多く、何事もうまく運ばん。嘆かわしい限りだ」  慷慨《こうがい》する雲浜の話は、次に将軍継嗣問題へと移る。 「彦根の井伊直弼は奸物《かんぶつ》である。紀伊の徳川慶福をかついで、幕閣に乗り出そうという魂胆と見える」 「先生が一橋慶喜を推し出そうとする理由は何でありますか」 「紀伊が出れば、直弼が飛び出してくることは明白だ。かれの野心は大老職にある。幕府の独裁をめざしておる。幕政を改革するには、外様もふくめた雄藩連合を志す一橋を将軍に据えなければならぬ」 「薩摩の島津侯が一橋派に立つのは、そのためですね」 「薩摩は薩摩で夢をえがいておろう。長州はどうなのだ。いつまで日和見を決めこんでいるのか」 「松陰先生も、それを嘆いちょられるのであります」 「君たちが起て」 「僕は、幕府改革などはなまぬるいと思うちょります」 「なまぬるい?」 「改革では、なまぬるいのです。幕府などぶっつぶすべきですが、まずは外圧を加えてくる米夷との対決が先であります」 「さすが吉田さんの弟子は勇ましいな」と、雲浜は笑って、玄瑞に酒をすすめた。  このような話は、松下村塾で松陰を中心に何度もとりかわしたはずだが、緊張のただよう京都にきて、動きの渦中にある雲浜のような人物に会っていると、ズシリとした手ごたえがある。初めて国事にかかわるほんものの論議に参加したという興奮が、玄瑞をつつんだ。 (梅田雲浜という人物、悪くないではないか)  玄瑞は、そう思った。 「君は、その声だと、何か歌えそうだね。ひとつ聞かしてもらえないだろうか。私もあとで今様《いまよう》をひとつ披露しよう」  やや陽気になって、雲浜がもちかけた。 「やりましょう」  玄瑞は酔っている。陶然とした気分で、彼は詩を吟じはじめた。 「男児志ヲ立テテ郷関ヲ出ヅ……」  僧月性の「立志詩」である。  玄瑞の声は、晩春の京の夜を朗々とふるわせ、そこにいる人々の胸を充たした。  このとき、美少女井筒タツも、隣室で耳を傾けていたのである。   風雲  安政五年四月七日、玄瑞は江戸桜田の藩邸に入った。  ──萩藩上屋敷。  一万七千坪(五・六ヘクタール)の広大な敷地を持ち、三十六万九千石の西国大名らしい格式を誇っている。  現在の日比谷公園堀端に近いところで、藩邸跡には法務省、東京地裁、法曹会館などの建物が並んでいる。  邸内には藩主やその家族の居室、各役務部屋のある本館のほか、藩士たちの宿舎が南北に配置してある。南固屋、北固屋などと呼んだ。  萩藩主の参勤交代は、最低五百人の供をそろえた。江戸まで三十泊の大旅行である。しかも一年間、その家来たちを江戸で養わなければならない。  随従の藩士たちは、桜田藩邸だけでなく、芝の中屋敷、麻布の下屋敷、葛飾の抱屋敷、京橋の蔵屋敷といった藩邸に分散される。萩藩だけで、江戸の各所に大小約三十の屋敷をもっていた。豪勢といえばいえるが、大変な出費である。参勤交代が、大名たちに強いた財政負担は、想像以上のもので、大名経済の破綻を招いた要因の一つといわれるほどだ。  玄瑞が藩邸に入ったころ、藩主は帰国一カ月前で、ぼつぼつ江戸引き揚げの支度がはじまったころだった。 (何という無駄なことをしちょるか)  と、玄瑞は思う。このようなとき、諸大名が江戸に在って無為に生活している。幕府はそれを当然の掟として、昔ながらの義務にかれらを縛りつけようとするのだ。幕府にしてみれば、幕政批判の声が高まろうとする昨今、大名に対する人質政策たる参勤交代は、今こそ必要だと考えてもいるらしい。 (藩主の帰国を機に、参勤交代を拒否すればよいのだ)  玄瑞は、そうも思った。いずれ上書を提出するつもりだが、それは藩主が江戸を発ってからにしようと決めて、まずは萩にいる松陰にあてた手紙にその意見を書き加えた。  藩邸に入ってから二日間は、郷里のだれかれにあてた手紙を書いているうちに過ぎてしまった。三日目に、政務座に呼び出され、江戸遊学のため好生館の籍から除外するという辞令を受ける。そういえば、自分は医師養成の好生館諸生だったのかと気づき、それと縁が切れたことで、ほっとした気分だった。これでどうやら羽がのばせると喜んでいると、翌日思いがけない藩命をいい渡された。 「松平肥前守様御家来伊東玄朴に入門仕り、直ぐさま彼方へ入込み稽古仕り度き段、願ひの如く御許容を遂げられ候事」  というのである。もっとも伊東玄朴に入門したいとは、遊学願いのとき付け出しておいたのだが、「入込み稽古」とまでは希望していなかった。こんどの江戸遊学は自費ということになっている。藩費にすがっている者よりも自由に動けるとばかり考えていたのに、アテがはずれた。伊東玄朴は、佐賀鍋島の医官で、シーボルトに師事した蘭方医として知られている。 「直ぐさま」というのだから、その日のうちに、藩邸を出なければならない。仕方なく玄瑞は、下谷和泉橋通り御徒町の伊東玄朴の寮に、何となく気乗りしない表情で移って行った。  医師として身を立てることに見切りをつけている玄瑞にとって、医学の修業とはいかにも苦痛である。  しかも入込み稽古ということになると、きびしい規則に縛られてまったく自由がきかないのではないかと、それだけが心配だった。ただ玄瑞としては、医学はともかくオランダ語だけは学んでみようという気になっている。  江戸に出る口実は、玄瑞の立場だと医学修業しかないのである。普通の藩士なら、文学修業の名目で江戸遊学を許される。幕府の昌平黌に入学するのだが、大きな学校だから、適当に勤めて、あとは自分の好みに応じ、私塾にも籍をおいて、文字通りの遊学で一、二年をすごし、江戸の生活を楽しむという者もいる。  桂小五郎のように、剣術修業を許されて江戸に出ることもあった。小五郎のばあいは、桜田の藩邸から九段の練兵館に通い、熱心に稽古を続け、やがて入寮して、一年ばかり後に塾頭となった。これはやはり珍しい例である。剣術修業で江戸に出ても、怠けて大した腕もみがかないうちに、期限がきて帰国するという藩士も少なくない。  小五郎などは、練兵館でのずば抜けた成績で名を挙げ、藩邸での役職を獲得して、急速に出世の糸口をつかんだ。練兵館の道場主斎藤弥九郎の感化を受け、同じころ江戸へやってきた吉田松陰との交流などを通じて、小五郎は尊王思想を身につけていった。  斎藤弥九郎という人物は、単なる剣客ではなかったのである。水戸の藤田東湖(安政二年の江戸大地震で圧死した)と親交があり、砲術家として有名な江川太郎左衛門との交流も持つ勤王家だった。  弥九郎に紹介されて、小五郎はそうした人々との面識を広げた。また練兵館塾頭として、剣術大会に出場する過程で、坂本竜馬や武市半平太といった人々とも知りあった。やがて幕末の政界に活躍する有力な人脈とのつながりを、小五郎は江戸で生活する数年の間に張りめぐらしていたのである。それは、かれの打算というよりも、江戸はそうした社交の場でもあったのだ。  玄瑞をはじめ、間もなく次々と江戸に進出してくる松下村塾出身者は、松陰の奨めもあって、桂小五郎を頼った。小五郎は、村塾と直接関係しなかったが、松陰の親友であり、兵学門下である。つまり松陰を仲介者として、かれらは互いに親近感を覚え、結びあった。小五郎を指導者とする長州藩の急進的な一勢力は、そのようにしてできあがったのだ。  玄瑞もむろん小五郎に近づいた。松陰は、東上する玄瑞に、ある任務を与えていた。それは山陰の沖に浮かぶ竹島の開拓許可を幕府からとるよう、小五郎と協力して進めてもらいたいというものだった。  長州藩の手で竹島を開拓せよといいだしたのは、支藩長府の城下にいる興善昌蔵という医者である。かれはその思いつきを松陰に手紙で訴えた。将来有益であると思った松陰は、江戸に行く玄瑞に託し、桂小五郎にこの仕事を進めさせようとした。まず幕府の許可が必要である。幕府が許せば、藩も考えるというのだ。 「竹島をか……」  小五郎は、心持ち首をかしげたが、松陰の意向に従うことにした。さっそく勘定奉行にあたってみようという。 「僕は何をいたしましょうか」  と、玄瑞がたずねた。 「おぬしは、当分医学修業に精を出しておればよろしい」  小五郎が微笑を泛べ、そんな返事をしたので、玄瑞は露骨に不満をあらわし、 「何もするなといわれるのでありますか」  と、食ってかかる姿勢をみせた。 「まあ、竹島のことは、何人がかりでやるという話でもあるまい。私にまかしておきなさい。久坂君は、まず江戸の生活に早く馴れることだ」  おだやかだが、どことなく威圧するような調子がうかがわれるのは、色白の端正な顔に、底光りする目だけが、剣客らしく据わっているからだろう。 (松陰先生も、こんな目をされることがある)  ふと玄瑞はそう思った。自分の前にいる人物が、何か常人と違うものを持っているように感じられるときがある。今がそうだった。その後も、玄瑞は、小五郎の前に出ると、きまって、かすかな劣等感に襲われた。それはしかし松陰と対しているときに覚えるのとは別の、肌に伝わってくる違和感のようなものであった。  ところで、竹島開拓のことは、小五郎もかなり本気で取り組んだようだった。周防出身の村田蔵六という者で、幕府の講武所にいて要路にも顔がきくので、かれに協力を求めたらしい。  玄瑞が村田蔵六の名を知ったのは、江戸にきてからである。藩では百姓身分だが、蔵六も医者であった。蘭方医を志して、オランダ語をやっているうちに、いつか西洋兵学の権威者になっていた。今では幕府から重く用いられている。  それは玄瑞の兄玄機も同じである。蔵六と同じく適塾出身の秀才で、それなりの業績を遺しはしたが、早く死んだので、蔵六の陰にかくれてしまっている。生きていたら、やはりひとかどの西洋兵学者として活躍していたにちがいない。 (しばらくは蟹行《かいこう》の徒となるか)  玄瑞は、ひとりつぶやくのである。江戸に出て、自分の身分が、あくまでも医生であることの限界をつくづく思った。萩にいるころ一時は投げてしまっていたオランダ語の修得を、このあたりでやりなおすかという気分に、ようやく落ち着きかけている。  伊東玄朴の塾では、むろんオランダ語の講義がさかんにおこなわれていた。医術の研修を避けて、語学だけに専念することも可能だった。大勢からいえば、オランダ語はぼつぼつ過去のものになりつつあった。医学など自然科学系を中心に、外来文化を移入するのに果したオランダ語の役割を終ろうとしていたのだ。外国語の主流は、英語に移ろうとしていたのである。  玄瑞は、そのことにまだ気づいてはいない。藩命という抗えない指示に従って、オランダ語の学習に重い腰を上げたのだが、結果的にはそう長い期間ではなかった。玄瑞を蘭学塾に閉じこめてばかりもおれない情況が、やがて訪れてくるからである。──  玄瑞が伊東玄朴のもとで、一応は語学に打ちこんでいる間、桂小五郎は例の竹島問題を幕閣にも持ちこんで、しきりに動いていた。これは徒労に終ることになる。萩藩主の毛利敬親のほうから、打ち切るようにとの指令が発せられたのだ。竹島が日本の領土に帰属するかどうかが不明であるという理由であった。松陰の依頼を受けたとき首をかしげた小五郎の予感はあたっていたのである。  そんなこともふくめて、玄瑞が江戸入りした四月七日から、同二十二日まで、かれの身辺は、まずまず穏やかに明け暮れた。  そして、多くの人々の心に、暗い翳《かげ》りがさしはじめたのは、翌二十三日からである。  安政五年四月二十三日。  その日、彦根藩主井伊直弼が、大老に就任した。いわば停滞していた政情は、この剛直な人物が権力の座を占めることによって、一挙に展開するのだが、それは血なまぐさい暗黒政治への突入を意味している。  いわゆる安政大獄の幕開《まくあき》である。井伊大老の使命は、まず米使ハリスが強引にせまる日米通商条約の調印と将軍継嗣問題の決着だった。  朝廷の反対でもたついている日米通商条約の調印を、井伊が強行したのは六月十九日である。ひきつづいて、かれは継嗣問題にとりかかった。将軍世子に紀州徳川|慶福《よしとみ》を立てることを公告したのは六月二十五日である。  条約調印の違勅行為、継嗣の独断決定に対する一橋派諸侯の反撥《はんぱつ》は大きく、一斉に井伊非難の声があがった。  七月五日。長く病床にあった十三代将軍家定が死んだ。これで予定通り紀州の慶福が将軍の座に就くことになるが、その前に邪魔者を取りのぞこうと井伊は大ナタをふるう。非難への報復でもあった。  家定の遺言であるとして、烈公水戸斉昭と尾張の慶恕《よしくみ》を隠居謹慎に、一橋慶喜(烈公の七男)と水戸藩主の慶篤《よしあつ》を登城停止に、その他一橋派として慶喜擁立に動いた伊達|宗城《むねなり》、山内|豊信《とよしげ》(容堂)を隠居謹慎、幕吏では若年寄の本郷|泰固《やすかた》、勘定奉行の石川政平らを次々と罷免した。  ついで井伊直弼は、鯖江城主の間部詮勝《まなべあきかつ》はじめ自派の大名三名を幕閣に招き、独裁体制をかためるのだった。  このようにして、まずは幕府部内の動揺が始まるのだが、井伊大老の専横な姿勢に対する国内の批判も急速に高まっていった。とくに勅許を得ずに通商条約を調印したことは、安政の条約いらいくすぶりつづけていた尊攘熱をたちまち沸騰させた。反幕の世論をかきたてる一群の志士に弾圧の手をのばす井伊の恐怖政治も、ようやく開始されようとしていた。  騒然とした江戸の気配は、さすがに長州藩邸にもしのびよっている。藩主が帰国中なので、人数は少ないが、緊張した面持ちの藩士たちが寄り集まって幕府の動向を低い声で話しあっていた。 「久坂君、蘭学のほうは進んでおるかね」  このごろしばしば藩邸に顔を出している玄瑞に、桂小五郎が話しかけてきた。 「どうも蘭学どころではありませんね」  と、玄瑞は苦笑した。 「松陰先生からの便りは?」 「ひっきりなしですが、江戸の様子を知って、じっとしてはおれないらしく、だれかれにあてて時務論を送りつけておられるようです」 「危険だな」  小五郎が、眉《まゆ》をひそめた。 「やはり、そうでしょうか」 「幕府の動きが怪しい。御三家の殿様でも処罰するほどの井伊のことだ、激論を抑えるためには容赦ない手だてを考えちょるに違いない。今騒ぐと危い。命を落とすことにもなりかねないぞ」  小五郎らしい慎重な判断である。  もともと松陰が江戸や京都の政情を知って、心を昂《たかぶ》らすのは、玄瑞たちが、逐一情報を送りつけるからである。松陰からも催促されるので、仕方なくということもあるが、杉家と松下村塾から一歩も出られない師の立場への同情もあって、そううるさいとは思わなかった。 「あまり細かく知らせないのがよいのではないか」  と小五郎はいった。そうかもしれないが、玄瑞にしてみれば、事態がこうなって、急に通信をやめると、松陰の焦躁はもっとひどくなるだろう。 「心得ます」  とだけ答えておいた。そういいながら、玄瑞はそのとき『参府三論』を書き上げ、これを上書として藩政府に渡るよう手配願いたいという手紙をつけ、松陰に送ろうとしていたのだ。これは藩主が参勤交代を拒否して、長州藩の海防に力を入れ、幕府に対する毅然とした態度を示せというものだった。玄瑞のそれを見て、松陰もまた筆をとり、藩主の参府を不可とする上書を提出した。  参勤交代は、幕府の大名統制策の基本法ともいうべき武家諸法度のなかでも、特別に重視される規則である。前にも述べたように、諸大名は厖大《ぼうだい》な参勤の出費に悩み、苦痛を感じつづけてきた。  その参府を拒否せよと主張したのは、玄瑞の『参府三論』が最初のものである。当時としては実に思いきった激論であった。松陰もまた玄瑞に同調して「東勤の失計」を論じ強く藩の決断をせまるのである。  この師弟二人が痛論する参勤交代拒否は、藩主の心を動かした。参府を取りやめるかと検討するところまで行ったが、反対する重臣もいて、安政六年春の参勤は結局実行された。そして翌万延元年に帰国したまま長州藩は、参勤交代をついに拒絶したのである。  これにならおうとする諸大名の動きも出てきたので、のち文久二年になり幕政改革の一環として三年に一度と改められたが、これで事実上の廃止となり、幕府の大名統制はたちまち弛《ゆる》んだ。  松陰と玄瑞のいう参府拒否論は、単に藩主の江戸行きに反対するだけでなく、もっと重大な思想をふくんでいる。藩主は、在国して長州独自の力を養い、時局に対応せよというのである。  ──防長割拠。  やがて桂小五郎や高杉晋作が唱えるそれは、安政五年のこの時、松陰と玄瑞が口火を切った割拠論を前進させたものといってよいだろう。  かれらのいう「割拠」とは、戦国時代のあの群雄割拠した情況からの発想である。室町幕府が衰弱したあとの無政府状態のなかで、各地に割拠した戦国大名、たとえば中国における毛利元就の覇業がある。元就は、天下に号令しようとする織田信長にも屈しなかった。  今こそ防長は割拠して、徳川幕府の暴政に抵抗し、さらに日本を大割拠させて欧米列強の圧力を撥《は》ね返そうというのが「防長割拠論」である。安政いらい多くの曲折はたどったが、この割拠思想をつらぬくことによって、長州は時代の先駆者たり得たのだ。── 『参府三論』を上書して間もなく、玄瑞は江戸をとび出し、再び京都に入った。松下村塾の塾生四人がまじる六人の若者が、ある密命を帯びて上洛《じようらく》したという松陰の手紙を見て、じっとしておれなくなったからである。  松陰の手紙によると、最近京都で聞き捨てならぬ風説が流れているという。  京都には尊王|攘夷《じようい》論の壮士なども各地から集まってきており、天皇を擁立して幕府に反抗しようとする動きがあるので、井伊大老はこのさい皇居を自城の彦根に移そうとしている、というのであった。  容易ならぬ噂だ、真偽を確めてみる必要があると、松陰は藩に進言した。藩としてもこれに同意して、探索者を京都に派遣することにした。そこで松陰は塾生のなかから四人を推薦し、それに藩が選んだ二人を加え、六人にその任務がさずけられた。  四人の塾生とは、伊藤伝之助・杉山松介・伊藤利助・岡仙吉である。ほかに惣楽悦之助と山県小輔がいる。山県も京都から帰国後、松下村塾に入った。いうまでもなく伊藤利助がのちの博文、山県小輔が有朋である。明治の政界に権勢をふるった二人が、政治活動にはじめて足を踏み入れたのがこの京都行きだった。六人とも萩藩の軽輩である。  松陰は京都へ旅立つこの若者たちにむかって、今こそ軽輩の実力がどのようなものであるかを示してやれ、村塾の真価を見せるときがきたのだと激励するのである。また松陰としては、かれらをおのれの分身として、京都の情報をさぐらせようという目的もあったにちがいない。  玄瑞が、伊東玄朴のもとで、たどたどしくオランダ語の学習などしておれないと思ったのは、その手紙のなかに、 「暢夫《ちようふ》も追々到着なるべし」  と書いてあったことにもよる。暢夫とは高杉晋作である。  晋作も早くから江戸遊学を望んでいたが、父親が許さなかった。というよりも祖父六兵衛の意思が強く働いていた。 「なにとぞ大なる事は致しくれるな」という祖父の願いが、父小忠太を通じて晋作の行動を制禦していたのである。その祖父が死ぬと、小忠太は晋作の強い希望を容れて、やっと江戸遊学を許す気になった。  松下村塾の俊才と謳《うた》われた玄瑞と晋作である。その玄瑞が一足先に江戸へむかって発ったあと、晋作は内心焦りを感じながら、我慢づよくこの日を待っていたのだ。 「晋作がくる!」  玄瑞は、この好敵手を江戸に迎えることを喜んだ。だが、晋作は玄瑞もそうしたように、途中京都で何日かをすごすだろう。となれば探索者として入洛する六人と、晋作はしばらく行動を共にするわけだ。  藩から与えられた探索の命令に従って、活発に動くかれらの姿が目に見えるようだった。重大な使命を帯びたその人々にくらべ、のんびりオランダ語の辞書などめくっている自分が、玄瑞には情なく思えるのである。  つづいて、中谷正亮もまた京都にのぼったということを知った。正亮はいったん帰国していたのだが、また上洛の機会をつかんだらしい。正亮だけではない。吉田栄太郎、松浦松洞、そして少し遅れて村塾に入門した入江杉蔵も京都にいるという。  玄瑞は、決心した。  伊東玄朴の塾を出て、京都へ行くことにしたのである。藩邸に居住している者が許可なく江戸を離れると脱藩行為になるが、入込み稽古の身は、その点いくらか動きやすい。しかし、医学修業の藩命を放棄することに変りはないのである。  黙って江戸を去れば、脱藩行為にならないまでも、違命の罪には問われそうである。そこで一応は桂小五郎に、それらしい理由を並べて連絡しておいた。 「探索の藩命により六人の松下塾生その他が京都に入る。かれらの周旋を松陰先生から依頼されたので、ちょっと行ってくる」  といったものである。  小五郎はまだ江戸遊学生の身だが、重臣たちの信頼厚く、間もなく江戸藩邸の大検使に就任することになっていた。いざというときは、玄瑞のために弁じてくれるだろう。  京都に入ったのは七月下旬である。藩邸には、顔見知りの連中が、そろって玄瑞を歓迎してくれた。ありがたいことに、萩で世話になった中村九郎もいた。中村は藩の重臣で、玄瑞の兄玄機と親交があったことは前にも述べた。そのほか中谷正亮・吉田栄太郎・松浦松洞・入江杉蔵らがいた。 「江戸でオランダ語など習うちょるのが嫌になりました」  と玄瑞は、再会した正亮にだけ本心を打ちあけた。 「医者をやめて侍になれ」  こともなげに正亮がいう。 「この前から、それを思うのですが、簡単にはいきません」 「中村さんに頼め。何とかしてくれるだろう」 「自分ではいえません。図に乗るなといわれそうで」 「そのうち僕から頼んでやろう」  正亮にそういわれて、玄瑞は真剣にそのことを考えはじめた。足軽・中間の身分から藩士に引き上げられるのは至難だが、玄瑞は寺社組付き譜代二十五石の藩医である。いわば横すべりということで、藩士になることは、それほど困難ではあるまいと正亮も思っているようだった。  松下村塾にいるころ、玄瑞に「お地蔵さま」と仇名をつけたのは、結婚前の文《ふみ》である。それでみんなが、その愛称で呼ぶようになった。あのころは、気にもならなかったが、江戸に出て坊主頭のまま大刀など差して歩いていると、奇異にうつるのか、ふりむいて見る人もいた。  十九歳の玄瑞にしてみれば、もう少し何か恰好をつけたいという気がしないでもない。士分並に髷《まげ》を結って、表通りを闊歩《かつぽ》している自分の姿をふと想像することもある。松陰が知ったら、この俗物めと大喝されかねない。やはり恥かしくて他人にはいえないことだった。  京都屋敷で二日ばかり中谷正亮らと語りあっているうち探索の六人が上洛してきた。塾生たちとの久しぶりの再会である。六人ともいやに張りきっているのは想像した通りだ。 「遊学の命がわれわれにはなかなか廻ってこないので、軽輩の身は情ないと、不満をぶっちょったのですよ。松陰先生のご周旋で、やっと出てこられました」と、伊藤利助が、出発にいたる経過を玄瑞に説明した。 「それはよかった」 「しかし、わずか十日ですよ。また萩に帰らなければならん。江戸には行けんのです」 「いずれ機会はある。とにかくこんどの使命を充分以上に果してみせることだ」 「松陰先生と同じいい方ですの」  と利助は笑った。 「探索には、及ばずながら僕も手をかそう」 「彦根遷幸説ですか、あれは大したものではありません。流言ですよ」 「それはそうだろうが、そのことを調べにきたのだろう」 「何のあれは表むきです」  そういって、また利助はあたりを憚《はばか》るように笑った。 「どういうことだ」  気を抜かれて、玄瑞は腹立たしそうに尋ねた。 「あれは根も葉もない流言であろうと松陰先生はいわれちょります」 「それを知った上で、探索者を出せと藩に進言されたのかね」 「われわれが京都に出るための口実をつくって下さったのですよ。それはそれとして調べますが、本筋の任務は、京の情勢探索であります。朝廷をめぐる公卿たちの動き、幕府、諸大名の動向、梅田雲浜、梁川星巌などの言動もふくめて、洗いざらい調べあげてこいと松陰先生はいわれました。それをやります」 「なるほど、では僕もそれに沿って、少しばかり駆け歩こう。おぬしたちに、よいみやげを持たせんといかんな」  玄瑞は、中谷正亮を誘って、まず梁川星巌を訪れ、梅田雲浜に会った。この二人とはすでに面識があったので、かなりくわしい情報を聴くことができた。利助にそれを伝え、星巌や雲浜の近況も詳しく教えてやった。 「これでは、おみやげにならんな。どうだ大原三位のところへ乗り込んでみるか」  と正亮がいいだした。 「行きましょう。あの公家さんには、一度会いたいと思うちょりました」  玄瑞は大賛成だ。さして身分もないかれらが公卿の屋敷を訪問するのは厄介な手続きが要ったが、星巌の斡旋で大原三位との面接はどうやら実現した。  大原|重徳《しげとみ》は権中納言、五十八歳。このころ従三位だったので、大原三位と呼んだ。この人早くから尊王論をとなえ、日米通商条約への勅許に反対した硬骨の公卿として知られている。  初めのうち重徳は、あまり多くを語らなかった。吉田松陰のことはよく知っており、その門弟だという玄瑞と正亮に親しみは示したが、不用意に喋《しやべ》るまいとする警戒心は捨てていない。 「まことに稚拙な漢詩でありますが、批正をいただければ光栄に存じます」  と、玄瑞は紙と硯《すずり》を借りて、「淀川」と題する七言絶句を手早くしたためた。公卿に近づくにはやはりこうしたことから始めるべきだろうと、咄嗟《とつさ》に考えついたのである。この春初めて入洛したとき、淀川をのぼる船の中で作ったものだ。     満岸の蘆花《ろか》、夕日|殷《さかん》なり     都言|鄙語《ひご》、一篷《いつぽう》の間     箇中に独り蕭然《しようぜん》たる客あり     首を回らせば金剛天末の山   (満岸蘆花夕日殷/都言鄙語一篷間/箇中独有蕭然客/回首金剛天末山) 「おお、よう出来ましたな」  重徳は感心して、もっと披露してほしいと望んだ。相手の年が若いので、重徳はそんな褒《ほ》め方をしたが、求めに応じて玄瑞が示す二、三の作品を見ていくうちに、大きくうなずきはじめた。重徳の態度が、ぐっとくだけた。正亮が悪戯《いたずら》っぽく笑った目を玄瑞に投げる。 (いつもの手で、うまくやったな) (さあ、本音を吐かせるのは、いまのうちですよ)  と玄瑞は、ことさら謹厳な顔をつくって、背すじをのばした。 「そなたの詩にもあるごとく、天下の勢いは今や誠に切迫しておりますな」  重徳が先に切り出した。それから、かれは実におどろくべき意中を語ったのである。 「天下の勢いは、今や誠に切迫しております。まろは朝廷のため一命をなげうつ覚悟で、有志の藩に下って事を為すつもりだが、長州は正義の藩でありましょうな」  大原重徳は、まず正亮の目を覗《のぞ》き込むようにしていった。 「それはもう、正義の藩であります」  正亮が答えた。 「なれば、まろは長州の地に赴きたいが、おまえ様たちが手続きして、藩の家老と面接できますか。まろの意見を聴いてくれましょうか」 「……できる、と思います」  正亮は、いささか自信なげに答えながら、玄瑞を見た。 「なるべく早い機会に、そのことを実現させなければならぬと存じます」 「いずれ帰国の上、運んでくれますよう」  大原重徳は、うなずきながら玄瑞に親しげな視線をむけ、不意に立ち上がると、そのまま奥へ引っ込んでしまった。一瞬の幻覚に似た思いが、玄瑞の記憶に残った。  昂揚した気のおもむくままに、だれかれのもとを訪ねて歩いているうち、重いものを突然背負わされた感覚も、そこにはあった。つまり玄瑞が「志士」としての行動を意識する、最初のときであったといえるだろう。  かれは早速、大原三位のことばを、松陰に書き送るのである。松陰が喜んだのはいうまでもあるまい。ただちに「時勢論」一篇を書き上げて重徳に送るという反応の速さだった。松陰はこの「時勢論」に「大原卿に寄する書」を添えている。どうか長州にお下り願いたい、藩政府には自分の知人も多く、ぜひ紹介の労をとりたいというのである。──  藩邸に帰ると伊藤利助らも集まっていて、それぞれに集めた情報を、ひそひそと報告しあっているところだった。 「久坂さん、梅田、梁川両先生に、一度面会の機会を与えていただけませぬか」  待ち構えていたように、山県小輔がいった。玄瑞より二つ年上の二十一歳である。足軽の子で、このときはまだ松陰の弟子になっていなかった。小輔は、和歌をたしなむ。色浅黒く、頬のそげたような面持ちで、やや陰気な男に見えたのは、いつもはしゃいでいるような伊藤利助らの前で多少遠慮しているせいもあった。 「それはお易いことです。十日の滞京となれば、急いだほうがよいな」  玄瑞は、大きく頷《うなず》いた。 「いや、その滞京予定が延びまして、三カ月ぐらい腰を落ちつけて探索せよという命令をきょう受けました」  いつになく小輔が、明るい表情を見せている。梅田雲浜らに会いたいといいだしたのも、長期滞在が決まったからだろう。 「それはよかった」 「やっぱり、あれですよ」と、伊藤利助が話に割って入る。「松陰先生のお口添えでありましょう。十日ぐらいじゃ、何もつかめはしない、もっと京にとどめよと……」 「まあ、そんなところだろう」  杉山松介なども、しきりにあいづちを打っている。 「久坂、留守役が呼んじょるぞ」  しばらく席を立っていた中谷正亮が、再び顔を出して、玄瑞に伝えた。語調がひどく沈んでいるので、だれも一斉に口をつぐんでしまい、ひっそりとした空気がただよった。 「江戸からでしょう」  と、玄瑞はわざと明るい声をだした。 「そうらしい。えらい見幕だ」 「中谷さんにも、とばっちりが行きましたか」 「それはよいが、どうする?」 「ま、あとでゆっくり考えて決めます」 「何があったんですか」  と、利助がおどろいて尋ねる。 「久坂は、江戸の入込み稽古先を抜け出して京に来たのだ。けしからんと江戸藩邸からいうてきたらしい」 「江戸に帰れと?」 「いや、それが帰国せよということらしい」 「萩にでありますか」  利助は、気の毒そうな目で玄瑞を見た。 「わかった」と、いきなり玄瑞は立ち上がった。「僕はここにおらんじゃったことにしてくれ。しばらく行方をくらます」 「おい、それは無茶だ。脱奔《だつぽん》となればあとが面倒じゃぞ」と正亮。 「敢《あ》えて辞さぬ。このまま萩におめおめと帰れるか」  あっけにとられている皆を残して、玄瑞は藩邸を飛び出した。桂小五郎が、何とかことをうまく運んでくれるだろうと甘えた気持でいたのだが、やはり規則はまげられなかったのだろう。  玄瑞はそれから梅田雲浜のところに行った。しばらく京都に身を潜めたい旨を述べると、雲浜は快く承知して、一室を提供してくれた。  松陰にあてて手紙を書く。七月二十四日だった。 「……僕、実に今春出郷いまだ為す所あらず、何の面目にて帰国せん。もしこの事に付、萩表より又々帰国せよと申し来り候とも、決して帰りは致さず候。……致し方のなきやう相成り候はば、浪華《なにわ》あたりに梁山伯《りようざんぱく》を始め、家を借り、自炊にて、天下有志の士を悉《ことごと》く聚《あつ》めたく候。……」  となかなか強硬である。この手紙のなかで、玄瑞はまた次のようなことも松陰に依頼した。  奔走するのにも金がかかって困る。自分のような小禄ではどうすることもできないので、別に年十二両の支給を藩政府にお願いしてみていただけないだろうか、というのである。藩の帰国命令を無視して、脱藩同様に身をかくしながら、しかも禄以外の手当てをくれとは、相当にムシのよい話だ。  いかに松陰が藩の要路に顔がきくといっても、違命の者に手当てを支給させるほどの勝手を許されるわけもなかった。何よりも玄瑞への帰国命令を取り下げるように働きかけることが先決である。松陰は、それを中村九郎に頼んでやり、江戸の桂小五郎にあてても、玄瑞の身のふり方について善処してくれるように伝言するなどさすがに心を痛めた。かつて松陰は江戸藩邸から過所手形を持たず旅に出て、脱藩とみなされ、士籍を剥奪《はくだつ》された。後日になって、かれはそのことを後悔している。だから玄瑞に同じ轍《てつ》を踏ませたくなかったのである。  ところで、雲浜の家に潜むことにした玄瑞は、しばらく外を出歩かず部屋にとじこもって、もっぱら読書に打ちこんだ。読む本には事欠かないのだ。時には集まってくる門下生たちにまじって、雲浜の講義も受けた。周防出身の赤根武人とも会い、松下村塾を話題に歓談することもあった。 「それはそうと、高杉さんはあらわれませんね」  と、武人が思い出したようにいった。  高杉晋作と赤根武人は、天保十年生まれの同い年である。後年、この二人は激しく対立し、ついに武人は死に追いやられることになるが、玄瑞の存命中は、同志として行動を共にした。  晋作は譜代の萩藩士である。武人は陪臣だが、晋作に負けないくらいの学識をたくわえている。一時は松陰のもとに出入りしたこともある。武人が最初に師事した周防の僧月性の紹介によるものだが、なぜか松陰を離れて、京都の梅田雲浜に入門した。武人は、長州にあって「又家来」などと蔑称《べつしよう》されるのを嫌い、月性の詩にあるように、志を立てて郷関を出たのだ。  晋作や玄瑞とも違って、武人はある負い目のようなものを持っている。馬面でアバタの浮いた晋作にくらべ、彫りの深い聡明な顔立ちだが、どことなく暗い翳りがあるのもそのためであろう。  いったん松陰に近づきながら、雲浜のもとに走った武人に対して晋作は内心あまり良い感じを抱いていなかったのである。しかし、玄瑞は月性という共通の人間関係もあるせいか、武人にはやわらかい目で接していた。 「高杉さんはあらわれませんね」  と武人にいわれ、玄瑞は近く晋作が東上するという松陰の手紙を思い出した。 「江戸で文学修業を命じられたにしても、必ず京都には立ち寄るはずだが、何をしちょるのかな」 「再会が楽しみでしょう」  武人が、多少の羨望《せんぼう》をこめた口調でいった。郷里に、親友らしいものを持たない武人にしてみれば正直な気持であろう。  かれがいうように、晋作との再会を玄瑞は心待ちにしているのだが、対抗意識も動いている。あの男、これから何をやらかすのだろうかといった探るような目付きで晋作の到着を待ち受けているのだった。  晋作と玄瑞は、松下村塾の双璧《そうへき》といわれ、萩にいる間、大勢の注目を浴びていた。これは松陰がそのように仕向けていたのでもあった。  晋作の識  玄瑞の才  松陰は二人を対置させ、競争心をあおった。松下塾にあらわれた晋作は、わがままな性格をむき出しにし、学問も充分とはいえなかった。そこで晋作の奔放な行動を玄瑞によって抑えようとした。晋作は、それに反撥《はんぱつ》しながら、玄瑞に並ぼうとする。 「予、事を議する毎に多く暢夫《ちようふ》を引きて之を断ず」  などと松陰は、一方で晋作を持ちあげる。玄瑞はそれを聞いてまた発奮するのである。いわば松陰にけしかけられながら、二人は好敵手としての友情を育ててきた。  その晋作が、萩を出発したのは玄瑞が京都で帰国命令にそむき梅田雲浜の家に潜んだこのころ、つまり安政五年七月二十日のことである。  だれもがそうしたように、初旅だから、途中人に会ったり、名勝旧跡をたずねたりで、ゆっくり上ってくる。このとき京都で玄瑞と晋作は、ついに会わずじまいだった。──  梅田家の家事は、相変らず雲浜の姪のお富がやっている。その友だちだという井筒タツも、時折顔を出し、いつか玄瑞とも親しくことばを交わすようになった。  タツの父親は町医者だから、玄瑞が長州の藩医だと知ると、余計に親しみを覚えたらしい。 「久坂さまは、大文字火を見やしたことおありどすか」  と、タツがたずねた。 「話には聞いちょりますが、まだ見ておりません」 「惜しいことどすなあ、ついこの前どしたのに……」  東山三十六峯のひとつ如意ケ岳通称大文字山で七月十六日(現代では八月十六日)の夜、山麓《さんろく》の地元民が〈大〉の字形に松の薪《まき》をたく盆の送り火行事である。  二百八十束、千貫の薪を、小半刻足らずで焼き尽す壮観は、京の盆行事の圧巻だ。京の人々は、夕涼みを兼ね、鴨川《かもがわ》べりに出て、夜空に浮かぶ火の大文字を見物する。その年も、緊張をはらんだ京都の平穏を祈るかのように、大文字火を焚《た》いた。  それはタツがいう通り、玄瑞が上洛する数日前のことだった。 「来年は、一緒に見に行きまひょなあ。こない大きな大の字どっせ」  泳ぐように、〈大〉と書いて見せるタツの白いてのひらを目で追いながら、玄瑞はふと楽しい気分に誘われるのだが、萩にいる文の顔を思い浮かべると後ろめたくもあった。  松陰にはもう十通余の手紙を書いたが、文にはまるで出していない。自分の近況は、松陰への手紙で杉家の人に伝わるだろうと考えているからでもある。  松陰にあてて、藩から手当てを支給するように取り計ってもらいたいと依頼した例の手紙のなかに玄瑞は、 「僕は決して登楼などして婦人に一銭も費《ついやす》など決してこれなく……」  と書いた。萩を出るとき、口羽徳祐はじめ二、三の者から「江戸や京都には、遊ぶところも多く、酒色の誘惑もあるので気をつけるように」との注意を受けていたのである。  京都にいる伊藤利助など、勤勉に働く一方では、この道にもなかなか熱心で、入京するとさっそく遊里に出かけているらしく、それとなく玄瑞を誘ったりもした。  きびしく自分に戒律を課した松陰と違って、玄瑞は酒の席が特別嫌いなわけでもないが、脱藩同様に江戸を飛び出してきた当初だけに、利助らと夜の町に繰り出すほどのうかれた気持にはなれなかった。清潔に身を持していることを松陰に報告しながら、これは文の耳にも入れてくれるだろうと、そのとき玄瑞は思ったものだ。  京は、さすが大都会である。長州藩邸に近い三条河原町の繁華街は、いつもお祭りのような人出だった。十九歳の玄瑞の目は、やはり女の顔を敏感にとらえている。 (京女は、美しいな)  人にはいわないが、そんなことをひとり呟《つぶや》くことはあっても不思議ではないのである。  江戸でもそうだったが、大刀を差した坊主頭の玄瑞を、無遠慮にふりむいて行く人が少なくない。それも女性に多いところを見ると好奇心が男以上に強いのだろうくらいに思っていた。そのことを雲浜と閑談しているとき話すと、 「それは久坂君の男ぶりがよいからであろう」  と笑ったので、玄瑞は、思わず赤面した。たしかに玄瑞の恰幅《かつぷく》といい、秀麗な相貌は、頭を剃《そ》りあげているだけに、人一倍目立つのであった。  町で何人も見た美しい京女と、玄瑞はことばを交わしたことがない。雲浜の家で会った井筒タツはそのなかの美女のひとりが、思いがけなくかれの前にあらわれたようなものだった。玄瑞の耳に、タツの話す京ことばは、甘いささやきにも感じられた。  それから間もなく、梅田家と井筒家の双方を襲った別々の不幸のために、タツは玄瑞の前からまったく姿を消してしまった。かれが井筒タツと偶然に再会するまでには、大文字火のことを話しあったこの日から、およそ三年という歳月を必要としたのである。  梅田雲浜の家に、ずるずると居据わるように、玄瑞は一カ月余りも滞在した。  潜んでいるというものの、かれが雲浜のところにいることは、仲間うちに知れわたっており、中谷正亮や情勢探索の松下村塾生たちも雲浜との面会を兼ねてよく訪ねてきた。  八月三十日には、山県小輔があらわれた。 「梁川星巌先生に会わせて下さい」  という。雲浜の同意も得たので玄瑞は、小輔をつれて鴨泝小隠の梁川家に向かった。  星巌が、江戸お玉ケ池の宅を引き払って京都に移ってきたのは、嘉永二年だった。漢詩人として名をとどろかせた星巌は、尊王論をとなえ、王城の地に居を定めたのである。はじめは丸太町にいたが、しばらくして鴨川の東にあたるこの地に小さな家を買い求めて住みついている。  公卿などに知人が多く、志士との仲介役をつとめた。吉田松陰・佐久間象山・森田節斎・宮部鼎蔵・横井小楠らとの親交がある。  梅田雲浜・頼三樹三郎・池内大学らも、詩作にかこつけて星巌の家に会合し、朝廷との手づるを求め、その経綸をおこなおうと謀った。  星巌はすでに七十歳である。頬骨が高くとがり、鶴のように痩せた老人だが、眼光は人を刺すように鋭く輝いた。若く美人の妻|紅蘭《こうらん》と二人で暮らしている。 「ようきたな」  星巌は、体の調子が悪く病床にいたが、紅蘭の助けをかりて起き上がり、玄瑞と小輔を機嫌よく迎えた。話しているうちに、星巌はいつになく激した口調になった。 「鯖江《さばえ》侯を刺せ!」  と叫ぶようにいうのである。鯖江城主間部詮勝を暗殺せよと、星巌はいっているのだ。間部は老中職にある。 「大老井伊の命を受けて、鯖江侯が近く入洛する。その使命は、洛中の尊攘派駆逐と、朝廷の粛清にありという。許せるか」  玄瑞は、そう聴いても、すぐには飲みこめなかった。それよりも星巌の疲れがひどく、呼吸さえ困難に見えたので、早々に辞去することにした。  送りに出た紅蘭に、 「先生はどこが悪いのです」  と玄瑞はたずねた。前日から下痢をしているという。医者にもかかっているとのことで、一応は安心して梁川家を出たが、星巌を見たのは、それが最後だった。  この日から四日後、星巌はあわただしく世を去ったのである。コレラだというが、訪ねた玄瑞らにも、また起居を共にしていた紅蘭にも感染しなかったのだから、別の病気かもしれない。 「帰国したら、吉田松陰先生に会われたらどうか、ここに紹介状を用意した」  帰途、玄瑞は小輔にそれを渡し松下村塾に入塾することを奨めて別れた。 「鯖江侯を刺せ!」  という星巌のしわがれた絶叫が耳にこびりついている。おそらく小輔にとっても同じことだったろう。十月に帰国し、すぐ松陰に会った小輔は、玄瑞と共に星巌と面接したときの模様を伝えたのである。それが松陰の命とりになるなどとは、山県小輔の夢にも思わないことだった。  はっきりした理由でなく、何となく松陰に、星巌のこのことばを伝えるのが躊躇《ためら》われたので、玄瑞がそれを手紙に書かなかったのは、不吉な予感を覚えたからかもしれない。  京都に暗雲がただよいはじめたのは、梁川星巌が死んだ直後であった。  梅田家にいる玄瑞のところへ、中谷正亮が訪ねてきたのは、九月二日のことである。 「朗報というべきかどうかわからぬが……」  と前置きして、正亮は、玄瑞への新しい藩命を伝えた。 久坂玄瑞   右、蕃書調所に罷出で洋書研究仕り候やう仰付られ候事  蕃書調所《ばんしよしらべしよ》は、安政二年、幕府が江戸九段坂下に開設した洋学所を、二年後に改革再開した外国語の学校である。  洋学所時代は、洋学研究と外交文書の翻訳局を兼ねたが、蕃所調所になると教育機関としての内容を整え、場所も神田小川町に移した。のち開成所と改称、維新後は明治政府の手で大学南校とし、国立の大学となった。東京大学の前身である。はじめは幕臣だけを対象としたが、諸藩からの入学を許した。  帰国命令を無視して、京都に居据わる久坂玄瑞に対する藩政府からの風当たりは強い。脱藩とみなして厳重処分せよという声もあるが、松陰の運動で、何とか抑えられている。といっても決定を延期しただけで、このままなら「御家人召放し」はまぬかれないだろう。京都から帰国した中村九郎も骨を折ってくれたが、江戸藩邸にいる桂小五郎も玄瑞の処理には頭を悩ましていた。  結局、もう一度江戸へ呼び戻し、あらためて蕃書調所に入学させようということに落ちついた。もはや従わないわけにはいかない。即刻、京を発てというのである。 「江戸もまたよからずや。天下往来の地であり、有志の士が集まるところ。蛮夷の形勢をうかがうにも便であろう」  梅田雲浜は、しょげかえっている玄瑞に次のような送序を与えて、激励するのだった。  久坂玄瑞は長州の人である。  京師に来り、私を訪ねてきた。歓迎して共に酒を飲んだが、宴たけなわとなるや、玄瑞は詩を吟じた。その声は高く美しく、戸外の樹木さえもふるわせるほどであった。  玄瑞は京に留まることを許されず失意の境にあるが、私はその志を憐《あわれ》み、その去るにあたって、皇威の必ず古に復し、地に堕《お》ちざるを言い、しばらくその気を壮にすべくつとめた。……  玄瑞が、京都を離れた直後、まるでそれを待っていたかのように、騒然とした気配がたちこめた。  ──安政大獄。  緊張がただよっていたとはいえ、みやびやかな都のたたずまいを見せて、おっとり構えていた京の町は、一挙に恐怖政治の渦に巻きこまれるのだ。  九月四日に、梁川星巌が死んだ。逮捕寸前の逝去で、のちに「死(詩)に上手」などといわれた。生きていても、獄死はまぬかれなかった事情を、何事にも冷ややかな京の町衆が戯評したものである。  七日、梅田雲浜が捕えられ、頼三樹三郎、橋本左内……と、将軍継嗣問題では一橋派に荷担し、反幕的言動のあった学者、志士に対する容赦ない粛清の手がのびはじめた。  それを露払いとして、十七日には老中間部詮勝が、京都に乗り込んできた。大老井伊直弼から意をふくめられたかれは、朝廷やその周辺で尊攘の気風を盛りあげている者たちを威嚇《いかく》しながら、二条城に入った。梁川星巌が、死の直前、面会にきた玄瑞に「鯖江侯を刺せ」と叫んだ、その鯖江侯が間部詮勝である。  まさに風雲急を告げる京都の様相を、玄瑞は江戸で知った。星巌の死も、雲浜の逮捕も。   松陰就縛  神田小川町の蕃書調所に行くと、ものものしい受付けがあって、玄瑞がさし出した藩の添書を、初老の武士が丹念にあらためた。 「いつから出てくればよろしゅうありましょうか」 「貴公、蘭学はどのくらいやった」 「少しばかりです」 「これを訳してみてもらおうか」  と、一冊の洋書のなかほどを開いて、玄瑞につきつけた。活刷した細かい蟹《かに》文字が、ギッシリ並んでいる。 「読めません」 「なんだ読めないのか」  露骨に軽蔑した顔で、放り投げるように本をかたわらにおくと、 「駄目だねえ。お帰りなさい」  言い渡して、幕吏はさっさと玄瑞の前からいなくなった。ムラムラと怒りがこみあげてくるが、どうしようもないのだ。いわば入学試験に落ちたのである。オランダ語の基礎がしっかりしていなければ、蕃書調所に入れないことを、藩でも知らなかったらしい。初歩から教えてくれるものと、玄瑞も思っていたのだ。  この蕃書調所はオランダ語が主で、英、仏、露語科もあるが、まだそれほど力を入れていない。いずれにしても、玄瑞は門前払いを食わされたのである。  当時、周防出身の村田蔵六が、蕃書調所で教授をつとめていた。まだ長州に仕官する以前で、つきあいのあるのは桂小五郎くらいだった。藩邸に帰り、入学を拒否されたことを小五郎に報告すると、「村田さんに頼もうか」という。「いや、無理して入っても、ウロウロするばかりではどうしようもないでしょう」と断わった。内心、玄瑞はほっとしている。  当分、藩邸内の有備館で開かれる経書の講義を受けながら、藩命を待てということになった。有備館は萩の明倫館にもあるが、これは剣術の道場だ。桜田邸内の有備館には講堂があって、江戸の有識者を招き、講座を開いている。かつては松陰もここで講師をつとめたことがある。  その松陰から、玄瑞にあてて手紙が届いている。伊東玄朴のところで、オランダ語を習っているころ、玄瑞が疑問を投げかけていたことへの返事である。  オランダ語を完全に習得するまでには十年かかる。このまま十年間も、蟹文字と取り組んでいてよいものだろうか、オランダ語は専門家にまかせておけばよいではないかと、玄瑞は松陰に愚痴を述べてやったのだった。 「まったくその通りだ」と松陰は返事してきた。玄瑞のその手紙を受け取った八月の中旬に書いたものだ。 「洋書のこと、命なれば原書を読まざることを得ず。併《しか》しここに象山に聞きたることあり。原書を読むにも、一通り訳書を見て、いよいよ原書を読まねばならぬと申す処へ心付き候上にて読むべしといへり」  つまり佐久間象山の意見では、むつかしい原書に最初から取り組むより、訳書を読めというのである。  玄瑞は、松陰のその手紙を、小五郎に見せた。 「同感だ」  と、うなずいた。小五郎も一時はオランダ語を習い、英語にも手をそめたことがあるが、いずれも途中で投げ出している。めまぐるしく変転する情勢に背をむけて、語学に打ち込んではおれないと気づいたからだ。 「村田先生のところへ行くか」  小五郎は、蔵六が蕃書調所につとめる一方、番町に「鳩居堂《きゆうきよどう》」を開塾したことを知っている。オランダ語も教えるが、蔵六は自分で訳した本を教材に使う。「村田先生は、講武所の御用で兵書も訳しておられるらしい」 「ぜひ、鳩居堂に入りとうあります」  思わず、玄瑞は大声を出した。  玄瑞が村田蔵六の鳩居堂に入塾したのは、安政五年十月のはじめである。桜田の藩邸から通った。  鳩居堂では、西洋兵学の講義もあるかと期待していたが、オランダ語と医学だけを教えた。  またか、という気がしないでもないが、一応はつとめておかないと、帰国せよといわれかねない。まずは西洋医学に精励しているふうで、桜田と番町の間を、せっせと往復する玄瑞の姿が見られた。  かれは、しきりに京都のことを思っている。星巌が死に、雲浜が捕えられた京都は二つの尊攘拠点を失った。とくに星巌の家などは、幕府側から「悪謀の問屋」といわれるほど諸国からの志士が集まっていたのだ。尊王運動は大きく後退した。  吹きすさぶ大獄の嵐は、今のところ長州藩には及ばないようだった。藩としては、まだそれほどの動きをみせていないころである。  ただ一人、吉田松陰が論陣を張っている。しかし松陰は、初対面のときから雲浜にあまり好感を抱かなかったので、将軍継嗣問題には引き込まれず、入獄その他で江戸や京都にまで名をとどろかすことはなかった。だから雲浜や三樹三郎らに連座せずに済んだ。翌年の江戸召喚でも、最初は雲浜取り調べの参考人にしかすぎなかったのである。やはり長州は、江戸から遠く離れていた。  だが、十月に入ってから玄瑞のところにくる松陰の手紙は、急に不穏な調子を帯びるようになった。  赤根武人に関することでもそうである。武人は、雲浜が捕えられるとすぐ、長州に帰って行った。雲浜に出した自分の手紙なども、うまく回収したというのだから、手際よく逃げたものである。  武人は、萩に松陰をたずね、 「師が獄にいるちゅうのに、黙視しておってよいのでしょうか」  と、つい勢いにのって、京都六角の獄を破り、雲浜を救出したい意志をのべた。 「雲浜には大和に信奉者が多いと聞いておる。かれらを糾合して襲うたらどうだ」  松陰は、武人をけしかける。 「やりましょう」  武人はそう答えて立ち去ったが、破獄がそんなに簡単にできるものとも思えない。やはり、かれは行動しなかった。 (赤根には、できないだろう)  と、松陰もにらんだ。成否を問わず猪突する人物ではないことを知っているのだ。 「赤根に破獄の策をさずけたが、とても実行するようには思えない」  そんな手紙を玄瑞によこすのである。それは同感だし、武人でなくてもそのような無謀な行動はおこせまい。それよりも、玄瑞は、極秘ともいうべき内容の手紙を、平気で書きつけてくる松陰の神経が心配だった。反幕的な過激論を、だれかれになく送りつけている。そのことは京都にいるとき、玄瑞から松陰に忠告する手紙を送ったはずだった。 「……先生の著書、時々活刷などにて参り候もの有之、是《これ》は宜《よろ》しからず候。……先生の書は俗儒|迂生《うせい》の手にまでも有之……色々他国人に評などさせるは亦《また》宜しからず候。先生の文、大体国事に関係すれば、不評可なり、無用の人へは見せなされずとも可なり……」  こうした玄瑞の注意で、論文をばらまくことはやめたようだが、こんどは手紙の内容が異常な傾向をたどりはじめた。  鳩居堂から藩邸に帰ると、このころ江戸に出てきたばかりの松浦松洞が、待ちかねていたらしく玄瑞の固屋《こや》をたずねてきた。声を落としている。 「久坂さん、松陰先生からの書簡だが、読んでみて下さい。どうしたものか……」  玄瑞は、それを一読しておどろいた。暗殺指令書ともいえるものだ。ある人物を殺すように指示し、その方法まで書き込んでいるのだった。  松陰が松浦松洞に与えた暗殺指令書は、やや手のこんだもので、二通に分かれている。  一通には、ある「奸物《かんぶつ》」について語るだけだ。その奸物の名は、はっきり書いていない。尾・水・越・橋四侯が処罰されたのは、この奸物の謀略によるものだというのである。  かれを斃《たお》せば、天下の事は定まるだろう。その方法は「営中で打ち捨てるは上策、一邸を襲ふは中策、坐視観望は言ふに足らざるなり」としている。これだけを見たのでは、だれを殺せといっているのかわからない。そこで別送してきたもう一通を見ると、水野土佐守のことが詳しく書いてある。  土佐守は、新宮三万五千石の城主で、紀州の藩付家老である。徳川慶福(家茂)を擁立した有力者の一人であった。紀州を離れ、大名として独立するのがかれの希望で、幕府の要路に賄賂を贈ったり妹が十二代将軍家慶の側室で大奥に勢力があったのを利用して、側近を抱きこんでいるという噂が立っていた。松陰はすべての黒幕は、この土佐守と思いこみ、大老の井伊でさえ、あやつられているとみたらしい。だれから吹きこまれたのか、あまり正確な判断とはいえない。  とにかく、二通の手紙を合わせれば、水野土佐守を殺せといっているのがわかる。 「入鹿《いるか》を誅した事実を覚えて居る人は一人もなきか」とけしかけるのだ。そして最後に「事破れた時は、|※[#「羽/隹」]義《てきぎ》徐敬業なり」と結んでいる。これはシナの故事をいっているのであって、誅戮《ちゆうりく》したのち敗死した志士の名である。つまり失敗したら、自刃せよというのであった。  松陰のこの手紙の追記には、中谷や高杉など同志にもこれを見せるようにと最初に書きながら、「此の一条は同志への秘密、山田へ御謀り然るべく候。此の外策なし。嗚呼嗚呼」で終わっている。文脈が乱れているし、激昂したり、慨歎する調子が尋常でない。 「どうしますか」  と、松洞が、玄瑞の返事をうながした。 「受け取らなかったことにして焼き捨てたがよい」 「そうするしかありませんな」 「僕のほか、だれに見せた」 「あんたが最初だ」 「高杉や中谷さんにも黙っておこう」 「………」  松洞はうなずいて、松陰の手紙をふところにしまいこんだ。  そんなことがあって、一カ月も経ったころ、こんどは玄瑞のもとに、松陰の密書が届けられてきた。さらに驚くべきことがつづられていたのである。これはすでに、指令などではなかった。みずから先頭に立って、老中間部詮勝を暗殺するというのである。  梁川星巌が「鯖江侯を刺せ」と病床で叫んだとき、玄瑞のほか山県小輔が同席していた。小輔は玄瑞の奨めで、帰国直後、松下村塾に入っている。  京都で、玄瑞と一緒に行動したことを、小輔は話したにちがいない。松陰もまた星巌に会ったときの様子を、根ほり葉ほり訊ねたものと思われる。  玄瑞が、星巌のことばを、松陰に伝えるのを躊躇《ちゆうちよ》したのは、そのころから激論を撒いていることに不安を感じていたからである。まさか自分で間部を殺《や》ろうなどと松陰がいいだすとは考えてもみなかった。 (小輔に口止めをしておくべきだった)  悔んでみても、もはやどうしようもないのだ。松陰は、間部を暗殺したいので武器弾薬を貸与してもらいたいとこともあろうに藩政府に願い出たという。暗殺どころか、幕府と戦争を始めようと、藩に持ちかけたのも同然である。  お前たちも手伝えと、松陰はいうのだった。 「ひどいことになったのう」  高杉晋作が口をゆがめ、 「ただでは済むまい」  と、中谷正亮は、つぶやいた。 「桂さん、近くご帰国とうかがいましたが……」  玄瑞は、黙って腕組みしている小五郎に話しかけた。 「……先生にきびしく忠告していただけませんか。こんなことをしよったら、幕府から手が延びる」 「幕府もだが、まず藩府が許すまい」  小五郎は、舌打ちするようにいう。 「だいたい、あることないことを、松陰先生の耳に入れるのがいかんのだ」  と、正亮が腹立たしそうにいった。 「そうだ」  小五郎がうなずく。そういわれると、玄瑞も晋作も、ちょっと困った顔になる。  飛耳長目をいう松陰は、しきりに京や江戸の情報をほしがる。松本村の一隅に閉じ込められた師の気持も察して、筆まめに政情を書き送ったのは玄瑞や晋作だけではない。松浦松洞はじめほとんどの門下生がそうしている。  手紙だけでなく、帰国すると、藩の遠近方《えんきんかた》への報告もそこそこに、松陰のところへ駆けつけ、見聞を伝える者も多かった。松陰がひどく喜ぶからだ。  そもそも松陰が間部暗殺をいいだしたのは、江戸から帰国した赤川直次郎(淡水)の話を聴いてからである。赤川は、玄瑞と親しい藩の重臣中村九郎の弟である。松下塾に入らなかったが、松陰の兵学門下だったから、時折、松本村を訪ねていた。十一月のはじめ江戸から帰国した赤川は、松陰に耳よりな情報を伝えた。 「薩摩・水戸・越前・尾張の四藩が連合して、井伊を暗殺する計画を立て、わが長州藩にも助勢を求めちょるということです」  この四藩は一橋派として、井伊を敵視する点で共通の立場にある。とくに薩摩を除いた三藩は、井伊のために藩主を罰せられている。  井伊暗殺の噂が立てば、当然その顔がそろうところだが、赤川がもたらしたこの話は、相当な誤聞である。井伊直弼を殺そうとしていたのは、水戸や薩摩の浪士たちであった。  いずれにしても、井伊を狙う動きがすでにこのころから始まっていたことを伝えたかれの情報は、かなり早いものとはいえた。 「井伊は、かれらに任しておけばよい。われわれは間部をやるべきだ」  松陰は、興奮して、すぐに塾生たちに呼びかけた。当時、松下塾に残っていたのは、入江杉蔵・佐世八十郎・品川弥二郎・寺島忠三郎・吉田栄太郎・時山直八らをはじめとする十七人だった。  江戸にいる連中は、冷静に受けとめ、松陰をなだめることに一決し、諫止の返事を送り出した。松陰と日常を共にしている者たちは、その気勢に圧倒されて、いやとはいえなかったのだろう。いくぶんは首をかしげる者がいたとしても連判状に署名し、松陰の命ずるままに行動を起こした。  佐世八十郎は、自力で弾薬集めに奔走し、品川弥二郎は須佐の育英館に走った。そこは松下塾と姉妹関係にあり、主宰の小国剛三は松陰とも親しくしている。 「無謀だ。そのような軽率な計画に荷担できるか」  剛三は一言のもとに拒絶した。  百両の軍資金調達を申し込まれた土屋蕭海も「吉田さんは狂うたか」と相手にしなかった。  何よりも慌てたのは、藩政府である。松陰とは親しい重臣の周布政之助が説得にきたが、大激論となり、追い返された。 「松陰の学術不純にして人心を動揺す」  藩は、松下村塾の閉鎖を命じ、松陰を再び野山獄に投じた。  玄瑞や晋作らが連名で江戸から出した手紙を、松陰は獄中で受け取った。 「中谷、高杉、久坂より静観の意見を申しのべてきた。彼らは僕の良友だと思っていたのに、いうことはそんなものだ。とくに高杉はもっと思慮ある男とみていたが意外だった。みんな濡れ手で粟をつかむつもりだろうか」  門下の岡部富太郎にあてた手紙で、松陰はそのように失望の気持を訴えている。江戸にいる玄瑞らに対しては、もっと激しい語調の手紙が獄中から発せられる。 「野山獄囚姦婦賊子の伍たる吉田寅次郎の如きは、公等必ず交友の末に措《お》くことなかれ」  絶交状である。  最も信じている門下生からそむかれた失意と、獄に拘禁された苛立《いらだ》ちで、松陰はこの時期、心思錯乱の状態におちいっている。そうした中で、だれかれにとなく手紙を送りつけ憤懣《ふんまん》をぶちまけるのだ。──  十二月に入って間もなく、玄瑞に帰国命令が出た。突然のことで、おどろいていると、即刻江戸を立ち去れと、きびしい催促である。理由を尋ねても、とにかく帰国せよというばかりで、まったく要領を得ない。しかし玄瑞にはわかっていたのである。高杉にしても、中谷にしても同様であろう。つまり玄瑞への帰国命令が、吉田松陰の投獄一件に関連していることを、暗黙のうちに認めないわけにはいかなかった。  玄瑞は松陰の妹婿で、その思想的影響を最も強く受けているというのが藩吏の見方だ。江戸を飛び出して京都に行き、梁川星巌や梅田雲浜などの国事犯と親密に交わっていたことなども知られている。  玄瑞は、わざと愚図々々して、藩邸を出ようとしなかった。体調がよくないので、すぐには旅立てないというのであってみれば、むりに追い出すこともできない。江戸藩邸の重役たちは、不機嫌に玄瑞を見守っている。  萩の土屋蕭海にあてて、一月上旬までには帰ると、手紙を書いた。 「……書生が居れば幕府への御嫌疑これある由、誠に以て腰抜の俗論笑ふべし。……正月下旬頃には又々遊歴、決して萩には久しく居らず。何も帰国、政府へ論ずる積りに御座候。……」  帰らされても、また萩を出て行ってやるぞと、強気の構えだ。  玄瑞がしぶしぶという表情で江戸を発ったのは十二月の下旬である。だから安政六年(一八五九)の正月は、旅の途中に迎えた。二十歳になった。  松陰は、その年の元日を野山獄で迎えた。このほうは相変らずの錯乱した姿で、正月もなにもないといった荒れ方である。萩にいる門下生たちも、手を焼いたかたちで、野山獄にはあまり近づかず、はらはらしながら遠くからながめているだけだった。それでも松陰にしばしば面会し、師の心をなだめようとした門弟が二人いた。入江杉蔵と野村和作の兄弟である。足軽の子で、弟の和作は野村家を継いでいる。その入江杉蔵に、松陰は重大な任務を与えた。  春、毛利敬親が参勤のため東上の途中、その駕籠を伏見に停めて強引に京都へ入らせ、三条実美、大原重徳ら反幕派の公卿と合せて京都に旗挙げさせる計画を、松陰は実現させようとするのだ。旗挙げなどと簡単にいうが、要するに討幕を叫んで蜂起しようと呼びかけているのである。  ──伏見要駕策  という。これを書きつらねた松陰の密書を、大原重徳に届けるよう杉蔵に命じたのだ。  これといった準備もなく、事を起こす結果がどのようなものであるかは、わかりきっている。間部詮勝暗殺計画を上まわる無謀な激論である。  狂ったような松陰の命令だが、忠実に従うほかあるまいと杉蔵は考えた。大原重徳が賛同して、事が進み、破れても、ひとつの行動を起こしただけの意味は残ろう。  かれは、わずかな家財道具を売り払って、二十両の資金を調達し、まさに出発しようとするのだが、間際になって弟の和作が代わりに行こうといいだした。杉蔵は長男で、老いた母親がいる。  十八歳の和作は、密書を持って萩を発った。ところが秘密にしていたはずの京都行きが、母親の口から岡部富太郎の耳に入った。岡部はおどろいて、松陰の妹婿にあたる小田村伊之助に知らせた。事態を憂慮した小田村が藩政府に報告する。すぐに追手が京にむかった。  入洛した和作は、大原重徳のところへ行って松陰の手紙を渡したが、さすがに腰を上げようとしない。時機尚早というのであった。  和作は、自分に追手がかけられていることを知り、京都藩邸に自首した。萩に送り返され、兄の杉蔵と共に、岩倉獄に投げこまれたのは、安政六年三月二十二日夜のことである。  この顛末《てんまつ》を告げる者があり、またいちだんと松陰を狂躁《きようそう》にかりたてるのである。  江戸から帰国した桂小五郎と玄瑞は、不本意ながら門下生と松陰との通信を、一切断つようにした。あれこれと情報を持ちこめば、松陰の気持はますます泡立つばかりだ。静かにしてもらうためには、外部との接触をやめさせる以外にないとの判断だった。 「父兄親戚、皆狂人もて遇せらるるとも覚悟、絶交の由を明告すべし」  と、門下生たちに絶交状を送りつづけていた松陰も、四月ごろからようやく平静をとりもどしてきた。野村和作に対して、要駕策はやはり間違っていたようだと、反省の手紙を送ったりもしている。  玄瑞は、ほっと肩の荷をおろした気持で、少しは自分の務めにも励むようになった。そのころかれは西洋学所官費生である。  帰国した玄瑞に、藩はすぐ西洋学所に入ることを命じた。強硬に江戸から引き戻されたものの、藩の玄瑞に対する扱いは決して悪くない。むしろ以前より重用する気配さえみせた。  萩を出てやるといきまいていた玄瑞も、何となく居心地がよいので、そのまま西洋学所の席をあたためているのだった。西洋学所は、前年の冬、江戸から萩に帰ってきた東条英庵を主宰として藩が開設した洋学研究所である。英庵は藩医の子で、大坂の緒方塾に学び、尋《つ》いで江戸の伊東玄朴について蘭学を修めた。幕府に招かれ蕃書調所、海軍所に勤め、ペリーの『日本紀行』の翻訳に従事したこともある。  軍艦操練所出仕、外国奉行支配に属して、幕府に重く用いられている英庵が長州人であることがわかると、藩はにわかにかれを欲しがった。村田蔵六の立場に似ている。  英庵は求めに応じて、江戸藩邸での蘭書会読や新書翻訳に出席したが、藩には仕官せず幕臣で通した。そのせいかどうか、英庵は明治政府には出ずに、明治八年、五十五歳で死んだ。  萩の西洋学所も、そんなわけで英庵は開設当時の協力者にとどまっている。松島剛蔵、田原玄周らが、運営の中心となった。西洋学所は、やがて兵学に重きをおき、安政六年には博習堂と改称した。文久元年には村田蔵六を迎えて、長州藩における洋式兵制吸収の拠点となるのである。  医学を嫌った玄瑞にとって、西洋学所は、落ちつき場所として文句のないところである。  杉家でかれを待っていた文との生活が再開され、まずは平穏な日々が過ぎるかに見えた。  直目付だった長井|雅楽《うた》が、江戸から帰ってきたのは、五月十三日である。  長井の帰国は、不吉な命令を伝達するためであり、それは即日、松陰の兄梅太郎を通じて、獄中に伝えられた。  ──松陰の江戸召喚。  幕府の評定所が、松陰を呼び出す目的は何なのか、江戸藩邸でも解しかねた。もっとも松陰のそれまでの言動からすれば、大獄に連座するのが遅いくらいだと思う者も少なくはない。 (ついに来たか)  正直にそう感じたとしても、あながち間違ってはいない。松陰自身、召喚令をそう受け取っただろう。 (危いな)  玄瑞は、そう思った。過激な論文を方々に書き送る松陰をたしなめてきた玄瑞にとっては、真っ先にそのことが気になるのである。  だれも口には出さないが、松陰は再び萩の土を踏めないのではないかと、胸中でひそかに呟《つぶや》いているのだ。  幕府に捕えられた人々の中で、極刑をまぬかれないだろうと見られていたのは、梅田雲浜と日下部伊三次《くさかべいそうじ》(薩摩藩士)だった。この二人は、一橋派に属して積極的な運動を展開し、また幕政批判の元凶とにらまれていた。日下部は、前年十二月に獄死した。よほど過酷な取り扱いを受けたものと思われている。  雲浜は、訊問の席でも大声で論じたて、決してひるまなかったという。そうした雲浜の様子が薄々伝わってくるのを聞きながら、死を覚悟しているらしいその人に対する悲痛な敬慕に心を昂《たかぶ》らせるのだった。そしていつか雲浜の姿に、松陰を重ねているのだ。  召喚令が届いた翌日の夜、玄瑞は品川弥二郎、小田村伊之助と共に、野山獄を訪れた。松陰の独房には、灯火がともり先客がいるようだった。この野山獄は、普通でも房に施錠せず自由に囚人が動けるようになっている。ほとんどが借牢願を出し、家族の希望で投獄されている人々だからである。  先客は、長井雅楽だった。直目付で、五百石の大身である。このときまで玄瑞とは無縁で、面と向かい合う機会はなかった。 「評定所に出ても、わが藩の内情はあまり喋《しやべ》らないようにしてもらいたい。藩についてはこれまでも相当に毒舌をふるってきた貴公だけに心配しております」  長井はその語尾のあたりで少し笑ったが、睨《にら》むような視線を松陰に注いだままである。 「公憤と私憤の違いは心得ております。安心しておられよ」 「それを聴いて安心した」  と、格子戸をくぐって出てきた長井は、廊下で待っていた玄瑞と顔を合せた。 「久坂玄瑞だな」  先に長井が声をかけた。坊主頭を見て、すぐにそれとわかったのだろう。玄瑞は、ゆっくり会釈した。  長井も玄瑞におとらないくらいの偉丈夫で、すぐれた相貌の持主である。いかにも大身の侍らしい押し出しだ。四十一歳だった。 「おとなしく精励しておるかな」  尊大というほどではないが、鷹揚な口調で、長井はいった。 「おとなしくとは、どのような意味にお伺いすればよろしゅうありましょうか」  穏やかでない玄瑞の返事に、いっしゅん長井は目を光らせたが、笑って、 「相変らずの元気だな」  それだけいい、相手にせずとばかり、悠々とした足どりで立ち去って行った。 「もう少し言葉を慎んだがよいぞ、久坂」  小田村伊之助が、玄瑞の肩を軽くたたいてたしなめた。 「俗吏の最たる者だ」  玄瑞は憎々しげにいう。自分を江戸から追い出したのは、この男だと、かれはそのとき初めて気づいたのである。やがて激しく対立する長井と玄瑞の出会いは、やはりこのようなものであった。  松陰は、上機嫌だった。緊張を抑えて、そうふるまっているのかもしれない。 「さっそく長井殿とやりおうていたの」 「第一、先生に対して、藩の内情を喋らぬようにせよと、それをいうためにわざわざここへきたのですか」  松陰の前に坐るなり、玄瑞はいきまいた。多少は、しめっぽくならないようにと配慮していることが、そのようにもなる。 「藩とは、そんなものだ。僕は、事をなすにすべて藩の力に頼ろうと思うていたが、それが間違っていることにようやく気がつきました。諸侯たのむに足らず、公卿もあてにならぬ」  松陰は、長州藩の日和見的態度について、さんざん悪口をいってきた。自分に目をかけてくれていた藩主にさえ、もはや失望をかくしきれないでいる。  玄瑞が会いに行ったとき壮大な言を吐いたという大原重徳も、いざとなれば尻ごみするばかりだったと、松陰は嘆くのである。伏見要駕策は間違っていたと反省してはいるが、それを突きつけたときの大原卿の狼狽《ろうばい》ぶりを杉蔵から聞いて、松陰は嘲笑《ちようしよう》を禁じ得ないのだ。 (所詮《しよせん》、公家は公家だ。行動力も胆力もない) 「公卿があてにならぬとすれば、つづまるところ朝廷もそうだといわれるのですか」 「そうだ」  と、松陰はあっさり答える。玄瑞は、ひどい衝撃を受けて、しばらく黙っていた。  幕府を攻撃する尊王論の拠《よ》って立つところは、むろん天皇を中心とした朝廷勢力でなければならない。今、松陰は、それを否定するようなことを、さりげなくいってのけるのである。  松陰という人が、これまでと大きく変っていることを、玄瑞は漠然と感じていた。獄中での狂おしい怒りや悲しみから、やがて静かな心境にいたる三カ月の間に、松陰の思想が、ある質的転換を遂げていたことはたしかであろう。 「恐れながら、天朝も幕府、吾《わ》が藩もいらぬ」  松陰が、野村和作にあてた手紙にそう書いたのは、心思錯乱のあとの、落ちついた境地にある四月のはじめだった。すべて既存の権威に対する絶望をいっているのだ。そして「尊攘《そんじよう》は、とても今の世界を一変せねば出来ぬもの」というのである。  世界を一変するために、どうするのか。同じころ北山安世という人物に与えた手紙に、松陰は次のようにいっている。刑死直前に抱いた松陰の思想を象徴する有名な文章である。この時期おそらく、日本人で最初に「自由をわれに!」と唱えた大文字といわなければならない。  独立|不覊《ふき》三千年の大日本、一朝人の覊縛《きばく》を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや、那波列翁《ナポレオン》を起してフレーヘード(注、オランダ語 Vrijheid 自由の意)を唱えねば腹悶医《ふくもんいや》し難し。  僕|固《もと》より其の成すべからざるは知れども、昨年来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益《ひえき》なし。徒《いたず》らに岸獄に坐するを得るのみ。此の余の処置妄言すれば則《すなわ》ち族せられん(注、罪一族に及ぶ)。なれども、今の幕府も諸侯も最早《もはや》酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起《そうもうくつき》の人を望む外頼みなし。 「天朝も、幕府も、藩もいらぬとすれば、だれが世界を変えるのでしょう」  と、玄瑞はややあって訊《たず》ねた。 「草莽あるのみだ」  松陰は答え、玄瑞を睨み、伊之助、弥二郎を見まわしながらいった。 「これまで長州藩で、身命を尽して働いた者はだれがいよう。その言動のために、獄につながれた者は、僕と杉蔵と和作三人だけである。僕は浪人の身であり、杉蔵・和作は足軽という軽輩だ。この三人に通ずるのは、藩から高禄を受けず、捨てるものを何も持っていないということである。捨て得るのは命だけではないか」  松陰がいわんとするのは、まだ「捨てるもの」を持っている人々が、みずからの手を汚すまいと、保身にのみとらわれて、立ち上がろうとする意欲を持ち得ないことへの無念さであった。  松陰がしきりに「草莽」ということばを使いはじめたのは、この二度目の投獄からである。草莽とは、もともと草の生いしげったところ、草むら、転じて民間・在野、官につかえず民間にある者の意である。つまり松陰は、変革を遂げるため身命を投げうつことができるのは、草莽の人にしかいないのではないかと考えるのである。  松陰は幕府を討つ力を、長州藩あるいはそれに連合する諸藩に頼る以外にないと思っていた。しかしその藩というものは、幕府機構につながるものであり、封建の身分制に支えられた組織集団でしかない。動かしているのはもちろん草莽にあらざる人々だ。  身分の貴賤《きせん》にかかわらず人材を登用せよと松陰は主張し、その組織のなかに草莽の人を楔《くさび》として打ち込んだ。かれらはやがて藩という古い器《うつわ》をはみ出し、松陰が期待したように「天下を奮発震動」させる志士として活躍するのである。その志士たちにとって、藩とは、討幕の手段でしかなかったのだ。 「今後の処置、遺憾なきこと能《あた》はず。それは何かと云ふに、|政府を相手にしたが一生の誤りなり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》(注、この傍点は松陰がふったもの)。此の後は、屹《きつ》と草莽と案をかえて今一手段遣ってみやう……」  四月十四日、野村和作に与えた松陰の手紙である。 「僕も藩の禄を離れるべきでありましょうか」  玄瑞は、松陰に尋ねた。 「いや、脱藩して自由の身になるより、藩のなかにあって、その身分を活用しつつ志を遂げる道を選ぶ者もいなくてはならぬ。高杉晋作にもそのことを奨《すす》めておいた。玄瑞もそうしたがよい。内なる草莽と思えばよろしかろう」 「内なる草莽ですか」 「そうじゃ。思父《しほ》もそのつもりでいなさい」  と、松陰は、先程から黙って耳を傾けている品川弥二郎に、はじめて声をかけた。 「先生……」  この少年は、ひどく打ち沈んでいて、ことばが続かないほどだった。 「松下村塾のことだが」と、松陰は小田村伊之助にむきなおった。 「今は閉鎖の命を受けておるが、いずれは許されよう。再開されれば骨折ってやって下さい」 「必ずそうします。浅学ながら引き受けましょう」  伊之助は、文助、素太郎とも名乗った。長州藩海軍局頭取となった松島剛蔵の弟である。のちの男爵|楫取素彦《かとりもとひこ》だ。  この当時は明倫館の教授をつとめ、朱子学の一権威だった。江戸の安積艮斎《あさかごんさい》の弟子である。松陰より一つ年上の三十一歳だが、松陰の二番目の妹|寿《ひさ》と結婚しているから、玄瑞と同じく義理の弟になる。 「先生、ちょうど松浦松洞が帰っております。よい機会じゃから、先生の肖像を描きたいというちょりますが、いかがでありますか」  玄瑞が、いかにも明るい調子でいった。 「描いてもらおうか」  と、松陰も明るく答えた。それが、死の準備につながることを、ひそかに了解した兄と弟のやりとりである。 「高杉たちからの手紙がきょう着きました」  と、松陰は、それを玄瑞に見せた。  高杉晋作・尾寺新之丞・飯田正伯ら三人の門下生が、江戸から出したものである。松陰に召喚命令が出たと知って、激励しようということになったらしい。右上がりの松陰の字に似た筆は晋作のものであろう。玄瑞は、一読して、ふと眉《まゆ》をひそめた。  かれらは松陰が国難に代り、身をもって尊攘の大義を法廷に説くことこそ国家の大幸であるといった意味のことばを書きつらねているのだった。  間部暗殺計画を無謀として、参加を拒絶し、松陰をたしなめた者たちが、こんどは安全な場所からけしかけるようなことをいっているようにも受けとれる。 「高杉らがいうように、この度の東行は国難に代る存念である。幕吏の訊問については、正義と至誠とを以って百折挫せず、機にしたがい応接するつもりだ」  松陰は、晋作らの手紙を巻きながら、静かな口調でいったが、玄瑞にはそれが悲壮な覚悟に聴こえてならない。 「いや、何も激烈を旨とするわけではない」  笑って、弁明するように松陰はそうもつけ加えた。 「どうぞそのおつもりで、正義をつらぬかれますように」  玄瑞は、やはり松陰をけしかけている自分を、意識している。同じ助からないものなら、卑屈に逃れる努力をすることもあるまいという気持が、そういわせたのである。きびしい訊問を用意して待ち構える幕吏の前に、意を決して歩み寄ろうとしている松陰の背を、後ろから突き出す思いがあった。  松陰が、評定所で必ずしも自白するまでもなかった間部暗殺計画を公言し、そのために死罪になったということを、後日玄瑞らは知るのである。松陰の刑死後、その門下生たちが、まるで師のあとを追うように死に急いだのは、このようないきさつも手伝っていたにちがいない。少なくとも玄瑞は、そうだった。 「今我れにして没するも、なほ一好人たるを失はず。然れども今これ生くる也。袖手高拱《しゆうしゆこうきよう》 するは、ただ朋友、士夫の間に愧《は》づべきのみならず、天地万世、我れはた如何せん」  このころ玄瑞がしたためた『自警六則』の一節である。松陰を死に追いやる者の毅然とした覚悟であった。──  松陰が東送の命を受けたころは梅雨の季節で、連日の雨だった。  出発までの十日間は、門下生たちとの面会や手紙をしたためることに費された。親族・知友・門下生にあてて告別の書二十数通を差し出している。一時は遠ざかっていた門下生もぞくぞくあらわれ、松陰も久しぶりにかれらと親しくことばを交わした。  松浦松洞の描いた肖像八枚に、松陰は快く自賛を書きこんだ。その賛のなかには「至誠にして動かざるは、古より未だこれ有らず」という日ごろからの松陰のことばが見える。 「人は狂頑とそしり、郷党おほく容れず」  とも書いている。長州では、やがて松陰を神格化しあがめるのだが、この時期、彼の周辺に集まり畏敬の目をもって接したのは、ひとにぎりの門下生たちだけである。多くは松陰を「狂頑」としてもてあまし、幕府の捕われ人として萩を出て行くこの人物に、いまわしい視線を遠くから送っていただけだ。 「清狂先生の肖像を描いてくれぬか、松陰先生に賛をお願いしたい」  と思い出したように、玄瑞は松洞に頼み、松陰の同意を求めた。 「清狂先生も、惜しいことであった」  うなずきながら、松陰はいっしゅん清狂との交流を回想するように目を閉じた。清狂とは、僧月性のことである。前年の安政五年五月、瀬戸内海をのぼる船中で急死した。毒殺説もあるが、真相は不明とされている。  松洞は、何度か月性に会っているので、剣をかざし踊っている容貌|魁偉《かいい》の僧の姿がたちまち出来あがった。月性が持つその長剣は、玄瑞の兄玄機のものである。玄瑞は、なつかしげに、その絵をながめた。  松陰が筆をとり、賛を入れる。 「実甫(玄瑞)、清狂の像を出し、文を余に求む……ああ清狂は死せり。回(二十一回猛士、松陰)もまた将《まさ》に去らんとす。一幅三人、死別の感深し……」  玄瑞は、身のひきしまる思いで、それを読んだ。 「一幅三人、死別の感深し」  とはどういうことであろう。松陰は、先に死んだ清狂の画像の横に、死後の自分の像を並べ、さらに玄瑞の遺像を思いうかべているらしい。  そのようにして、いつか厳粛な死出の儀式が執りおこなわれていることを、松陰も玄瑞も、またそこにいる門下生たちも、暗黙のうちに認めていたのだ。  二十四日、藩から杉百合之助のもとに、松陰を護送役に渡すようにとの命令書が届いた。父からの借牢願により投獄されているのでその形式をとったのだが、それを口実として一夜松本村の自宅に帰らせたいがと、玄瑞は、司獄官の福川犀之助に相談した。 「よろしいでしょう」  福川はあっさり承知した。獄中の松陰に師事した福川は、処罰を覚悟で、一夜の出獄を許したのである。後日、このことが露見して、かれは「遠慮」の罰を受けた。保身に熱心な役人としては、めずらしい人物として、やがては称賛されるのだが、かれのその決断も、松陰の影響によるものだったろう。  親族、門下生たちとのひそかな訣別の宴が張られ、その夜、松陰は父母と共にいる最後の夜をすごした。  翌二十五日早朝、降りしきる梅雨のなかを野山獄へ帰り、松陰は腰縄を打たれて護送駕籠の人となった。  幕府から指示された護送の「覚」によると「乗物は錠前付網掛り、腰縄を付すべく候」「髪は結《ゆわ》せ申すべく」とあるから、国事犯らしく、きちんとした身形だった。  萩城下の郊外に大屋というところがあり、そこに涙松と呼ばれる松の大樹が数本しげっていた。旅に出かける者が、そこから城下を見納めて涙をうかべることからの名である。玄瑞ら門下生が、濡れながら追う松陰の駕籠も、そこで停まる。役人の手で駕籠の戸がわずかに開けられた。ぼんやりと白い松陰の顔が覗《のぞ》き、二、三度うなずくのがわかった。  名残りを惜しむ門弟たちや、雨にけむる城下の景色を目に焼きつけると、松陰は役人に出発をうながした。 「帰らじと思ひさだめし旅なれどひとしほぬるゝ涙松かな」  そのとき松陰が詠《よ》み遺したふるさとへの別れの歌である。  松陰が発って間もなく、空は嘘のように晴れあがり、日本海からの乾いた風が、狂おしく吹きつのる炎熱の午後となった。  西洋学所を早退けした玄瑞は、杉家に帰ると、ひと気のない村塾の講義室にこもり、涙のまじる汗をしたたらせて、一詩を書きなぐった。     「懐《おもい》を回先生に寄す」     炎日白草を蒸し     黯風《あんぷう》しきりに沙《すな》を飛ばす     檻輿《かんよ》去りてまさに遠し     君子意如何     ……国家の興る何れの日ぞ     君子帰ることを期し難し     わが心はなはだしく耿耽《こうたん》す     静かにこれを思ふにたへず   (炎日蒸白草/黯風頻飛沙/檻輿去方遠/君子意如何/……国家興何日/君子帰難期/我心酷耿耽/不勝静斯思) [#改ページ]  第三章 志士有情   斬奸  文久元年(一八六一)の秋である。  二十二歳の玄瑞は、伏見の船宿寺田屋にいた。藩の重臣周布政之助と一緒だった。 「どうなされたのかのう」  政之助は、落ちつかない様子で、二階の部屋の窓から、船付場のほうをながめながら、つぶやいている。玄瑞は、敷きっ放しにした蒲団の上に、腕組みした姿勢で寝ころび、天井に目をやったままだ。  上陸してくるはずの藩主を待っているのだが、十日近くになるのに、まだあらわれない。待つといっても、この二人は江戸を抜け出してきて、潜伏中の身である。伏見にも藩の屋敷はあるのだが、そんなわけでこの旅館にいる。 「おぬしにそそのかされて、ここまでやってきたが、とんだ無駄足であったかな」  政之助が、ため息まじりにいって、玄瑞の枕元に坐った。玄瑞は、ムックリ起き上がった。 「そそのかされるような周布さんではないでしょう」 「そんな気がせんでもないのだ。寅次郎が死んで、ちっとは静かになったかと思うちょったら、その生れ変りのような男が、暴れはじめて、ついわしを巻き込みおった」 「しかし、周布さん、航海遠略策、和宮様降嫁には、反対でしょう」 「それもおぬしにいわれて宗旨変えしたのだ。玄瑞にあやつられる猿みたいなものだの、わしは……」  と、磊落《らいらく》に、政之助が笑う。たしかに、かれは初め航海遠略策の提案者の一人だったのだ。それを玄瑞に説得され、逆転して反対者の立場に移った。  伏見で藩主をつかまえ、遠略策の非を訴えて、藩論を変更させようといいだしたのも玄瑞である。江戸藩邸に詰めていた重臣ともあろう者が、うかうかとその言につられて飛び出してきた。冗談ごかしてはいるが、政之助はそれを少しばかり悔いているのかもしれない。  ──航海遠略策。  これを提案したのは、直目付の長井雅楽である。  二年前の安政六年十月に松陰が江戸で処刑された。翌万延元年三月、江戸城桜田門外で、大老井伊直弼が暗殺された。  安政大獄の嵐が吹き過ぎたあと勢いを盛り返した尊攘派の動きが活発となる直前の、瞬間にも似たわずかな隙《すき》をねらうように、航海遠略策が持ち出された。「知弁随一」といわれる長井雅楽によって、それはたちまち長州の藩論となり、情勢を支配するほどの力を拡げてきた。  航海遠略策とは、要するに朝廷と幕府が手をにぎって、挙国体制をつくり、外国の圧力に対抗しようと主張する意見である。事実上の公武合体論だから、幕府からも歓迎された。その上、公武合体を実践しようとする皇女和宮の降嫁にも手を貸す結果となる。 「欧米の列強がわが国を覗《のぞ》いているとき、幕府、朝廷の両勢力が争うのはおろかなことだ。幕府が結んだとしても、条約は国家間の信義にかかわる問題である。今さら破約はできない。このさい朝廷も攘夷《じようい》論をひっこめ、幕府に協力して開国し、進んで海外に発展することこそ、国家百年の大計というものであろう」  長井雅楽は、紛糾する政治情勢の収拾策として、この航海遠略策を長州の藩論とするように運動を起こした。藩が中央に乗り出す好機だというのである。  雅楽の雄弁に乗せられて、まず周布政之助が賛成した。むしろ共同提案者として、藩主のもとにこの論策を持ちこんだのだ。  二世紀半にのぼる外様大名ぐらしをかこっている長州藩が、中央に躍り出る絶好の機会だといわれ藩主は簡単にとびついた。毛利敬親は、雅楽をつれて朝廷をうまく説得すると、幕府にも働きかけた。幕府が双手をあげて迎え入れたのは当然のことである。  万延元年五月、英学修業の名目で江戸へ出ていた玄瑞は、長井雅楽の航海遠略策が藩論になったと聞いて、真っ先に異を唱えた。やがて江戸藩邸に顔を出した周布政之助は、玄瑞が執拗にくりかえす反対論を聴いているうち、次第に気持が変ってきたのだった。  長州藩が航海遠略策を掲げて、中央政情の周旋に乗り出したと知って、江戸や京都に諸国から集まっている志士たちは、一斉に反撥《はんぱつ》した。  長井雅楽の遠略策は、幕府に迎合するための詭弁《きべん》だというのである。多くの犠牲を払って、幕府を追いつめてきた尊攘運動の足をひっぱる長州藩の行為は許せないと激しく非難するのだ。  水戸藩士らとも深く通じ、志士の指導者と仰がれている桂小五郎は、立場を失った。  玄瑞にしても、江戸に出ていらい交友範囲が広くなり、薩摩の樺山三円、水戸の岩間金平、土佐の武市半平太など志士の間にもかなり顔を知られる存在になっている。 「その長井雅楽なる人物、長州人の手に余るなら、われわれの手で抹殺してやろうか」  と、もちかけてくるものもいるくらいだ。直目付だった雅楽は、遠略策を認められてから中老に昇進している。家老である。そんな大身のかれを扱いかねるのなら、他藩の志士の手で消してやってもよいというのだが、玄瑞は拒絶した。 「やるのなら、僕自身の手でやります。ご助力無用」  じっさい、玄瑞は、長井雅楽に対して、特別にふくむものを抱いていた。松陰の江戸召喚命令を伝えに帰ってきたのが雅楽であって、それが直目付の役目だとわかっていても、師を殺された恨みのいくらかは、かれに注がれている。理不尽といわれても、松下村塾党──そのころそう呼ばれていた──のだれもが、抑えきれないでいる感情である。遠略策をぶらさげて、急に幕閣の者とも親しく往来し、妙にチヤホヤされている雅楽に対する敵意が、ことさら噴出するのである。 「このままだと他藩の者に長井は刺されるかもしれません。われわれの手で殺してしまおうと思いますが」  と、玄瑞は桂小五郎にいった。 「それはよくない。長井は失脚させればよいのだ」  直接行動を好まない小五郎から軽挙を慎しむように、きびしく言い渡された玄瑞は、たまたま出府してきた周布政之助に食いついた。  むろん桂小五郎も、公武合体を本性とする航海遠略策の欺瞞《ぎまん》性を、穏やかな口調ながら、鋭く衝いてみせる。薩摩藩も、遠略策に似た論策を進め、幕府機構の中に割り込もうとしているのだ。簡単に長州の独壇場になると思うのは判断が甘すぎるのではないか。しかも幕府は討つべきであって、もはやその権力に肩入れするときではないことを、熱心に小五郎は説いた。 「長井は、航海遠略策のなかで、攘夷ということは、浅薄な慷慨家の議論であるといいますが、不敬も甚しいといわねばなりません」  と、玄瑞はいった。 「なぜだ」 「周布さんでさえ、そこをだまされたのですね。帝《みかど》こそが最大の攘夷家であるちゅうことですよ。すなわち長井は、帝を浅薄な慷慨家であると誹謗《ひぼう》しちょるのです。これは必ず問題になる。長州藩がそのような策論を振りまわし、踊ってよいのですか」 「………」  政之助は、ようやく雅楽の片棒をかついだことを悔いはじめていた。小五郎や玄瑞らが、口々に遠略策の非をあげてやまない。その反論の内容もだが、政之助は、ある「時の流れ」のようなものを感じたのだ。かれらしい敏感な反応だったともいえる。 「参勤交代で、藩公が東上されます。それを伏見で迎え、諫止《かんし》しようではありませんか」  玄瑞にいわれて、周布政之助はその気になった。「玄瑞にそそのかされた」というのがそれである。江戸を出たのが九月七日だった。玄瑞のこの計画は、かつて吉田松陰が計画した「伏見要駕策」から思いついたものである。  二人は十日ばかりも伏見の寺田屋に潜んで藩主の上陸を待ったがこれは徒労におわった。敬親は、途中の花岡駅で発病し、数十日にわたり、そこに滞留したからである。  政之助と玄瑞は、それを知らない。待っていても仕方がないと、海路を西に下ることにした。どこかで行列に会えるかもしれないと思ったのである。  大坂から内海航路の船に乗り、備後の鞆《とも》の港まできた。  備後の鞆は、現在の広島県福山市の南端近く、内海を往復する船の寄港地だった。  上陸して、町の者に長州の殿様がお泊まりではないかと尋ねると、殿様かどうかはわからぬが、偉いお侍が泊まっているという。  教えられたその宿に行くと「毛利大膳大夫様家来長井雅楽殿御宿」と仰々しく書き出してある。 「豪勢だのう」  と、周布政之助が、皮肉めいた笑い顔を、玄瑞に向けた。 「杉蔵のいつかの手紙を思い出しました」 「どんな手紙だ」 「この夏、山陽道のどこかで、長井の行列に出会うたが、派手なものだと書いちょりました」 「行列か」  政之助が、こんどは顔をしかめた。  その杉蔵の手紙には、長印《ながじるし》(長井のことである)の旅の様子を次のように書いている。 「長印、殊のほか支度出来候。中老の人張《ひとはり》とかにて、本棒の駕籠、供先、達道具《だてどうぐ》、対箱《ついばこ》、引馬、先徒士《さきかち》四人、駕籠脇六人、揚々然たる得意の気取り、想像下さるべく候」  中老といえば、永代家老に次ぐ地位である。航海遠略策によって、一躍時代の寵児《ちようじ》になったつもりの長井雅楽が、得意絶頂のころである。玄瑞の目には、それがいかにも軽薄な成り上がり者のふるまいに見えて仕方がない。江戸東送直前の松陰を野山獄に訪ねたとき、「藩の内情を喋《しやべ》るな」と念を押している長井を、最初に見たときから、胸がむかついたのを憶えている。 「一番話してくれるか」  と、政之助は入口をくぐって、案内を乞うた。雅楽が快く面会を許したのは、二人がたずさえてきた用件を知らなかったからである。玄瑞は微臣だから、そばに控えているだけだが、政之助と雅楽は激論になった。共同提案者だった政之助が、一転反対論の側に回ったので、雅楽を余計に怒らせたようだった。 「松下塾の書生に引きずられて、妄動するのはやめい」  と雅楽が怒鳴ったので、政之助も立腹した。結局、対立をきわだたせただけに終り、政之助と玄瑞は、江戸へ引き揚げた。  帰国のうえ蟄居《ちつきよ》せよとの命令を二人が受けたのは、十月五日のことである。無断で任地を離れたという理由だが、鞆での一件で処罰されたのはあきらかだった。 (長井雅楽刺すべし)  玄瑞のかれに対する憎悪は、さらに燃えあがった。  政之助と玄瑞が萩に帰ったのは、十一月十一日だが、かれらが江戸を出た直後の十月二十日、和宮降嫁は決定した。婚儀は翌年二月となる。  まやかしの公武合体が着々進んでいる。もはや行動をもって尊攘論を盛りあげる以外にはあるまいと玄瑞は思う。こんなとき蟄居させられていることが、口惜しくもあった。 「騒ぐなよ、騒ぐと投獄されるぞよ。獄中では何もできぬ。寅次郎だからあれだけのことはやった。おぬしでは獄中から人は動かせぬ。辛抱づよく赦免の日を待つのだ」  政之助から、くれぐれもいわれているので、玄瑞は当分おとなしく杉家の一室で読書などしながらすごした。とぎれとぎれになる文との夫婦生活が、しばらく続く。志士といわれる人を夫にもった女の不幸は、久坂文だけではなかった。万延元年、高杉晋作と結婚した雅子にしてもそうである。玄瑞同様、晋作も席のあたたまるときがない。  その晋作は当時、番手《ばんて》として江戸にいた。松陰処刑を聞いたとき、「この仇はきっと討たずにはおかない」と歯ぎしりする手紙を、周布政之助にあてて書いたかれも、今は見るところ静かに藩邸でのつとめを果している。松下村塾党のなかでも、一人局外にいる感じだった。  松下村塾党といえば、そのころ萩に中谷正亮、佐世八十郎、岡部富太郎、寺島忠三郎、品川弥二郎、山県小輔、松浦松洞、入江杉蔵といった主要な顔ぶれが、めずらしく揃っていた。いないのは高杉、伊藤くらいのものだ。航海遠略策を進める大事なときなので、目ざわりな連中を、藩が萩に集めていたのかもしれない。 (何かやれそうだな)  と、玄瑞は思った。  ──一燈銭《いつとうせん》|申 合《もうしあわせ》。  玄瑞の呼びかけで、この会合がひらかれたのは十二月一日の夜だった。なつかしい松下村塾の講義室に、中谷・佐世・寺島・品川・岡部・山県ら十数人が集まった。 「江戸へ、京へ進出するにも、われわれは貧しく資金を持たないので、勝手に動くこともできん。非常の変、不意の急を迎えたときのために、資金をつくっておこうと思うがどうであろう」  玄瑞は、この計画を前日のうちに中谷正亮と相談し、要項をまとめていた。正亮がそれを説明する。 「写本をつくり、これを売って金を積み立てようという計画だ。何を写すかとなれば、やはり松陰先生の書き遺されたものがよいと思う。講孟余話などは、読みたいという者も多いから喜ばれるじゃろう。松陰先生の志を世に訴えることにもなる」 「面白いではないか」  寺島忠三郎が、膝を乗り出した。萩藩士寺島太次郎の子で、このとき十九歳。なかなかの好男子だが、いつも肩を怒らせて、武張った恰好をしている。藩士といっても無給通《むきゆうどおり》(給地を持たない下級武士)であり、村塾に集まった連中ともたちまち意気投合したが、どことなく変っている。とくに伊藤、山県らとは肌合いが違うのである。  村塾に入ったのが安政五年の夏だから、玄瑞と接触する機会はあまりなかった。十六歳の忠三郎が入塾したとき、玄瑞は江戸へ出ていたのだ。年に似合わず老成した感じの塾生たちが多いなかで、忠三郎は特別にそんな印象を受け、もののいい方もどちらかといえば横柄《おうへい》になる。反骨漢で直情家で、根は好人物らしい。  忠三郎は、晋作よりも玄瑞に尊敬の念をもって近づいてきた。玄瑞が航海遠略策に反対していることを知ると、たちまち長井雅楽の非をならして、公然動き出した。江戸から帰らされたのもそのせいなのだろう。やがて玄瑞と生死を共にする若者である。 「非常のときの資金とは、たとえばどんなことかいの」  と、忠三郎が訊いた。玄瑞が答える。 「資金は自分らだけで使うわけではない。これから行動を起こすにつれて、牢獄につながれる者もおろう。するとその家族が生活に困ることになるので救助の金も必要である。また義士や烈婦などの墓、建碑の仕事もしたい」 「要するに貧者の一燈ということじゃ」  正亮が最後にそういったので、「一燈銭申合」という標題で、その目的を書いた趣意書に「松下村塾同社中」として、それぞれが署名した。  そのころ江戸にいた高杉や伊藤もあとで加盟を申し入れ、また塾生以外で仲間に入りたいという者もあらわれた。重臣の前田孫右衛門もその一人である。前田は松陰と親交のあった人だ。また桂小五郎も参加している。やはり、松下村塾党の集まりといってよいものだろう。  この一燈銭申合は、それから間もなく一人ひとりが多忙となり、写本などする暇もなくなって、実際の活動はわずかな期間でおわっている。しかし玄瑞のねらいは、結社をつくることであった。松下村塾党などといわれながら、各人のつながりはまだ漠然としたものでしかない。松陰につながる者の結束を確かめるための盟約ができあがり、明確なひとつの組織がここに成立したことだけで、充分だった。  一燈銭申合に署名した者は、次の二十四人であった。(〇印が松下村塾出身)    桂小五郎  〇佐世八十郎   〇久坂玄瑞  〇中谷正亮   〇寺島忠三郎  楢崎弥八郎   〇岡部富太郎 〇品川弥二郎   〇山県小輔  〇馬島甫仙   〇山田市之允  滝鴻三郎    前田孫右衛門 大楽源太郎   〇南亀五郎  〇尾寺新之允   〇高杉晋作  〇野村和作   〇伊藤利助  〇松浦松洞   〇久保清太郎 〇入江杉蔵    堀真五郎  〇福原又四郎  松陰の遺志を継ごうとする長州藩の急進勢力は、一燈銭申合に集まったこの人たちを中心にかたちづくられて行くのである。  文久二年(一八六二)の正月を、玄瑞は蟄居中の杉家で迎えた。  こうして押し込められるといったことは、かれにとって初めての経験である。かつて松陰の幽囚室だった裏庭に面する三畳の部屋で、読書などしていると、旧師の気持がどのようなものであったかがようやく理解できた。  江戸や京で、大変事が発生しているのではないかという思いが、絶えず襲ってくる。何があってもすぐには動きだせないわが身に対する苛立たしさも、またひとしおである。  長井雅楽は、航海遠略策を着々と推進しているのだろう。正面からそれに反対を唱える周布政之助はじめ松下村塾党のほとんどは、萩にクギ付けにされている。江戸にいる桂小五郎が、ひとりで戦っているようなものである。 「政府を相手にしたが一生の誤りなり」  と、野村和作に伝えたという松陰のことばを、今さらのように玄瑞はかみしめた。幕府に迎合する藩論を、卑屈に押し出しながら、中央にささやかな地歩を占めようという今の長州藩の志の低さを、大声で笑ってやりたい。所詮、藩などというものは、幕府の尻につながる存在でしかないのか。──  一月二十一日、めずらしい客があった。  土佐の坂本竜馬が、武市半平太の手紙を持って、蟄居中の玄瑞を杉家にたずねてきたのである。半平太とは、江戸で何度か会い、親しくなっているが、竜馬の名は聞いていただけで、これが初対面である。 「まあ、いうなれば陣中見舞ですな」  笑いながら、竜馬は、ヨレヨレになった袴《はかま》の裾を後ろにはねあげるようにして、いきなりあぐらを組んだ。  半平太からの手紙は、その場で開封したが、特別な用件が書いてあるわけではなかった。まず新年の賀詞から始まっている。そして「いよいよ御勇猛にならるべく御越歳目出度き儀と存じ奉り候」とある。  この者が、近辺まで行くというので、挨拶に立ち寄らせた、自分の同志なので腹蔵なく意見を聞かせてやってほしいといったことが書いてある。 「勇猛になろうにもこのざまですよ」  玄瑞は、航海遠略策について語り、長州藩の現状を嘆いてみせた。 「一日も早く自由の身になられ、出馬されるのを、みんな待っちょりますきに」  竜馬がなぐさめるようにいう。これはお世辞というものでもなかった。土佐勤王党を組織して、その頭目にすわり、尊攘派志士の間から指導者の一人と仰がれる瑞山武市半平太は、このとき三十四歳である。  その半平太が、ついでとはいえ竜馬に手紙を持たせ、玄瑞を訪ねさせたのだ。長州藩内の情勢探索の目的もあるのだろうが、やはり玄瑞が、すでに相当な人望を他藩の志士から集めていたことを物語っている。  それは翌月の十六日に同じく土佐の志士吉村寅太郎が、玄瑞を訪問したのにもあらわれ、こうした志士との交流が深まると共に、情勢もまたいちだんと切迫の度を加えつつあるのだった。  竜馬とは時事を論ずるにとどまったが、吉村寅太郎は、かなり具体的な行動計画を持ちこんで、玄瑞に相談したのである。しかも寅太郎は、一月十五日に江戸坂下門外で起こった老中安藤信正襲撃事件を、玄瑞に告げた。和宮降嫁を画策した中心人物として安藤は志士に襲われたが、重傷を負ったものの生命は助かった。  主力は水戸浪士だが、刺客のなかに越後の川本|一《はじめ》がいることを知って、玄瑞はおどろいた。 「川本はどうしました」 「奮戦したが、みんなその場で斬り斃《たお》されたようです」 「去年の十一月、ここへ訪ねてきたのです」 「ほほう」 「そのときは何もいわなかったが、別れを告げにきたのでありましょう」  江戸の芳野金陵塾にいた川本一は、書籍を売った金で、名刀をひとふり買った。 「姦を斬り、邪を誅《ちゆう》すべし」  などと塾のなかで抜き放ってみせたりするので、芳野から嫌われ追い出されてしまった。文久元年春ごろのことである。  その後、生活に困った川本が路傍で草履を売っているのを、通りかかった玄瑞が見つけた。わけを尋ねると、飯もろくに食っていないという。玄瑞は、川本を桜田の藩邸につれて帰り、食を与え、ボロ切れのようなかれの着物を脱がせて、自分の衣服を着せてやった。  それが川本にはよほど嬉しかったのだろう。帰国蟄居を命じられた玄瑞を追うように、萩へやってきた。すでに安藤襲撃の計画をめぐらしているころだろうが、そのことは何ひとついわなかった。 「親切にしてもらったこと忘れませぬ」  とくりかえし述べて行っただけだ。今にして思えば告別のつもりだったのである。 「坂下門外で、対馬守を襲ったとき、川本がふるった刀は、本を売り払って買ったというあれでしたろう。乞食のような暮らしをしちょるときでも、刀だけは売りませんでしたから……」  玄瑞は、しんみりした口調で、吉村寅太郎に川本のことを話した。その寅太郎も、近く立ち上がるつもりだという。 「もう手をこまぬいて、論じておるときではなくなりました。成否は別だ、おこないを以って志を示すほかに道はない」 「何をやろうちゅうのです」 「要人の一人や二人を斬るのではない。討幕の挙兵ですよ」  こともなげにいうのである。 「薩摩の島津久光が、兵を率いて江戸に登るらしい」  これも玄瑞には初耳だ。おどろいていると、寅太郎はさらに、在京の薩摩の志士たちが、所司代を襲う計画を立てているので、それに参加しようと思うと打ち明けた。  寅太郎は、玄瑞ら松下村塾党を誘いにきたのかもしれないが、そのことは結局切り出さずに帰って行った。かれが去ったあと、玄瑞は数日にわたって考えつづけた。成否は問わぬという行動が、どうしても評価できないのである。暴発は、所詮暴発だけでしかないのではないか。それを冷静に考える反面では、おとなしく蟄居の解けるのを待っている自分が後ろめたくも思えた。  坂下門外の事件は、間もなく別の方面からも伝わってきた。騒然とした気配が、野火のように拡がっていくなかで、玄瑞もどうやら昂る気持を抑えられなくなっていた。  諸国の志士たちが反対した和宮降嫁は阻止できなかったが、安藤信正の襲撃によって、一応の結着がついた。残る航海遠略策は、なお長州藩の手で推進されている。  玄瑞は、萩を去る坂本竜馬に托し、武市半平太にあてた手紙に書いた自分のことばを、反芻《はんすう》していた。 「竟《つい》に諸侯|恃《たの》むに足らず、公卿恃むに足らず。草莽《そうもう》志士糾合義挙の外には迚《とて》も策これなき事と、私共同志申合せ侯事に御座侯。失敬ながら尊藩も弊藩も滅亡しても、大義ならば苦しからず……」  藩などは滅びてしまってよいというのである。玄瑞のおどろくべきこの断言は松陰の発想にもとづいている。いわば松陰の魂が乗り移ったような筆で、それを書いた。その時点では、まだ充分に自分のことばになっていない。それだけのことを書きながら、蟄居という藩の命令に、辛抱づよく従っていたのだ。  重大な決意を述べて、吉村寅太郎が去ってから、玄瑞は、それでもいくらかの苦闘の末、ついに覚悟を定めた。  ──脱藩。  松陰は「内なる草莽」でやれといったが、もうどうしようもない。待っていられなくなった。「草莽志士」そのものになるほかはないのだ。藩の桎梏《しつこく》を振り放そうと思い立ったとき、武市半平太に書き送った文章は、ここでようやく玄瑞のものとなった。  玄瑞が、脱藩の決意を、ごく親しい人々に告げたのは、吉村寅太郎が帰ってから十日後の二月二十六日である。  中谷正亮と久保清太郎にまず打ち明けた。清太郎は、松陰の外叔久保五郎左衛門の子だから、一族のひとりだ。 「僕も行を共にしよう」  と正亮がいい、清太郎も同調した。それで、血盟書をつくった。  逃亡の重罪を犯すことは申訳ないが、これからの行動によってその万分の一を償うつもりであることを「天地神明の照覧に誓ひ、血判するもの也」とし、それぞれ血判を押した。  次の日、松浦松洞、品川弥二郎、増野徳民、佐世八十郎の四人がやってきて、それに加盟させてくれという。正亮から聞いたのだった。これで七人の血盟になる。まだ増えそうだと正亮はいう。 「このようなことは、大げさになると露見して取り返しがつかなくなる恐れもあるので、血盟書を継ぎ足すのはやめよう」  玄瑞は、正亮をたしなめ、一同にかたく口止めして、しばらく時を待つように言い渡した。  三月十三日、玄瑞はひそかに杉家を出て、下関にむかった。下関の廻船問屋白石正一郎のところへ薩摩の森山新蔵が来て、玄瑞に会いたがっているという通報があったからだ。  途中、豊浦郡西市の中野半左衛門の屋敷に立ち寄る。そこへ土屋蕭海が滞在していたのである。半左衛門は萩藩の御用商人だ。清末藩の御用商人である白石ほど派手には志士との交流はないが、半左衛門を頼った者も少なくはない。 「蟄居の身というではないか。大丈夫かな」  蕭海は突然あらわれた玄瑞を見て心配した。 「すぐ萩に帰りますよ」  と玄瑞は笑いながら、空腹を訴えた。 「困った男だな」 「いや、お若い人は元気があってよろしいですな」  半左衛門は、別に迷惑そうでもなく、家の者に食事の支度を命じたりした。 「土屋様から伺いましたが、久坂様は詩文に秀でたお方だと存じております。一筆お願いできませぬか」  と半左衛門がいう。ではと出された筆を執って、 「龍蛇時ニ伸屈スレドモ吾心遂ニ忘レズ……」の五言律を揮毫《きごう》した。少しばかり急いだので、字が気に入らなかったが、書きなおしてもおれなかった。 「お見事でございます」  と半左衛門は、揮毫料だといって十両を包んだ。さすがに遠慮していると、蕭海がとっておけという。半左衛門は、ただ金包を出しても玄瑞が受け取るまいと思い、書を頼んだのであろう。  下関の白石邸に行くと薩摩藩士森山新蔵が、すでに出発の支度をしていた。玄瑞が来ないものとして、大坂に向かう船に乗るつもりだったらしい。四十過ぎの恰幅《かつぷく》のよい男だった。一度お会いしたかった。蟄居中とは知らなかったと新蔵は恐縮した。会いたいといいながら、はっきりした用件はいわない。ただ京都で近く薩摩の者が、思いきった行動に出るといったことを口走るように洩《も》らしただけである。  新蔵が出発したあと、吉村寅太郎が、白石邸にやってきた。かれはまだ藩内にいたのかと、玄瑞は意外な気がしたが、どうやら新蔵とも図るところがあったようだ。寅太郎も追っつけ京都へ行くつもりだが、もう一人下関で会う者がいるという。  慌しいかれらの動きは、おそらく所司代を襲って挙兵するという例のくわだてに向かい、着々歩を進めているものと思われた。 「これを」  と、玄瑞は懐にしのばせていた血盟書を見せた。寅太郎は、大きくうなずくと、 「久坂さん、四月、四月に京都で会おう。決行は下旬。くわしくは京都で」  言い残して、そそくさと玄瑞の前からいなくなった。  下関から帰ってきた玄瑞は、脱藩の気構えで、ひそかに身辺の整理を始めた。そのことは妻の文にも隠しているが、何か夫がやろうとしているなとは気づいていたのだろう。  さすがに、というべきであろう。松陰の三人の妹たちは、いずれもしっかりした心構えを養われていた。児玉家に嫁いだ一番上の千代などは、後年の話になるが、女の身で切腹する男性の介錯をしたほどの気丈さをみせた。明治九年の萩の乱が終ったあと、叔父の玉木文之進は、門弟の一部が前原一誠の蜂起に加わったことに責任を感じ、先祖の墓前で切腹した。文之進の様子を察して、千代が駆けつけると、すでに文之進は腹を裂いて苦悶しているところだった。千代は文之進の刀をとって、その首を刎《は》ねてやったのである。  おとなしいといわれた文にしても、千代と同じ立場になったら、それをやったかもしれないと思われるだけの静かな精気を心底に秘めている。玄瑞のただならぬ決意を見抜いても、文は不安を顔にあらわさず、出発にそなえるための新しい衣類を黙々と縫い始めるのだった。  これまでも玄瑞は、旅先からあまり文に手紙を出していない。ほんの数通にすぎないだろう。文はそれを大事に手文庫のなかにしまい、時々取り出しては読みなおしているようだった。 「桜がよう咲いちょりますよ」  文が明るい声で、玄瑞に告げたのは、三月二十三日の午後である。部屋にとじこもって、しきりに書き物をしていた玄瑞は、そういわれて庭下駄をつっかけ、まぶしい陽の中に出た。寄り添うように、文がかれのそばに立った。玄瑞と文のそうしたむつまじい光景を、杉家の者が見るのは、それが最後になった。  無言の会話をとりかわしながら、二人はしばらく花の下にいた。  玄瑞への意外な藩命が届いたのは、それから間もなくである。蟄居を解くというのだった。同じ日に周布政之助も許され、江戸藩邸への復帰が命じられた。情勢がめまぐるしく動いている。政之助ほどの人材を、いつまでも萩に閉じこめておけなくなったのだろう。  玄瑞は、兵庫警衛にむかう家老浦靱負の一行に組み入れられることになった。浦の家臣秋良敦之助が、とりはからってくれたのだという。 「玄瑞だけが行くことはないじゃろう」  と、中谷正亮がいいはじめた。一緒に脱藩する予定でいた連中は、肩すかしを食った気分である。そこで秋良に頼みこみ、松下村塾党の一行も兵庫行きに加えられることになった。  以前から神戸、西宮など京都に近い港湾付近の警衛を長州藩が受け持っている。兵庫港は開港していないから、ただちに外人がそこから上陸することはないが、朝廷の意向をくんで安政年間からつづけている。暇な仕事で、大坂や京都の藩邸と往来したりしながらののんびりした任務だった。  二十七日、富海《とのみ》から出る船で出発、四月五日に玄瑞らは大坂に入り、京都に着いたのは十一日だった。兵庫警衛の陣は素通りで、かれらはさっそく自由な行動を開始した。もともと正規の人員に数えられているのではないから、浦靱負も黙認のかたちをとったのだが、やがて玄瑞らの目的を知ると、やはり驚愕《きようがく》した。ところが浦という人物も相当なもので、それを制止しても駄目だとわかると、間接的な協力の態度を示すのである。  玄瑞が大坂の薩摩屋敷にいる先着の志士たちと打ち合せた行動計画は、次のようなものであった。  一、二条城の所司代屋敷を襲って、所司代酒井若狭守忠義を斃すこと。  一、佐幕派の関白九条尚忠をその屋敷に襲って斃すこと。  一、粟田青蓮宮(のちの中川宮)の参内を請い、錦旗と節刀を受け、宮を奉じ討幕の兵を進めること。  この挙に参加する志士はおよそ百名である。起てば七道から兵が集まり、大勢力にふくれあがるだろうというのである。何よりも薩摩から島津久光が率いて上京する千人の精鋭がいる。  ところが久光はたしかに薩摩藩兵をつれて上京してくるのだが、目的は討幕などではなかった。薩摩藩の謀臣といわれた堀次郎は『紹述編年』という論策を、久光の上洛にあたって書いた。これは長州の長井雅楽の航海遠略策と似た内容である。主題は幕政改革であり、薩摩の発言権を想定した上での公武合体論であった。  久光は、まず幕政改革の勅命を天皇より受け、江戸に乗り込む計画だった。志士たちはこれを誤解し、薩摩が尊王攘夷運動に藩を挙げて起ち上がると思いこんだのである。  玄瑞は、航海遠略策などを掲げて低迷している長州藩が、薩摩に大きく遅れをとると見た。松下村塾党を率い、先駆する志士団の一翼をになうつもりだった。久坂、中谷、佐世、入江、久保、品川ら二十数人は、京都の長州屋敷に集結した。吉村寅太郎ほか他藩の志士五、六名もこの藩邸にひそんだ。  急を聞きつけた浦靱負は、兵庫警衛の藩兵五十名ばかりをつれて京都屋敷にやってきた。  玄瑞らが所司代を襲うなどの行動を起こせば、御所の警備を応援しようというのである。志士たちの義挙が薩摩と共同のものだと思いこんでいたからでもあるが、もともと京都屋敷の留守居役はじめ藩の役人たちは、反幕的な傾向が強い。土地柄というのだろう。だから江戸藩邸の重臣連は、幕府寄りの姿勢を見せる。周布政之助や桂小五郎は、そこでは異色の尊攘家という立場にあった。  一方、過激な行動を起こそうとする玄瑞らを屋敷内にかくまって、京都の長州藩邸は、鎮まりかえっている。  藩兵を率いた島津久光が、大坂藩邸に入ったのは四月十日である。志士たちにとって思いがけない久光のきびしい指令は、その日から始まった。まず薩摩屋敷に集まっていた急進的な浪士は追い出された。途中藩主を迎える役目を放棄し、一足先に藩邸に入っていた西郷吉之助は帰国の上、遠島の処分となる。同じく帰国の命を受けた森山新蔵は、やがて自分の子供が、寺田屋で憤死したのを知ると、自殺してしまう。新蔵は、一カ月前、下関の白石邸で玄瑞に会ったのち大坂に来ていたのである。新蔵の子、森山新五左衛門は、同志と共に伏見の寺田屋にひそんだ。  寺田屋には、この森山や有馬新七ら薩摩の急進派のほかに、中山大納言の諸大夫だった田中河内介、久留米の神官|真木《まき》和泉《いずみ》ら諸国の志士もまじって、決起の日を待っていた。  久光は十五日入京、十六日に参内して、計画通り「幕政改革」の勅命を受けた。  二十三日の夜、久光の命を受けた奈良原喜八郎、大山格之助ら九人の薩摩藩士が寺田屋にむかった。暴挙を阻止するようにいわれ従わないときは上意討ちもやむを得ないという非情な使命を帯びている。  やはり薩摩人同士の乱闘になった。刺客からも一人の死者を出したが、薩摩の志士六人が斬殺され、重傷を負った二人は翌日自刃した。  ──寺田屋騒動  と呼ばれる薩摩藩の急進派弾圧事件である。悲報は次の日の朝、京都藩邸で待機する玄瑞たちのもとに届いた。 「残念だ、私は別の手段を考える」  吉村寅太郎は、深く期すところがあるような面持ちで京の町へ消えた。かれは翌年、天誅組を組織して、大和に挙兵するのである。  当面の目的を失った玄瑞は、思い出したように長井雅楽の暗殺をめざした。じっさいには長井の立場も、すでに苦しいところに追い込まれようとしていたのだ。  藩兵をひきつれ威風堂々といった勢いで入洛した島津久光は、勅命を受けて江戸へ発ったが、勅使大原重徳に随行するかたちをとっている。 「将軍は諸侯と共に上洛し、国是を議定せよ」など幕府への勅命が出たのも、久光の意見である。航海遠略策により一時京都で顔を売った長州藩の影は薄れ、代って薩摩が主役に躍り出た。  五月五日、長州藩の家老浦靱負は、議奏中山|忠能《ただやす》から呼び出され航海遠略策には「謗詞《ぼうし》に似寄《により》」の部分があり不敬ではないかとの詰責を受けた。「攘夷は浅薄な慷慨《こうがい》家の唱えることだ」という例の一節をさしている。攘夷主義者である天皇を誹謗するに似たことばだというのである。  玄瑞らがいいだした遠略策批判が、多くの志士に伝わり、朝廷にも達したものであろう。むろん浦靱負にも、玄瑞はそのことを吹きこんでいる。しかも「謗詞似寄」の文章は、長井個人の責任だと強調しておいたので、浦もそのように弁明して退きさがった。  江戸にいる藩主に、さっそく朝廷から詰責されたことを浦は急報する。久光の登場に気をくさらせていた敬親は、長井雅楽に不機嫌な目をむけた。失策をとがめられた雅楽は、君前をしりぞけられて帰国の途に就く。  玄瑞は、その途中に雅楽を襲うことにしたのだ。失脚したかれに追い打ちをかける必要もなさそうだが、やはり殺さなければならぬと思いつめている。  長井雅楽に対する玄瑞の憎悪は、松陰東送の一件いらい高まるばかりだった。航海遠略策が廃案になっても、もはや雅楽を許す気になれなかった。遠略策のことで、諸国の志士は長州藩への信頼を失いかけている。かれらに対しても、長州人の手で雅楽を討ち果して見せなければならなかったのだ。  理由は、もうひとつある。  松浦松洞が、死んだ。自殺であった。かれは、玄瑞と別れて、長井雅楽を暗殺すべく一人で行動した。しかし結局その機会を得ないまま京都で行きくれた。寺田屋騒動の直前の四月十三日のことである。  その日、松洞は粟田山で、屠腹《とふく》して果てた。憂憤のあまりとはいえ、その死を聞いたときは、首をかしげる者も多かったのである。松下村塾党が、いよいよ行動を起こそうとするときだ。それに参加してもよいのではないかというのが普通の見方だろう。 「松洞は、われわれにさきがけて死んでみせたのだ。あれはそういう男だ」  玄瑞は、そのように理解して松洞の死を悼《いた》んだ。 「吾が輩、皆に先駆けて死んで見せたら、観望して起るものあらん」  松陰が、野山獄から門弟たちに書き送った手紙の一節である。松洞は、刑死した松陰を、真っ先に追ってみせたのかもしれない。絵師を志した松洞は、松陰の炎にふれて志士の道を選んだ。松陰の遺影となった肖像を描いて三年後に、松洞は、ひとりで悲惨な死を京都にとげた。かれは松下村塾党から、最初に消えた志士であった。  玄瑞が、長井雅楽を狙うのは、松洞の悲痛な志にむくいるという気持もある。  文久二年六月三十日。その夜、京都鴨川べりの料亭吉田屋に集まったのは、久坂玄瑞、福原乙之進、寺島忠三郎、堀真五郎、野村和作、伊藤俊輔(利助を改名)の六人である。  吉田屋の表は三本木の華街の通りに面している。裏が鴨川の河原になっており、桂小五郎もよくこの店を使った。当時は、まだ新撰組などという市中取り締まりの浪士隊はいないから、比較的のんびり酒が飲めた。  酔いがまわると、例によって、玄瑞にだれかが歌を求める。このころから、玄瑞は詩吟だけでなく、自作の和歌を朗詠することもあった。いつか習い覚えた今様歌《いまよううた》を歌ったりした。今様歌というのは、俗謡とも呼ばれる一種の流行歌だが、歴史は古い。七五調四句の歌で、平安時代からあらわれ、白拍子、遊女が歌い、また宮廷貴紳に愛誦《あいしよう》され、宮中の節会や宴会でも歌われた。 「久坂さん、どこでそんな歌を習うた」と、よく訊かれたものだった。 「梅田家にひそんでいるとき教えてもろうたのだ。雲浜先生がこれを好んでおられ、稽古もさせられた」  雲浜は松陰の処刑に先立って、獄死している。今様を歌うと、玄瑞はあのころをなつかしく思い出した。かすかに井筒タツの顔が、浮かんでくるときもある。  偶然とは、不思議な出会いをもたらすものだ。その井筒タツが、実はこのとき吉田屋の座敷にいて、遠くから響いてくる今様を、ふと耳にしたのである。タツがたしかめようと店の者に尋ねたときには、もう玄瑞はその場所にいなかった。  詩才のゆたかな玄瑞は、今様も自作のものを歌う。玄瑞が習ったのは、雅楽の越天楽《えてんらく》の旋律をとった越天楽今様といわれる古歌の調子で、朗々と歌えば勇壮な味となるが、歌詞に感情をこめると哀調を帯びて、胸にしみこんでくる。     尾はなが末にしらつゆの     玉ちる野辺のあきの夜は     なに心なき虫さへも     さすが今宵はむせぶらむ  歌い終ると、突然、玄瑞は荒々しく刀をとって、立ち上がった。 「久坂さん、どこへ行く」と、寺島が鋭くたずねた。 「長井雅楽が明日、大津を通ると聞いた」 「やるのかね」と福原。  玄瑞は答えずに部屋を出た。五人は、いっしゅん顔を見合せ、うなずくと急いでそのあとを追った。  暗殺団と化した玄瑞ら一行六人は、その夜のうちに大津へ行った。  失脚した長井雅楽が、江戸を追われ帰国する途中、ここに宿をとっているはずだったが、まだ到着していない。それで草津まで足をのばした。草津は、東海道と中山道の分岐点である。ここにも長井が宿をとっている気配がない。草津でかれを発見すれば、大津との間にある矢橋《やばせ》の渡し近くで、翌朝襲うつもりだった。  草津にいないとなると守山(今宿)だろうと、さらに東へ移動した。深夜になったので、守山の近くに宿をとり、ここで斬奸《ざんかん》状や遺書をしたためた。遺書といっても自分の死体の処理などを依頼する簡単な文章をしたためたものを、襟《えり》の中に縫いこみ、その夜は眠った。  翌朝早く出発して、守山の宿場へ行くと、本陣の表には例によって「毛利大膳大夫様家来長井雅楽殿御宿」と書き出し、高張提灯が立ててあるのが目にとびこんできた。まだ中老を罷免されたわけではないから、不当とはいえないが、仰々しくふんぞりかえって帰国の旅をつづけている雅楽のことが、玄瑞には憎らしく思われて仕方がない。 「白昼では手を出せないな」  寺島忠三郎がつぶやく。 「やはり矢橋でやろう」  と、野村和作がいった。 「矢橋を通るかどうかが問題だ。草津がよかろう」 「いや、久坂さん、草津には徳山藩の行列が泊まるらしいから、草津でやるのはまずい。ちょっとさぐりを入れ、長井の路順をつかんで、襲う場所を決めても遅くはない」  伊藤俊輔が、慎重論をとなえた。それから彼は一人で本陣に出むき、宿の者にうまく持ちかけて聞き出してきた。雅楽は、伏見にむかうという。 「では、藤の森がよかろう」  和作が提案し、それに落ちついた。  一応もっともな理由をあげてはいるが、長井雅楽の宿所をつきとめたあたりから、一同申し合せたように慎重な態度をとりはじめているのだ。同藩の大身の武士を殺すことに躊躇《ちゆうちよ》する気持が皆に働くのは、やむを得ないともいえるが、玄瑞にしても、草津で襲おうという自分の意見を強硬に押そうとしなかったのだから、他の者を責められない立場にいる。そんなわけで、この長井雅楽襲撃は、結局機会を失してしまうのである。  六人は、雅楽のあとをつけて、守山から草津へ行き、石山、宇治を経て伏見に出る。ところが、ここで目ざす相手がいなくなっているのに気づいた。駕籠だけは宿についたが、雅楽は乗っていなかったのである。  すでに草津のあたりで狙われていることを知った雅楽は、そこから単身道を変えて帰国を急いだのだ。 「長井は藩政府に訴えるであろうな」  忠三郎が舌打ちした。何となくぐずぐずして、襲撃の時機を逸したことを悔む思いは、玄瑞と同じだろう。 「京都へ出よう」  と、玄瑞はいった。 「京へ出て何をする」  忠三郎が尋ねた。 「京都藩邸に、長井襲撃に失敗した旨を申し出て裁きを待つのだ」  玄瑞としては、腑甲斐《ふがい》ない自分を懲罰するような気持である。 「よかろう」  忠三郎がうなずき、他の者も賛成したが、伊藤俊輔だけは反対した。 「僕は嫌じゃ。やってもおらんものを、わざわざ名乗り出ることもあるまい」 「どっちみち長井が訴えればわかることだ。いっそ進んで告白するのがいさぎよいというものであろうが」  和作が、さとすようにいったが俊輔は激しく首を横にふる。 「それで切腹でも命じられてみろ。ばからしいではないか。臆病でいうておるのではない。犬死は嫌だ」 「無理に同行せよとはいうておらん」  玄瑞は、微笑しながら俊輔のことばをさえぎった。  長井を討ち洩らしたことを申し出て罪に服せば、いずれ他藩の志士にも伝わるはずである。それに長井自身が失脚したとわかれば長州の不評も少しは取り戻せるだろう。名乗り出るのは、自分一人でもよいのだと、玄瑞は考えている。  一時的にもせよ襲撃に躊躇したことが、かれには悔まれてならないのだ。だから暗殺未遂の名乗りをあげるもう一つの重要なねらいは、長井雅楽に対する藩の決定的な処分をせまるということである。単に失脚だけにとどまらない、要すれば藩是をあやまらした過失の責任を追及しようという肚《はら》だ。そのために玄瑞は、敢《あ》えてみずからの罪を明らかにし、雅楽を道づれに裁かれようとしているのである。 「両成敗」を覚悟してのことだから、俊輔は敏感にそれを察して逃げた。かれの性格を知っている玄瑞は、別に驚きはしなかった。そもそも俊輔が、この暗殺行に加わったこと自体がふしぎなくらいだ。 「名乗り出るのは、僕一人で結構だ」  と、玄瑞はほかの者にもいった。 「いや、こうなれば一蓮托生ではないか」  忠三郎がいい、あとの四人もうなずく。俊輔だけは、平然として不参加の意志を通した。卑屈になった様子もない。それはそれで俊輔らしい見事な身の処し方ともいえた。  その日のうちに玄瑞らは、京都藩邸に入り、連名で待罪書を差し出した。玄瑞が起草したものである。  私共一同、長井雅楽を斬除|仕《つかまつ》り度く決心仕り候。雅楽、奸佞《かんねい》弁智身家を謀り、君を欺き、国を売るのこと衆目の視る所にて候。此度の如く容易ならざる御恥辱を取らせ、恐れ多くも朝廷を侮慢し、国是を動揺仕らんと相謀り候こと、言語道断に有之申し候。彼の罪科去る四月中旬言上仕り候ことに御座候。……  私共|此《かく》の如く容易ならざる大事相企て、重大法に相背き候ことに付、この上はいかやう御厳刑仰付られ候とも遺憾に存じ奉らず候。  しかしながら正邪曲直の弁相立ち、雅楽の始末早速決し申さず候ては、御当家の御隆替に相拘り申すべく候間、このところ急度《きつと》明白の御所置在らせらるべきやう嘆願し奉り候。以上。  帰国した長井雅楽に、切腹が命じられたのは、航海遠略策を捨てた藩論の大転換によるひとつのけじめであった。しかしそれは玄瑞らの待罪書や引き続いて提出した長井に対する訴状なども処分決定に大きな役割を果したといわなければなるまい。自分の手を血で汚すことはなかったが、斬奸の目的は達したのである。  萩|土原《ひじはら》の長井宅に家老国司信濃が検使役として十数人の役人をつれて訪れ罪状を読み渡すと、雅楽は謹んで受けたが、切腹の前にひとことと断わって、これまでの自分の行動について長々と説明しはじめた。 「もはや時刻が移りますので……」  と、目付の糸賀外衛が促したので、雅楽はたいそう不服そうだったが、それではと装束をあらためて切腹にとりかかった。  腹一文字に切った短刀を逆手に持ち替え、咽喉を刎《は》ねた。その短刀を畳に突き刺し、首をもたげてじっと検使の顔を睨みつけた。かれはそのままで絶命するつもりだったらしいが、おびただしく血が流れるばかりで、いつまでも呼吸が止まらない。  介錯の福原又四郎が、見かねて刀をふるおうとするのを、雅楽は左手で制し、もう一度咽喉に短刀をあて、こんどは気管を掻《か》き切って、ようやく前に伏した。  長井雅楽自身にとっては、無念な結果であったろう。すくなくとも私利私欲をはなれた正論と信じ、それをつらぬこうとする途上の賜死である。  凄絶《せいぜつ》な自刃の様子は、やがて玄瑞の耳にも入った。あれほど憎悪した雅楽だが、さすがにもののふの感動的な最期であった。  京都藩邸に入った玄瑞は、急に待罪書は自分一人の名で差し出すといいだした。 「五人も罪に服す必要はないじゃろう。僕だけで充分だ」 「いや、久坂さんだけに縄を打たすわけにはいかん」 「俊輔の立場も考えてやれ。いかに信念に従ったとはいえ、一人だけ外れたことを気にはしちょるにちがいない。あれにつきあうと思うて、おりてくれぬか」  玄瑞の説得で、野村和作と堀真五郎が退くことになった。寺島忠三郎と福原乙之進はあくまでも名を連ねるといってきかない。ついに、玄瑞とこの二人を合せ三人連署で待罪書を家老浦靱負の手許に提出した。  早速、かれらは不穏の挙をなした者として、藩邸近くの法雲寺で謹慎するようにとの命を受ける。京都藩邸での扱いは、意外なほど好意的で、難詰するような気配はあらわれなかった。ひとつには浦靱負自身、長井雅楽に同調できないものを以前から感じていたからであろう。京都藩邸はともかくとしても、江戸藩邸には雅楽への共鳴者が多いから、浦の独断で寛大に処置することも許されないのである。  玄瑞らが法雲寺に閉じこめられた期間はかなり長く、七月の初めから九月の十五日にまで及んだ。この年は八月が閏《うるう》だったので、約百日間の謹慎となった。  玄瑞にとっては、はじめのうちは行動をせき止められた苛立《いらだ》ちのようなものが浮き出たにせよ、次第に落ち着きを得て、じっくり腰を据え思索にふけるよい機会でもあった。ここでかれは長文の『廻瀾条議《かいらんじようぎ》』を書き上げた。  これは藩に提出する上書だが、続いて草した『解腕痴言』と共に、玄瑞が遺した最大の時勢論となった。幕末、尊王攘夷運動に参加した志士の代表的論文として知られるものである。 『廻瀾条議』は、五章から成る論文で、「本藩正邪の弁を明かにし士風を興起し節義を鼓舞する事」の条から書き出し、一万二千字を費している。  ペリー来航以来の国内情勢と、それに対応する長州藩の現状、そして尊攘の藩是を確立すべきことを、痛論する慷慨の書である。いわば玄瑞のすべてが、これに表現されているといってよい。  むろんこのなかには、師吉田松陰の評価についても力説し「毀誉《きよ》一ならず、甚しきは御危害を引出し国賊などと罵《ののし》り候者もこれあるは実以って残念の至り」である旨を述べ、江戸小塚原に盗賊の骨と共に遺骸が埋められているのを、改葬するよう配慮してもらいたいと求めている。  また次のような文章も見える。 「(外国人は)耶蘇《やそ》会堂を建て、ミニストル(公使)を府下に置き、わが婦女を掠《かす》め、わが土人を役すること彼が思ふままに相成り……写真鏡、電信器などの奇技淫工を以って、洋学者流また衒奇競新《げんききようしん》の 徒等《やからら》を眩惑し……」  整然とした時勢論のなかにも、こうしたことばが見られるところに、玄瑞の徹底した排外主義がのぞいているのだった。  九月十五日に謹慎を解かれると、たまたま京都藩邸を発って江戸へむかう桂小五郎に、『廻瀾条議』を世子定広が読むように取りはからってもらいたいと頼んだ。小五郎の手で、藩主父子の手許に達したが、この『廻瀾条議』は、やがて写本となって世間に出まわり、多くの志士たちに愛読されたりもした。  自由の身となった玄瑞は、早速京都での活動を開始する。薩摩の高崎佐太郎、土佐の武市半平太、坂本竜馬、福岡孝悌らと会合を重ね、攘夷の勅使を江戸にむけるように奏請、また長薩土三藩の親兵を京都におくように画策するなど忙しくとびまわっているうちに、京都は秋冷の季節に入る。  十月十日、玄瑞は思いがけない藩命に接した。 「身柄一代医業を免じ、儒役に列せられ、文学修業のため江戸行きを命ずる」というのである。 「ご辞退申します」  いきなり玄瑞がいったので、その藩命を伝えた浦靱負は、実に心外だという顔をした。喜ぶものとばかり思っていたからである。  医者になるつもりはないのに、身分が藩医だから、江戸に出るときはいつも「医学修業」の名目となる。気のむかないまま西洋医学の塾にしばりつけられ、浮かぬ顔をしている玄瑞のことは、浦もよく知っている。それは中谷正亮の口からも、中村九郎はじめ重臣連の耳にも入っており、何とかしてやらねばといった空気はあったのだろう。『廻瀾条議』が藩主父子の目にとまってから、一躍存在を認められた玄瑞は、ようやく希望通り「一代医業を免ず」の藩命に接することになったのである。 「文学修業」のため江戸行きを命じられたのも初めてである。同じくその名目で江戸へ出た高杉晋作とこれで対等に肩を並べられる。医学とちがって、文学ということなら、行動の幅も広がるわけだ。それはうれしいが、「儒役に列す」となるのがどうしても気に入らない。藩医から儒臣に身分が変更されるのも比較的めずらしい例だが、玄瑞としては儒役などといわず、いっそ藩士にしてくれてもよいではないかと思っている。  武士になりたいのだった。  玄瑞のこの望みは、単なる身分的なあこがれではないだろう。自身は、早くから「もののふ」のつもりで精神的にはそれになりきっているのだが、医学修業をなどと命じられる現実もまとわりつく。「区々たる刀圭を執る」ことをいさぎよしとせずといった気持から脱却するためにも、名実共に武士でありたかった。  文久元年ごろから、玄瑞は、しきりに和歌を詠《よ》みはじめた。それまでは漢詩ばかりだったのに、ある種の国学的志向に傾き、「花を詠みて」「惜春」「秋夜」「月をみてよめる」などと題し、十首、二十首と大量の作品をものしている。     今日のみと思はば春の惜しからめ         我心しもいつかなしてん  日本的な美しい情景や若者らしい感傷をうたうには、漢詩より和歌に心を託すことがふさわしいと思うようになった。  いくぶんは松陰の影響もある。かれもよく漢詩をつくったが、処刑される直前、家族におくったものや辞世はほとんど和歌であった。日本人の感覚に訴えやすい詩形としての「やまとうた」に対する無意識の愛着なのだろうか。漢詩では表現できない心のヒダが、そこには歌われているのだ。  玄瑞がまったく漢詩をつくらなくなったわけではないが、和歌に強く心を寄せるようになったのはそれなりにひとつの転機を迎えていることでもあった。そして、玄瑞の和歌には、素直にその志向があらわれて、「もののふ」を詠みこんだものがめだっている。     桜花手折かざゝむ武士《もののふ》の         鎧《よろい》のうへにいろ香をみせて     ゆく川の過にし人の跡とへば         丈夫《ますら》猛男《たけお》も涙ぐましも     香を千世に留めぬるとも武士《もののふ》の         あだなる花の跡ぞ悲しき 「辞退するなどと、いったい何が不服なのかね」  浦靱負から訊《き》かれて、 「不服はありませんが、儒役に列すといわれても、私は儒臣となるほどの学問を積んでおらんのです。微力その任にあらざるを以って、ご辞退申しあげます」  と、玄瑞は答えた。「侍にして下さい」と口に出してしまえば、冷笑されるにきまっている。 「どうしても、儒役は嫌か」 「嫌でございます」 「久坂さん、儒役を断わったそうだな」  寺島忠三郎が、豪快に酒をあおりながらいった。三本木の吉田屋の一室である。 「その任にあらずと思ったからだ」 「浅学の僕には望むべくもない役だが、久坂さんには充分資格がある。謙遜《けんそん》が過ぎるのではありませんか」 「謙遜とみるのか」  と玄瑞は、苦笑した。なおも何かいおうとする忠三郎を目で制して酒をすすめ、みずからも一息に飲み干した。かなり酔っている。もともと酒には強いほうだが、江戸や京ですごすうちに、いちだんと手をあげた。志士たちとのつきあいが、どうしても酒の席になるからだろう。  酔うと歌いたくなる。  窓から見える東山の端に大きな月が出ている。十月の十五夜だった。即興の和歌を朗詠《ろうえい》した。 「秋の色はかはらざらめとことさらにうら悲しきは三五夜《もちのよ》の月」  しみじみとした味わいがあった。忠三郎は腕を組み、目を閉じて聴きほれているが、酔ったのか上体がかすかに揺れている。長井雅楽の暗殺に失敗し、名乗り出てから三カ月ばかりを過ごし、ようやく謹慎を解かれた。次の行動に移るまでのわずかな休息のときである。  廊下に人の気配がして、店の者が顔を出した。初老の女中である。 「ちょうどよい、酒がのうなった」  玄瑞は、空になった徳利を振ってみせた。 「失礼でございますが、長州の久坂様どすか」 「そうです。僕は久坂です」 「一度、尋ねてみてくれと頼まれましたんどす」 「だれに」 「芸妓はんで、辰路《たつじ》いわはりますがご存じどすか」 「知らんな」 「辰路はんは、あの歌をうとうてる方は、きっと久坂はんやろと……いえ、この前、おいでにならはった折のことで……」  それは六月末、玄瑞らが長井雅楽を討ちに出かける前、ここで飲んだときのことであろう。  辰路という芸者は、この店の他の座敷に呼ばれていて、ふと歌う玄瑞の声を聴いた。たしかめようとしたときには、すでに玄瑞ら一行は店を出てしまっていたというのである。 「もし久坂はんなら、この次きやはったとき、ぜひ知らせてほしいと頼まれてますのやが、どないしまひょ」 「久坂さんに、馴染《なじ》みの芸妓がおったとは初耳だ。これは聞き捨てならん」  忠三郎が、陽気な声をあげた。 「いや、僕にも憶えがないのだ。芸者を呼んだ座敷にはべったことが何度かあるにはあるが、親しくなったような者はおらん」  少しばかり玄瑞は狼狽《ろうばい》している。 「まあ、とにかく呼んでみようではありませんか。軍資金は大丈夫です」  と、忠三郎は、ふところをたたいてみせる。女中は大きく合点して去って行った。 「どのみち、また江戸でしょう。京の名残りに、芸者と酒を飲むのも悪くはない。伊藤俊輔などは、あれで祇園あたりにしばしば出かけるらしいですよ。われわれも負けてはおれん」  ひとりで忠三郎は騒いでいる。玄瑞にしても、悪い気分ではなかった。辰路という芸者を待つ間、ひとしきり酒がはずんだ。ところが、半刻ばかり経っても、女はあらわれないのである。どこかの座敷に出ているとかで、必ず行くから待っていてくれという伝言だけは届いている。 「気をもたせるようなことをいいおって、いつまで待たせるつもりだ」  などと怒鳴ったりする忠三郎をなだめるように、玄瑞は、今様を一つ歌う。快く酩酊《めいてい》していた。歌っているところへ、やっと辰路が姿を見せた。  指をついて形通りの挨拶をしたが、酔っているらしい。部屋に入ると、いきなり玄瑞のそばへにじり寄ってくる。脂粉の匂いが、鼻を衝いた。 「久坂はん、お久しぶりどすなあ」 「さて、どこで会うたか……」 「よう見とくれやす」  と、辰路が厚化粧の顔を突き出したとき、玄瑞は不意に目を瞠《みは》った。 「あんたは、井筒……」 「へえ、井筒タツどす。えらい変った恰好に、おどろかはりましたか」 「驚嘆しちょります。夢のようだ」 「まあ、久坂はんらしいいい方どすなあ」  タツ、いや、ここには芸者辰路が、笑った口に手をあて、酔いのためほんのりと頬を染めながら坐っているのだ。 「何じゃ、知っとったのか。久坂さんも隅におけんなあ」  忠三郎が、怒鳴るようにいった。 「雲浜先生のところで、以前会うたことがあるのだ。もっともそのとき、この人はおとなしい医者の娘であった」 「おとなしいて、今でもおとなしい女どっせ」  と辰路は、また笑う。 (違うな。あのころより)  玄瑞は、これも職業として身につけたのか、彼女のいくらか蓮《はす》っ葉《ぱ》な物腰に反撥《はんぱつ》しながら思った。  女中が酒を運んできた。 「これは、うちのおごりどす。まあお一つ……」  などといい、玄瑞と忠三郎の空になった盃に酒を注いだ。 「なぜだ、なぜ芸者なんぞしちょる」  玄瑞は、酔っている。その酔いの中の醒《さ》めた一部分が、かすかな怒りを帯びながら、女を見ていた。 「芸者なんぞて、失礼なおっしゃりようどすな。……父が死にました」 「井筒玄庵殿が、ですか」 「今夜は、身の上話はやめて、飲みまひょ。久しぶりに久坂はんの詩吟も聴きとおす」  辰路は、玄瑞が注いでやった酒を、一気に飲み干した。 「そなたは、芸者ではないか。久坂の歌を聴くより、三味線ぐらいはまず弾いたらどうだ」  忠三郎が、いかにも憤然とした口調でいった。 「こちらは、どなたはんどす」 「萩藩士寺島忠三郎だ」  答えて、かれは立ち上がった。よろめいている。 「久坂さん、悪いが、僕は帰る」 「まあ、嫉《や》かはったんどすか。うちと久坂はんは別に何でもない、ただの昔馴染どっせ。気ィまわさんかて、よろしおす」 「とにかく、帰る」  刀を執ると、忠三郎は廊下にとび出して行った。玄瑞があわてて、それを追う。 「久坂さん」と、忠三郎は耳打ちした。「腹を立てて帰るのではありません。ああでもせんと、席を立てぬので……。およその察しはついた。二人でつもる話もあるでしょう。邪魔者は消える。これも武士の情ですよ」 「忠三郎、違うのだ」  言訳しようとする玄瑞のふところに、自分の財布をねじこんで、忠三郎はあたふたといなくなった。意外にしっかりした足どりである。 「ええお友達どすなあ」  いつの間にか、辰路が後ろに立っていた。 「飲みなおすとしよう」  陽気にいったが、少々後ろめたい思いが玄瑞にはある。それは忠三郎に対してもだが、萩にいる文の顔も目の裏にちらついている。振り払うように、玄瑞は酒を飲んだ。  文以外の女と、二人きりで向かいあうなどは、初めてのことである。緊張している自分を嗤《わら》いながら、むやみに盃をかさねるうちに、どうやら本当に酔いを感じてきた。 「久坂さん、歌うとくれやす。梅田先生のところで習わはってた今様でも、詩吟でも……。久坂はんのきれいなお声が聴きたい、ずっとそう思うてたんどす」  甘えたようにいい、玄瑞の顔をじっとみつめる辰路も、したたか酔っているふうだった。玄瑞は、そのとき何をどう歌ったのか、自分でもわからない。歌っているうちに、意識が朦朧《もうろう》となり、そのまま辰路の膝の上に倒れこんでしまったことも、記憶にのこらなかった。  ふとめざめると、玄瑞の体は、やわらかい蒲団につつまれていた。周囲は、暗黒にとざされている。  寝返りを打とうとして、玄瑞は自分の肌に接している暖い|もの《ヽヽ》に気づき、あわててはね起きた。 「おめざめどすか、久坂はん」  その暖いものが、ひそやかな声をだした。 「久坂さま」  と、呼びなおし、手さぐりでかれの腕にすがるや突然、激しく引き寄せようとした。女の意外な力に、素直に従いながら、熱っぽい二つの隆起の間に顔を伏せ、玄瑞は「嗚呼」と声にならぬ叫びを、底冷えする闇のなかにあげた。  いずれ、こうなることを、予期していたのだという思いが、チラリと走る。みずからのその思いに対しても、玄瑞は、もはや従順であり得たのだ。たちまち、婉転する女体の波に、かれは溺《おぼ》れた。──  玄瑞が梅田家を去った直後、雲浜は捕えられた。そして井筒タツにとっても悲惨な情況が待っていたというのは、父玄庵の急死である。貧しい患者を無報酬で施療していた玄庵は、一方で薬屋などにかなりの額の負債を遺した。母親は早逝していたので、タツは孤独の身となった。口をきく者がいて、華街で働きはじめてから、すでに四年近い。  親が医師で、しかも肉親と早く死別したタツの境涯に、玄瑞が他人事でないものを感じたのは当然のことであろう。 「つとめは、辛いですか」  と、玄瑞は、タツに尋ねた。女が肯けば、かれはどのような無理をしてでも、資金を捻出《ねんしゆつ》して、この職業から身を退かせるつもりだった。タツは敏感にそれを悟り、遊女のような苦界ではないから、そんなに辛い商売ではなく、三味線や踊りなどの芸事も結構身に合っているといったことを返事した。  タツを可愛がっていた姐《ねえ》さん芸者が、島原の桔梗屋を出て自前で独立するとき、タツをつれて三本木に一軒を構えた。三年ばかりの後、その芸者が死に、タツはそのまま屋号を継いだ。婆やを一人雇って、まずまずの暮らしを立てている。身の堅い芸者で通っている反面ではそれなりに収入も充分ではない。 「何かあったら、必ず僕にいいなさい。どのようにも始末できると思う」 「おおきに」  不器用な玄瑞の申し出に微笑みながら、ふとタツは涙ぐんだ。からだを求めていい寄ってくる男は多いが、心からのやさしさを示す人間の少ないことを、タツが知ったのも、この世界に入ってからだ。タツは、梅田家で最初に会ったときから、誠実な人柄を玄瑞に感じていたのだという気がするのである。 (うちは、久坂さまの声が好きや)  タツは、何よりもまずそう思っている。  安政五年の春、梅田雲浜の家で宴たけなわとなり、玄瑞は乞われて月性の「立志詩」を朗々と吟じた。かれは気づかなかったが、隣室で、タツは雲浜の姪のお富と共に、耳を傾けていたのである。 「あのときのお声が、いつまでも耳のなかに響いて、消えしまへん」  吉田屋にあらわれたときの、やや蓮っ葉な身ぶりは、その姿で玄瑞の前にあらわれるタツの屈折した演技だったことを、ようやく玄瑞は理解した。そこには成熟した井筒タツがいた。玄瑞と深く結ばれた女としてである。  玄瑞は、数日間、この家でタツと暮らした。充足した愛欲の生活は、杉家でつつましくすごした文との間では、決して経験できないものであった。玄瑞は、自分が本当に探し求めた女との出会いを歓喜したが、やはり一方では、強い呵責《かしやく》を覚えていたのだ。折にふれ、文と松陰の顔が交互に浮かぶのを、どうしても払いのけることができないのである。 「うちは悪い女どすなあ」  タツがいう。それを否定するむなしい玄瑞のことばを聴き、激しい愛撫に身を任せながら、いずれは別離の日がくることを、タツは喘《あえ》ぎつつ思う。  文久二年、二十三歳の玄瑞は、秋深まる京の一隅で、孤独な美しい女と、うたかたの幸せを分けあった。   花は桜木  文久二年十二月十二日夜、玄瑞は江戸品川の妓楼「土蔵相模」にいる。  高杉晋作・井上聞多をはじめ長州藩の若者総勢十三人が、遊興にみせかけてここに集まり、夜の更けるのを待っているのだ。  ──イギリス公使館焼打ち。  それをいい出したのは、晋作である。かれはその年、幕府の使節船千歳丸に同乗して、上海に行った。そこでアヘン戦争いらい植民地化した清国の様子を見て、強い危機感を抱きながら、帰ってきた。欧米列強の触手が、清国に対するのと同じように、やがて日本にものびてくると気づいたのである。それまで傍観的な態度を決めこんでいた晋作が、急に行動的になったのは、この上海渡航を契機としている。  十一月には、イギリス人を刺そうと気負いたち、同志を集めて神奈川にむかったが、計画が事前に発覚して、未遂におわった。もともと玄瑞は、これに反対して、晋作と対立した。 「今、外国人の一人や二人斬ったところで、どうなるものでもあるまい。藩を動かして、尊攘の兵を起こすことにしよう」  というのが、玄瑞の意見である。ところが晋作は、今は行動こそすべてだと主張する。  それもわからぬではないが、玄瑞は藩というものが持つ力を利用すべきだと思っている。そのために藩が滅びてもよいのだと、かつて武市半平太への手紙にも書いた。さらに長州一藩の力では不足だから、土佐や薩摩などと連合しなければならぬと考えている。雄藩連合をとなえ、藩が討幕の「道具」だとみる点で、桂小五郎と玄瑞の立場は一致していた。  突飛な行動をくりかえしていた晋作は、やがて「防長割拠」をいいはじめた。これは玄瑞も賛成だが、雄藩連合への期待は捨てない。玄瑞がいなくなってからも、小五郎はしばらくその構想に執着するが、結局あきらめて割拠を決意する。思いがけなく坂本竜馬の仲介により薩摩との提携に成功するのである。  文久三年とその翌年の元治元年は、長州藩の動きが、最も激しく高まるときだった。その最前線で運動する台風の目のような三つの存在があるとすれば、桂小五郎と高杉晋作と久坂玄瑞であった。  小五郎は表立った過激な行動を嫌って、もっぱら裏面工作に躍り、晋作と玄瑞は松下村塾党をひきいて冒険した。三人は、それぞれの意見を交錯、衝突、また一致させながら、要するに長州藩を危険な針路にみちびいているのだった。  晋作が異人を斬るといいだしたとき、玄瑞は反対した。晋作が刀を執って玄瑞を威嚇《いかく》するほどの激論となったが、井上聞多がうまくさばいて、その場はおさまり、結局玄瑞も一緒に行動することにした。だがこれは未遂に終ったのである。  一カ月後、こんどは品川御殿山にほとんど完工し、幕府がイギリス側に渡すばかりにしている公使館を焼こうと晋作がいい、このときはもはや玄瑞も異論をとなえなかった。  十二月十二日の夜、かれらの放った火で、新築の洋館は、たちまち燃え崩れた。玄瑞は晋作と共に芝浦の海月楼に走り込む。酒をふくみながら、師走の夜空に噴きあげる巨大な火柱をながめているうちに、猛然と荒々しい意欲があふれてきた。 「よう燃えちょるのう」  と、晋作がはしゃいだ声をあげた。 「空き家を一軒焼いただけでは仕方がない。やるなら真の攘夷《じようい》だ」  玄瑞は、晋作の盃に酒を注いでやりながら呻《うめ》くようにいった。 「何をするちゅうのか」 「船だ、夷艦を砲撃する。戦場は、下関海峡」 「………」  晋作は、驚いた顔になった。異人襲撃のとき対立した二人の立場は、早くもここで逆転する。  異人を斬ろうといい、公使館を焼き打ちする晋作の行動は、むろん攘夷には違いないが、それによって幕府の困惑を惹《ひ》きおこそうという目的も強い。  玄瑞の一途な志は、攘夷そのものであった。(区々たる異人殺傷や無人の建物を焼き払うのに命を賭けるほどなら、真の攘夷をめざす)  攘夷とは、文字通り外国を掃攘することである。玄瑞にとっては、かつて博多湾をながめながら、北条時宗の事跡を思いえがき、元寇《げんこう》の戦いに雄奮の目を投げたときから抱きつづけた異国との対決だった。  外国に劣る軍事力は、新しい防人《さきもり》たちの精神で補償できると、玄瑞ほどの男もまじめに考えていたのである。小舟に枯草を積み、油をふりかけ、火をつけて外国の軍艦に衝突させ、その隙《すき》に艦内に斬り込めといったのは、吉田松陰だった。松陰にしてそうである。攘夷の志士たちのほとんどが、そのような素朴な軍事的認識しか持ち合せなかったとしても、不思議でない時代だった。下関の稚拙な砲台を見て、こんなことでは外国に勝てるはずがないと痛論した砲術家が暗殺されるというころである。  高杉晋作は、攘夷志士たちのそうした言動を滑稽《こつけい》に感じることのできる数少ない志士の一人だった。かれは、上海に行って、そこに駐留するイギリスやフランス軍のすぐれた軍事力を、たしかめて帰ったのだ。黒船と本気で戦争を始めようとする玄瑞らの主張に、晋作が正面から異をとなえず、玄瑞の「真の攘夷」を実行するということばを黙って聴き流したのも時代というものであったろう。  イギリス公使館を焼き打ちしたのが長州人であることは、幕府も気づいているにちがいない。玄瑞や晋作をはじめ凶行に参加した者は、三々五々江戸を出て京都に入った。  文久三年一月九日、京都藩邸に着いた玄瑞は、公使館焼き打ち事件を言上して、藩政府の処分を待った。十一日に「遠慮」を命じられ、十八日には許された。すでに藩論の大勢が攘夷に大きく傾いている長州では、若い人のそうした行動に対して、いかにも寛大である。  その空気が、京都での玄瑞の活動をいちだんと押し上げた。前年の十一月、玄瑞は学習院御用係を仰せつかっている。学習院は、もともと皇族や公卿の学問所だったが、当時では朝廷と諸藩が接触する場所として使われていた。志士といわれる人たちも、ある程度自由に出入りした。玄瑞は長州藩の代表として、学習院に詰めることになる。 「遠慮」が解かれた日、玄瑞は井上聞多と長時間にわたって話しこむことがあった。三条河原町の旅館池田屋の一室である。 「それで、佐久間象山は、何というた」  聞多の穿鑿癖《せんさくへき》は有名なものだ。好奇心旺盛ということかもしれない。佐久間象山と会ってきた玄瑞の報告をしきりに知りたがった。公使館焼き打ちに参加していらい、聞多もひとつの転機を迎えつつあった。みずからも指針を求めていたのだ。つまり「攘夷」とは何かを、あらためて問おうとする姿勢をとりはじめている。  江戸から京都へ入る途中、玄瑞は藩の内命を受けて、信州松代藩で蟄居《ちつきよ》中の佐久間象山をたずねた。象山は、松陰の海外密航を助けた罪で幕府の叱責を受け、松代藩はかれに蟄居を命じたままなお許さないでいた。玄瑞の使命は、その象山を長州藩に迎えるということだった。  行ってみると、土佐藩からも使者がきて、このほうは藩主の召請状をたずさえての交渉だった。象山は、あくまでも松代藩の家臣であることを述べ、他家へ仕官する意志のないことを明らかにしたので、あきらめるほかはなかった。  松陰は、象山の弟子である。その松陰の妹婿であり、かつ門下生だという玄瑞に、象山は特別の親しみをみせ、懇切に応対した。聞多は、そのことも知りたいのだ。 「攘夷をなすには、かの国に航しその国情を究めざるべからずと、象山はいいました」 「やはりそうか」  井上聞多は、うなずく。攘夷を呼号する玄瑞に、象山は懇悃《こんこん》と彼我の戦力、つまりは文明の差を諭したつもりだったのだろう。しかし、玄瑞には、それが松陰の下田踏海の行為を正当化するものであっても、自身の行動を制禦してくれることばにはならなかったのである。  玄瑞は、あくまでも攘夷の初志をつらぬこうとしている。だが、その玄瑞の口から語られる象山の意見を聴いた聞多は、外国に行ってみようと急に発意したのだ。  公使館焼き打ちという攘夷行動を共にした玄瑞と聞多は、ここから正反対の方向に歩み出すのである。聞多はただちに海外渡航の道をつけるべく動き、玄瑞は攘夷期日の確定をめざして朝廷に働きかけ、幕府を衝きあげる。聞多が伊藤俊輔ら他の四人と、ひそかに横浜港を発ちロンドンにむかった同じ日に、玄瑞は関門海峡に浮かぶ艦上で、攘夷の硝煙を嗅《か》いでいた。それは玄瑞と聞多だけではない。公使館焼き打ちの一点で交わった長州の十三人の若者は、そこから各自の信ずる方向を選んで生死を分ける道を突っ走った。  文久三年一月二十七日、玄瑞は京都東山の旅亭|翠紅館《すいこうかん》に志士たちと会合して、攘夷期限の設定を話しあい、和宮降嫁を推進した公卿岩倉具視の暗殺を提唱した。 「久坂君、それはやめたがよい」  武市半平太が、すかさず異論をとなえた。攘夷期限の運動はともかく、暗殺などはいけないと武市はいうのだが、どうやら自分たちは指導者だから、手を血で汚すようなことは避けたいといった趣旨らしい。  武市は岡田以蔵という子飼いの刺客を使って、暗殺を実行していることは玄瑞も知っている。 (背後で手を拱《こまね》いて、何が志士だ)  玄瑞は、ひややかに武市半平太を見たが、もはや何もいわなかった。  二月十一日、寺島忠三郎と共に、関白鷹司邸に行く。このところ忠三郎と一緒にいることが多い。その道々、玄瑞は忠三郎にいった。 「鷹司卿は、まだ話のわかる公家だが、これまで味方だと思うちょった中川宮はどうも曖昧《あいまい》なところがあって、信用できないところがある。三条卿はじめ七人の公家を除けば、朝廷内はおよそ心を許せない人々ばかりだ。学習院に出てみて、それがようわかった。このさい岩倉一人、血祭りにあげてみせるのも、よい薬になるのではないか」 「いや、岩倉卿は、その後御所出入りを差しとめられちょるそうではありませんか。問題にせんことです。武市さんとは別の意味で、僕は反対ですよ」 「そうか」  玄瑞は、忠三郎のいうことに、このごろひどく従順になっている。井筒タツと再会したあの日から、玄瑞は忠三郎に対する自分の親愛感がいちだんと増しているのを覚えていた。中谷正亮が、前年の閏八月、江戸で病死していらい、玄瑞の身近にいて、つねに動きを支えてくれる友人は、忠三郎だけになった。  正亮が死んだのは、玄瑞が長井雅楽の暗殺に失敗して、藩に自訴し京都の法雲寺に謹慎中のことである。自刃した松浦松洞につづく松下村塾党の欠落である。  その一カ月前、福原乙之進が、江戸で幕兵にとりかこまれ闘死している。乙之進は、長井雅楽の暗殺に出動する玄瑞に随行し、公使館焼き打ちにも参加した。飄々《ひようひよう》とした感じの若者だったかれは、皆が去ったあとも一人江戸にとどまり、いわばその図太い性格がわざわいして横死した。  一人ずつ欠けていく。こんどはだれの番だ、そんな思いが、ふと胸をかすめることもあった。  文久二年の夏ごろから、京都では暗殺事件が頻発し、人々をふるえあがらせた。尊攘派浪士による「天誅《てんちゆう》」と称する殺戮《さつりく》行為である。安政大獄の反動ともいえる血の制裁であった。  まず七月には井伊直弼の腹心長野主膳の手先となって働いた九条家の家士島田左近が木屋町で斬られた。梅田雲浜の逮捕も、この島田左近の配下にいた目明し文吉の暗躍によるもので、その文吉も一カ月後に三条河原で殺された。  玄瑞が東山の翠紅館で志士たちと会合した文久三年一月二十七日のあくる日には、賀川肇が下立売の自邸で斬られている。賀川は佐幕派公卿千種有文の雑掌だったが、その殺され方もむごいものである。首と両腕をバラバラに切りはなし、それぞれに脅迫文を添えて、腕を岩倉家と千種家に、首はそのころ入洛した一橋慶喜の旅館東本願寺に送りつけた。  文久二年から三年にかけて、二十件近い「天誅」が京都市中で発生している。佐幕的な動きをみせていた公卿たちは、ひどい恐怖を覚え一斉に後退したので、朝廷内は三条実美ら急進派の公卿が勢いを盛りかえした。  尊攘派に制圧されたかたちの京都を見て、江戸から入洛していた島津久光はさっさと薩摩へ引き揚げた。つづいて松平慶永も政事総裁職を投げ出して越前に帰国し、山内容堂、伊達宗城らも四国へ帰って行く。  公武合体派の大名に代って、長州藩の毛利敬親父子が入洛した。航海遠略策を放棄した長州藩は、今や尊王攘夷運動の主役として、時代の尖端を走るかに見える一時期を迎えるのである。  そんな空気のなかで、薩摩に近い近衛|忠煕《ただひろ》が関白の職を退き、新しく鷹司|輔煕《すけひろ》が後任に就いた。鷹司は、一応尊攘派の意を汲《く》み、朝廷工作を運んだので、玄瑞はしばしば仙洞御所に近い鷹司邸をおとずれた。  このころ鷹司関白を通じて玄瑞が推進しようとしたのは、幕府による攘夷期限の決定である。  諸外国と条約を結んだ幕府としては、攘夷などに同意するわけにはいかない立場にあるが、佐幕派公卿がひっこみ尊攘派に独占された朝廷勢力からの圧力に困惑した。強い矛盾を覚えながらも、朝廷が要求する攘夷期限に答えなければならない立場に追い込まれつつあった。  朝廷の求めにやむなく応じて、将軍家茂の上洛が近いとみられる文久三年二月十六日、玄瑞は、嵯峨の天竜寺に志士の主だった顔ぶれを召集した。  宮部鼎蔵(肥後)・大島友之允(対馬)・轟武兵衛(肥後)・平井牧二郎(土佐)はじめ京都で活躍中の志士十数人を集めたのである。すでにそれほどの力が玄瑞にあったということにもなるが、かれは長州藩の世子毛利定広の名を使った。天竜寺にいた定広を利用したのだ。  天竜寺は毛利藩主が上洛するときの常宿になっていた寺である。このときは藩主の敬親が京都藩邸におり、定広は天竜寺を宿所に滞留していた。定広には家老の益田|親施《ちかのぶ》が随従している。  長州藩世子から折入って相談があるというので天竜寺にやってきた宮部鼎蔵らは、どうやらこの会合の主謀者が玄瑞であることに、すぐに気づいた。たしかに定広や家老の益田は列席しているが、終始話を進めたのは玄瑞である。 (熊本で初めて会ったときのあの小僧が、かくも成長したか)  鼎蔵は、その年の一月、翠紅館の集まりで玄瑞を見たときもそう思った。そのときは岩倉具視を斬るといきまき、武市半平太に反対されて、憤然とした様子の玄瑞に苦笑したのを憶えている。 (松陰の弟子らしい)  などとも思った。だが、天竜寺のこの会議で玄瑞が提案したことは、鼎蔵だけでなく、出席の志士たちを一様にうなずかせる内容である。しかも奇抜といえばいえるほどの思いつきだった。 「天皇の賀茂神社、石清水八幡宮への行幸に、将軍家茂を随行させる」というもので、行幸の目的は攘夷祈願とする。天皇と共に攘夷を誓った以上、幕府はそれを実行せざるを得なくなるだろうというのだった。 「将軍を随行させるとは面白い」  と、玄瑞とは親しい肥後の轟武兵衛が、真っ先に賛成した。 「行幸は、絶えてないことであるが……」  宮部鼎蔵が、長老らしく慎重に構える。 「朝廷には、三条卿をはじめわれらと志を同じゅうする方々がおられます。神社への行幸などわけもないことでしょう」 「ところで、久坂君の最後の目的は何かね」  かさねて、鼎蔵がたずねた。 「まず攘夷の実行であります。これは長州藩が下関海峡で先鞭《せんべん》をつけます」 「異国を掃攘する、それだけですか」 「いや、むろんやがては幕府を討たなければなりません。賀茂社への攘夷祈願は、そのひとつの布石。さらに石清水八幡への行幸、これらの親征祈願を積み上げていくうちに、討幕の機運も盛り上がっていくちゅうものでありましょう」  行幸は、尊攘派の示威行動である。幕府はそれによって攘夷期限の奏上に追い込まれるだろうし、草莽《そうもう》の志士たちは、行幸の鳳輦《ほうれん》を仰いで、奮起するにちがいない。だが、攘夷の最終目的が討幕だといいながら、玄瑞にとって当面なすべきことと決めているのは、とにもかくにも攘夷の実行だった。即今攘夷《そつこんじようい》である。すべては、それから始まるのだと思っている。  下関海峡での攘夷実行が、いったいどのような結果をもたらすかについては、玄瑞だけでなく多くの志士たちが、それほどの危機感を抱いていなかったのもたしかである。もっとも、即今攘夷を叫ぶかれらの行動に、危険を感じている者がいなかったわけではない。宮部鼎蔵もそうだったし、長州藩内でも桂小五郎や高杉晋作がそうだった。  この当時、学習院御用掛を命じられて江戸から京都にやってきた晋作が、敢《あ》えて玄瑞に反対しなかったのは、それに抗すべきもない情勢を見てとったからであろう。何よりも攘夷は、天皇の意志だという名分が、かれらにある。いずれにしても今や京都は、激論をかざす尊攘志士たちの全盛時代であり、いつの間にか玄瑞は、その先頭を走っているのだった。  玄瑞の外国排撃論は、例の『廻瀾条議』のなかに述べられているが、単に異国を毛嫌いするというだけでなく、具体的な理由もいくつか挙げてはいる。  不平等な通商条約を日本人に押しつけ、横浜港を中心に貿易を活発におこなっているのはイギリスだった。主な輸出品である生糸の国内価格が暴騰しただけでなく、米、塩など生活必需品までがおどろくほど値上がりして、庶民を苦しめている現状を、玄瑞は指摘している。 「大体、輸出するだけの余裕もないのに、物資を外国に売り渡そうとする幕府もけしからんが、物欲にかられて日本に入りこんでくる外国が許せない」  かれにとっては、しかしそんな理屈よりも、今はただ一途に「攘夷」なのであった。朝廷を動かして幕府に攘夷期限の確定を迫る玄瑞は、かつては米使を斬るといきまき、松陰にたしなめられたころとまるで変らない若者であった。兄玄機への思慕と共に、玄瑞を衝き動かしている宿命的ともいうべき異国への憎悪は、尊攘運動の昂揚期を迎えて極点にまで達し、燃えさかっていた。  そのようにして攘夷親征の行幸を計画するところまできているのだが、大規模に攘夷勢力を結集し、それを討幕にみちびく決定的な方法を、玄瑞はつかんでいない。それは久留米の志士真木和泉が、再び登場するまで待たなければならなかった。真木は大和行幸という大がかりな陰謀をめぐらして尊攘派を引き入れ、失敗すると武力をふるって破滅への道をまっしぐらに進むのである。  玄瑞もそれに巻き込まれていくのだ。性急な尊攘運動は、ひとつの頂点にたどりつき、そしてもろくも転落するのだった。  玄瑞らが天竜寺で賀茂社行幸などを話しあったこの時期、真木和泉は、寺田屋騒動いらい身柄を久留米藩に引き渡され、自由を奪われていた。間もなく勤王公卿中山忠光を擁して、真木和泉を久留米から救出したのは玄瑞であった。結果的には、この過激で一徹な行動家が、長州の武断派来島又兵衛と結びつくことによって、玄瑞の死期は早まるのだが……。  京の桜が一斉に花を開くころの文久三年三月四日、将軍徳川家茂が入洛し、二条城に入った。  玄瑞が発案した賀茂神社行幸が実現したのは十一日である。さらに一カ月後の四月十一日には石清水八幡宮への行幸があり、このときも将軍が随行して、異例の攘夷祈願となった。  十日以内に幕府が攘夷期限を奏上することが確実となり、長州藩の動きはにわかに慌しさを増してきた。  四月十五日、世子定広は、玄瑞に帰国を命じた。帰藩している藩主に、京の事情を報告するためである。 「使命を果したあとは、馬関(下関)に行き攘夷実行の先鋒《せんぽう》たることをお許し下さいましょうか」  と、玄瑞はいった。 「存分にやるがよかろう」  定広はそれを許した上に、京都での玄瑞の活躍を賞して銀四枚を与えた。  帰国する玄瑞に従ったのは、入江九一(杉蔵)・山県小輔・滝弥太郎・山田市之允・冷泉雅次郎・赤根武人・野村和作・岡仙吉・吉田栄太郎・天野清三郎ら松下村塾党を中心に在京の長州人や諸藩の浪士をあわせ六十人近い人々だった。  帰国すると萩から山口に居館を移していた藩主敬親に報告を済ませ、玄瑞が壮士をひきいて下関へ着いたのは二十六日だった。すでに二十一日には、幕府の攘夷期限奏上がおわっている。  ──五月十日。  玄瑞が待ちに待った攘夷期日である。その日を期して、日本の沿岸に近づく外国の艦船を打ち払えという勅命であり、幕府の布令であった。  もっとも幕府の攘夷令には条件がついている。「外国が攻撃してくれば打ち払え」というのである。逆にいえば、攻撃を受けない限り、みだりに戦いをしかけてはならぬという命令でもある。攻撃されれば防衛するのが当然で、わざわざ攘夷の期日を示しながら、そんな当り前のことを命ずるところに幕府のまやかしがある。 「かまうものか、五月十日になれば、片っぱしから黒船を撃つ」  玄瑞にひきいられた尊攘志士たちは、興奮しながらその日を待っている。  関門海峡は、瀬戸内海と九州西岸の各港、また東シナ海とをつなぐ運河だから、三日にあげず外国の艦船が通航していた。それを撃とうというのだった。  萩からも藩兵がぞくぞく下関へ集結をはじめ、総勢約六百の武装兵が、寺院や芝居小屋に分宿し、ものものしい空気がみなぎった。  玄瑞に従う壮士は、藩の正規兵には編入されず「敵情探索御用」という藩命をもらって細江町の光明寺に屯営を構えた。萩城下で静かに暮らしていた藩兵たちと違い、緊迫した京都で志士として活動してきた光明寺の連中は、鼻息が荒い。外国から輸入した蒸気船の船首に付いていた飾像をどこからか探し出してきて、寺の門前においている。外人の姿をしたそれを、出入りするとき足蹴にして、戦意をかきたてようという趣向である。  ──光明寺党。  藩兵たちや下関の町の人々は、かれらをそう呼んで、何となく敬遠するような視線を送っている。  そのうち中山忠光が、京都を脱して長州にきていると知って、玄瑞はこの公卿を光明寺党の総裁に据えることを考えついた。忠光は、しばらく萩にいたが、攘夷戦が始まるという話を聞きつけ、下関の廻船問屋白石正一郎邸に滞在し、壇ノ浦などの砲台築造工事にも姿をあらわした。玄瑞の申し入れを忠光が承知したので、光明寺党の意気はいちだんとあがる。それで五月を迎えた。長州藩の運命を決めた文久三年五月十日が目前にせまっている。  そのころ玄瑞のもとに、ある朗報が届いていた。前月の二十二日、つまり攘夷期限が示されたあくる日に、玄瑞は藩士にとりたてられたのである。しかも食禄二十五石の身で、大組士に加えるという。  大組士は、旗本にあたる身分で、普通五十石以上の家格の侍である。二十五石の大組士というのは例のないことだった。しかし、とにかく玄瑞は、武士になった。 「早々束髪候様仰せ付けられ候事」  と辞令の末尾に付記してある。髷《まげ》を結えというのだ。十五歳で藩医を継いだときから、二十四歳の今日まで通してきた坊主頭とこれで訣別することになる。 「砲台軍監を命ず」  士分となった玄瑞に、さっそくそんな命令が届いた。一人光明寺を出て、その役に付くこともできないから、とまどっていると、馬関総奉行の手元役をつとめている来島又兵衛が、いずれ戦争になれば、光明寺党をひきいて壇ノ浦か前田の砲台に付けばよかろうといってくれた。玄瑞が特別砲術を心得ているわけでもないから、あてにしていない様子だった。 「まあ、浪士のお守でもしておれ」  と、又兵衛が磊落《らいらく》に笑う。  五月十日まであと三日という日、長雨がやんで、午後から陽がさしはじめた。このころ梅雨である。じめじめした降ったり止んだりの毎日だった。 「台場を見に行くぞ」  玄瑞が出かけるので、十人ばかり光明寺党の隊士が、あとにつづいた。手に手に槍を持っている。武器といってもそんなものだ。藩兵はゲベール銃をあてがわれているが、光明寺党には割当てがない。まさか槍をもって黒船と戦うわけにもいくまいが、外国兵が上陸してくれば、それも役に立つと本気で考えている。いずれにしても何か武器を手にしないと戦場に立った気持がしないのだろう。  玄瑞を先頭に、槍をかついだ光明寺党の一団が町を行くと、藩兵までが急いで道をあける。 「敵からもこのくらい怖れられるとよいのだが……」  と、玄瑞は笑った。  海峡を臨む砲台は、彦島から長府にいたる海岸の各所にあるが、主なものは壇ノ浦と前田である。それもまだ築造中だった。ペリー来航の当時、江戸で鋳造した青銅砲を持ち帰り、据えつけているのだが、いささか泥縄の感がないでもない。  海岸にせり出した丘陵を削ってできた台場に立つと、関門海峡が美しく見渡せた。青みをたたえた潮が東へ流れていく。寿永の昔、源平の軍船が死闘を展開したのもこの海だった。あれから七百年の後、こんどは異国の兵と日本人が血を流すことになるのである。身ぶるいする思いで、海をながめていると、長州藩の軍艦三隻が、海峡のなかほどに姿をあらわし、ゆっくり円をえがきはじめた。戦いを前に、操船の訓練に励んでいるらしい。  庚申丸・壬戌丸・癸亥丸で、いずれも木造機帆船だ。外国から買い入れた商船を軍艦に改造したものだから、甲板に三、四門の大砲を積んでいるだけである。外国の軍艦が、新式のアームストロング砲数十門を搭載し、さらに何百人かの陸戦隊員を収容していることを、まだ日本人は知らない。  山を降りるとき、玄瑞は遅咲きの八重桜の花を見た。微風に撫でられて、淡紅色の花弁を雪のように散らしている。そのむこうに、群青の海峡が横たわる絵のような風景だった。玄瑞は、ふと京都にいる井筒タツのことを思った。     きみのため、剣とりはき     ますらをが、かへりみもせず     うみをなす、長門の国ゆ     いや遠に、海原わたり     いや高に、山路うちこし     ………     苅薦《かりごも》の、思ひみだれて     朝な夜な、せんすべしらず     梓弓《あずさゆみ》、はるさり来れば、     しろたへの、ゆきもけぬべし     はなぐはし、さくらもさかむ     いざやこら、みやこのはるを     ゆきてや見まし  燃え尽きる日を一年後にひかえた玄瑞が詠む、万葉調の長歌である。 [#改ページ]  第四章 砲煙に佇つ   黒船海峡  文久三年五月十日の夕刻、雨に煙る対岸九州の田野浦沖に、一隻の黒船が錨《いかり》をおろした。  壇ノ浦砲台にいた見張りの兵がそれを発見し、警戒の空砲を一発打った。旧式の青銅砲だが、音だけはすさまじく、ドロドロと海峡にこだまする。砲声は、光明寺にいた玄瑞らの耳にも伝わった。  攘夷期限として布告されたこの日、罠《わな》にかかるように、やってきたのは、アメリカの商船ペンブローク号である。  玄瑞を先頭に、光明寺党はおっ取り刀で飛び出した。海峡に突き出した小山の上にある亀山八幡宮境内の砲台に駆けつけ、対岸を望むと、田野浦沖に黒い船影がたしかに浮かんでいる。 「撃たぬのか」  と、玄瑞は、そこにいる司令らしい侍にたずねた、というより難詰する調子でいった。 「ここからあの船まで弾丸《たま》が届くものか、それに奉行の命令がない」 「早くせんと逃げられるのにな」  つぶやきながら、沖を見ていると、すでに薄暮におおわれようとする海面を、小舟が一艘、下関側の海岸をめざして漕ぎ寄ってくるところだった。  やがて黒船の模様が伝えられてくる。小舟でその外国船のそばまで行ったのは長府藩兵である。舟から声をかけると、意外にも日本人が舷側から顔を出したという。安蔵という長崎の浪人者で、通訳がわりに便乗しているらしい。かれの説明によると、船長のクーパーは神奈川奉行浅野伊賀守から長崎奉行あての書状を持っている。七日に横浜を出帆し、瀬戸内海から関門海峡を抜けて長崎へ寄り、上海へ行く途中だった。ちょうど海峡の潮が逆に流れているので、潮待ちしているところだ。そのまま錨をおろして夜を越すつもりらしい。 「攘夷の血祭りだ」  と、光明寺党は気勢をあげるが、藩兵の指揮にあたっている総奉行の毛利能登は、一向に攻撃命令を出さない。異船とはいえ、公儀の書状をたずさえた船を襲うのは不法ではないかとも考え、判断に迷っているのだ。もしかしたら国の運命を左右するかもしれない攘夷の第一弾を発射するには、さすがに決断が重すぎたのだろう。毛利能登は、このとき六十七歳だった。  能登が攻撃命令をしぶったのは単に高齢であっただけではないだろう。かれは萩付近の防禦総奉行、浦賀御受場総奉行といった海防の役を歴任してきた。ペリーの艦隊も見てきている。その間、能登はおのずから学びとるところがあった。それは外国にくらべて、自分たちの武力がいかに劣悪なものであるかという認識だ。  外国と戦争をはじめることによってもたらされる悲惨な報酬を怖れるのも、冷静な人々にとっては当然の判断であった。しかし、玄瑞をはじめ激発する攘夷の志士たちにとって、分別くさい戦力の比較など、このさい問題ではなかった。将来の結果を予想するよりも、今を行動することがすべてに優先した。  欧米列国や幕府の強大な権力に立ちむかうことは、むろん冷静な行為であるはずがない。狂気を伴う愚挙であった。この攘夷戦にしろ、翌年の京都出兵、禁門の変など、それら一連の長州藩の動きは、まさしく愚挙にちがいなかったが、以後の情況を展開させる重要な契機として働いた。  当時、玄瑞らの猛々しい実践活動は「狂挙」と呼ばれたし、またかれらも敢えてそう唱えることを憚《はばか》らなかった。狂挙の暴発によって、みずからを時代の転換に賭けようとする玄瑞の決意は、「人は狂頑とそしり、郷党おほくわれを容れず」と自分の画像に賛を書き遺して死んでいった吉田松陰の立場に通じている。  狂挙が、やがて大目標に達するための突破口に転化したとみとめられたとき、これを狂頑と嘲《あざけ》る者はいなくなる。しかし、この激徒たちは、自身に対する後の評価が改まることを期待するような言辞は遺さなかったのである。そして未来への明確な予見を抱いていたともいいきれないだろう。その行為は粗暴な狂気と共にあったが、それをある方向に衝き動かしていたのは、見えざる巨大な時代の意志だったとしかいいようがない。  文久三年五月十日このとき、歴史は、熱狂的なこの若者の一群によって、大きな屈折点を迎えようとしていた。  馬関総奉行毛利能登の指揮下にあっては、ペンブローク号を見逃すことになると、玄瑞は考えた。 「庚申丸に行くぞ」  玄瑞は、亀山砲台から近い南部《なべ》町の船付場に接岸している長州藩の軍艦庚申丸に乗り込むつもりである。その艦長松島剛蔵とは親しい仲だ。どうせ砲台から弾丸が届かないとすれば、軍艦で接近して砲撃を加えようという肚《はら》である。  入江九一、野村和作の兄弟や赤根武人をはじめとする光明寺党の重立った者十人ばかりが、玄瑞につづいた。 「やるのか、アメリカ船を」  と、艦長の剛蔵もはじめのうちは、さすがに躊躇《ちゆうちよ》する様子をみせた。総奉行からの攻撃命令が出ないからである。 「能登は戦意がない。このままでは敵を逸してしまいそうです。きょうは五月十日、だれに遠慮することがありましょうや」 「そうじゃ、そうじゃ」  光明寺党の荒くれたちが、一斉に声をあげる。その気勢に押されてついに剛蔵も決意した。 「アメリカ船は、あした明るくなってから海峡を通り抜けるつもりであろう。そこで、われわれは、夜明け前に、かれらの眠りをさましてやろう」  攻撃については、剛蔵の作戦に従うしかない。はやり立つ気持を押さえて、玄瑞たちは、庚申丸にとどまり、出撃のときを待つことにする。  翌未明、軍艦は岸を離れた。  ペンブローク号は、煙突からしきりに火の粉を吐いている。払暁出航のつもりで、汽罐を温めているのだろう。それが恰好の目標となった。 「撃て」  剛蔵の命令で、庚申丸に積んだ二十四ポンド短加農砲は、轟然《ごうぜん》第一発をぶっ放した。それは相手の船を越えて海へ落ちた。つづいて第二、第三発は、距離の測定が近すぎて失敗。やはり闇夜の砲撃はうまくいかないのである。  何発目かが、やっと船尾に命中した。爆発力が弱いので、それほどの損害を与えたことにはならないが、舷側に並んで、目を凝らしている光明寺党の面々は、喊声《かんせい》をあげて喜んだ。  ペンブローク号が、ようやく動きだした。突然の攻撃にめんくらったらしく、慌てて錨をあげると前日やってきた豊後|灘《なだ》に針路をむけて逃げて行く。  戦いが始まったのを知った僚艦の癸亥《きがい》丸もやってきたので、一緒にペンブローク号を追ったが、遠く引き離されてしまった。  両艦がそろって壇ノ浦の沖まで帰ってきたのは、東の空が白々と明けそめたころである。庚申丸艦上から、玄瑞は上気した顔を陸地にむけた。砲台の藩兵が幟《のぼり》を振り、喜びを伝えようとしている。昂揚した戦勝気分が、陸に海にみなぎった。  この日につづいて、二十三日にはフランスの軍艦キャンシャン号が通りかかるのをめがけて、前田砲台から砲撃を加え、庚申丸からも攻撃した。キャンシャンは何発かを撃ちかえしたが、早々に退去した。  さらに二十六日、オランダ艦メデューサ号にも砲撃がおこなわれた。オランダは古くから日本に出入りしている国だから、自分のところだけは敵対されまいと安心していたので、その驚きはひどかったようだ。これも申訳程度に応戦して逃げて行った。  五月中に実行された三度にわたる外艦打ち払いは、まずまずという戦果をあげた。早速伝令が藩主のもとに走り、戦況を注進する。  毛利能登は優柔不断で指揮者の任にあらずと謹慎を命じられ、その子の宣次郎が総奉行となった。  藩主敬親は、攘夷戦の結果を、在京の名代吉川経幹(岩国藩主)を通じて朝廷に報告する。朝廷よりは、その功を賞す褒勅《ほうちよく》を賜った。長州藩攘夷軍の意気ますます盛んとなるのだが、攘夷がこんなことで終るはずはない。いずれ外国側の反撃があるのを、覚悟しなければならなかった。  黒船を砲撃したとしても、大して損傷を与えたわけではない。旧式の青銅砲で、航行中の船を撃つというのは至難の業に近い。命中率が悪く、射程も短いからである。  この当時、下関の海岸砲台に据えられているのは、二十四ポンド砲か十八ポンド砲が主力だが、攻撃し得る標的の位置は、千二百メートルまでを一応の基準としている。それも確実な有効射程とはいえないのだ。前田砲台から海峡を越えて対岸門司の田野浦までは千五百メートルある。壇ノ浦砲台からだと広石まで二千メートルは離れている。海峡の中央水道を通っていた船が、砲撃に気づいて針路を急ぎ門司寄りに変えれば、まず射程外に出てしまうのである。  だから海峡の制海権を確保するためには、門司側にも砲台を築く必要がある。ところが門司は小倉藩(小笠原藩)領であり、ここは譜代大名だから、長州藩の攘夷行動に同調できない立場にある。  門司に砲台を築きたいという長州の申し入れを、小倉藩が拒絶している限り、海峡での攘夷戦は、いつも不充分に終ることになる。それどころか、報復のため外国の軍艦が攻撃してくると、門司側の無防備は、下関に重大な脅威を及ぼすことになろう。  オランダ艦を砲撃した翌日の五月二十七日、長州藩は使者として三戸《さんのへ》詮蔵を京都へ急派した。これに玄瑞も同行を命じられる。使者の任務は、詳しい攘夷の模様を朝廷に報告することと、京都で二十日に発生した事件の善後策を打ち合せることであった。  二十日の事件とは、姉小路公知の暗殺である。急進派の公卿として活躍していた姉小路の横死は、長州藩にとってもひとつの痛手だった。薩摩の田中新兵衛による凶行とみられるが、かれは取り調べ中いきなり自刃したので、真相はわからないままである。  玄瑞は、さらに別の使命を帯びている。攘夷に対する小倉藩の傍観的態度を朝廷に訴え、長州藩に協力するような措置を求めることだ。  六月五日、朝廷は、小倉藩にそのことを諭示し、列藩にも外艦掃攘の趣旨が伝えられた。そのような一片の諭示で、各藩が攘夷実行に腰を上げるとも思えなかったが、そればかりか、玄瑞が京都に入って精力的に動きまわっているころ、下関で大変事がおこっていたのである。  薄々は予感した通り、砲撃に対する報復が始まったのは、六月一日だった。まずアメリカの軍艦ワイオミング号がその日の未明、海峡に侵入してきた。海戦は一時間にわたり、長州藩の軍艦三隻は大破、沈没、戦死者八人を出した。  さらに六月五日、こんどはフランスのセミラミス、タンクレードの二艦が襲ってきた。このときは、前田海岸に陸戦隊が上陸、砲台を占領し、村を焼き払って引き揚げて行った。  一時的にもせよ、藩領の一部を占領されたのである。新式の兵器を持ったフランス軍の前に、長州兵はもろくも惨敗した。  敗報は山口にいる藩主に告げられ、やがて京都にも届いた。五月の掃攘で朝廷から褒勅を受け、戦勝気分に酔っていた長州藩は、たちまち危機にさらされる。近く諸外国が連合し大挙報復の攻撃をかけてくるのではないかという風説が伝わってきたし、勝手な攘夷行動を怒る幕府の詰責使も江戸を発った。  玄瑞もまた急遽《きゆうきよ》帰国の途についた。六月十二日に山口着、藩主か世子のいずれかが上洛しなければ、姉小路卿死後の長州陣営は危険な立場に追いやられるという京の情勢を伝えた。  十五日、下関に入る。  アメリカ船に攘夷の第一弾を放ちわきかえった下関は一変して、怯《おび》えながら防禦準備に忙しい町となっている。  光明寺党は、解散していた。重立った者は、総裁中山忠光に従って上洛したのだという。赤根武人らわずかな幹部にひきいられた二、三人の者は、すでに高杉晋作の指揮下に入っていた。  ──奇兵隊。  初めて聞く名である。  玄瑞らが、下関で攘夷を叫び、海峡を通航する米・仏・蘭の艦船を砲撃している五月の中旬ごろ、高杉晋作は萩にいた。かれは十年間の暇《いとま》を許され、下関で戦いが始まったと聞いても、別に動こうとはしなかった。玄瑞らの行為を、ひややかに見ていたのだ。  六月に入ってからの報復攻撃で藩兵が惨敗を喫したことを知り困惑した藩主や重臣たちは、晋作を山口に呼び出し、対策をたてるように命じた。  晋作が下関に出たのは、フランス艦がさんざん荒しまわって引き揚げた翌日の六月六日である。  廻船問屋白石正一郎邸に本陣をおいた有志隊の結成に晋作はとりかかる。武士、農民に拘《かかわ》らず「志有ル者」を募ったのである。晋作はこの民兵組織を奇兵隊と名付け、みずからその総督に坐った。果敢な決断と行動力であった。  光明寺党の残留者が、奇兵隊の中核となった。奇兵隊は、まさしく晋作の創意によって誕生したものだが、その原形は、玄瑞が結成した光明寺党だったとみることもできる。  玄瑞にしても晋作にしても、吉田松陰の草莽崛起《そうもうくつき》論に、発想の根幹をおいている点が共通している。  竹崎の白石邸に玄瑞が行くと、晋作は赤根武人ら幹部との会議を終って、しきりに談笑しているところだった。 「火つけ役があらわれたな」  皮肉にもとれることを、晋作がいう。 「火はこれからだ」  と玄瑞が切り返す。蓄髪を命じられ、頭には、ようやく黒いものが伸びかけている。晋作は京都で剃髪したが、そのまま伸ばしているので、断髪のかたちだ。 「奇妙な頭だのう」  互いにゆびさして笑ったが、後日、玄瑞は武士らしく髷を結い、晋作は洋風ともいえる断髪で押し通した。 「早速だが、門司に台場を築くことを、小倉藩はまだ反対しちょるのかね」 「明日、赤根君が談判に行くが、どうもその気はないようだな」 「けしからん、京都へ帰ってもう一度朝廷から命令を出してもらおう」 「また行くのか」 「すぐにでも発ちたい」 「まあ下関のことは、奇兵隊に任せておけ。防長二州焦土と化しても戦い抜くつもりだ」 「高杉さんがここにいてくれるなら、安心して行ける。京都も今が正念場ですから……」  玄瑞は、早々と腰を浮かした。  晋作がいうように、火付け役としては、このまま下関にとどまって防備にあたるべきかもしれないと玄瑞は思う。しかし、それ以上に京の情勢が気がかりだった。  この年三月には、京都守護職松平|容保《かたもり》(会津藩主)が浪士差配となって、江戸からやってきた浪士の一団を配下に預り、市中取り締まりに乗り出した。新撰組の発足である。また姉小路公知の暗殺が、推定されるように薩摩の陰謀だとすれば、容易ならぬ事態が徐々に京都を覆いつつあると考えなければならない。  玄瑞は、白石邸に晋作を訪ねたその日、下関から大坂に向う便船に乗って長州を離れた。  藩を危険にさらしながら、玄瑞は松門の僚友高杉晋作の一歩前を進んでいる。晋作は奔放に見えながら、冒険者たちの後始末といった役割を着実に果していたのだ。晋作の後ろには、さらに慎重派として桂小五郎がいる。先駆する者と、それに一歩遅れて走る者と、後方にあって冷静に前途を見極めようとする者とがいる。あるいはそのころ藩に仕官していた村田蔵六のように、超然として動かず新しい軍師としての出番を待っている者もいた。  この時期、長州藩ではそれぞれの機能を分担した人材の群れが、いわば縦一列に並んで、同方向に歩みを進めていたといってよいだろう。  そんな陣形の先頭に、もう一人の尖鋭的な人物が躍り出ることによって、急進の速度はいちだんと加わった。  真木和泉である。   降りしく雨の  大坂にむかう船の中で、妻の文に手紙を書いた。  文から玄瑞にあてた手紙は、江戸藩邸や京都藩邸に、昨年末からあわせて十通ばかりもきている。夫の居所が定まらず、あまり返事もないので、どれかが届くだろうというつもりらしい。井筒タツとのことがあって、何か後ろめたい気持がつきまとい、文への手紙も多く出したいと思いながら、ほとんどその暇がない。心の余裕がなかったともいえる。  今、凪《なぎ》のなかを行く船中で、ようやく落ちついて筆を執ることができた。 「此の内以来、度々のおんふみ、たしかにうけとりまゐらせ候。一々御返じもいたさず、さぞさぞ御あんじの事と存じまゐらせ候。……この度は萩へもかへる事には相成らず、いかにも情なきものとおもひ玉はるべく候へ共、おん国の御大事には引替へられ申さず候……」  当り前のことを書いているのだが、どうも言訳がましいことばを熱心に並べているように思えてならないのだった。  山口から下関へ出るとき、途中半日でも時間をさいて、萩へ立ち寄るべきだったかなと考えたりもする。 (萩にいるのが、もしタツであったら、そうしたのではないか)  ふと呵責《かしやく》の念にとらわれながら玄瑞は筆を休めた。そしてやはりタツの面影を思い泛《うか》べずにはおれなかった。 (あの人にも、当分は会えまい)  胸の底に、かすかに疼《うず》くような痛みを感じるのも初めてのことである。 (これが恋か)  真夏の瀬戸内海を渡る微風に乗って滑るように行く船のなかで、玄瑞は、いっしゅん憂いをこめた若者の顔になる。──  六月二十一日、酷暑の京都に入る。  たちまち昂揚した長州の志士久坂玄瑞であった。もはや久坂文も井筒タツも割り込む隙《すき》のない緊迫した日々が、再びかれを待っている。  京都屋敷に着くと、玄瑞はすぐに藩吏中村九郎らと協議し、書を三条実美のもとに差し出して、長州藩の攘夷を応援するよう列藩に厳達されたいと要求した。さらに諸卿の間をまわって、小倉藩の非をならした。  朝廷から攘夷監察使を長州に派遣するというところまでこぎつけたが、このころから微妙な空気がただよいはじめたことを、玄瑞は感づいていた。下関における攘夷戦の敗北が、列藩を怯えさせ、応援どころか、ますますそのことから遠ざけていることはたしかである。長州藩の無謀な行為をそしる声もあがっている。  そんなころ真木和泉が、長州を発って京都へやってきた。真木は、久留米藩に拘禁されていたのを救われて長州に身を寄せ、やがて玄瑞を追うように上京したのだ。このとき五十一歳。それこそ「狂頑」ともいうべき硬骨の志士である。 「一策あり」  と、真木は、列藩の傍観をかこつ玄瑞にいった。かれが示した一策とは、大がかりな陰謀である。  ──攘夷親征。  ひとことでいえばそうだが、かつて玄瑞らが実現させた賀茂、石清水への行幸を、こんどは大和へ進め、さらに伊勢神宮での祈願ののち、勅使を幕府につかわして攘夷を命じようというのであった。「勅命に曰く。尾張以東は汝が指揮せよ。以西は朕みずからこれに当ると。幕府は俄《にわか》に命を奉じ得ないから、そこで違勅の罪を鳴らして鳳輦《ほうれん》を箱根に進めれば、幕府も来り降る外はない」  つまりは攘夷親征を、討幕にまで高めようというのである。 「将軍を因州藩か備前藩に託し、天皇は北陸を巡幸された上、大坂に都を移し、王政復古の大号令を天下に布告し、大艦を造り、武備を整えて、大いに外国に対しても武威を張るのである」  真木和泉は、それが実現するものと、本気で考えているふうだ。さすがに、玄瑞も首をひねった。  しかし、妄想とも思える真木和泉の計画も、非常手段としては、使えそうな気がする。今は、立ち停っていると窮地に追いやられるばかりだ。 「箱根にむけて進発するのはともかくとして、攘夷に顔をそむけておる諸大名を抱き込むには、大和行幸、攘夷親征の号令も、たしかに一策と思えますが、どうでしょうか」  玄瑞は、ひそかに桂小五郎と相談した。 「この節は、それがよいかもしれない」  小五郎も玄瑞と同じことを考えていたらしい。攘夷の勇み足で孤立した長州藩としては、親征にすがって諸大名を引き込むしかないという判断だろう。そうと決まれば、小五郎の動きも敏捷だった。玄瑞と協力し、三条実美はじめ急進派の公卿を説きつけて、大和行幸は思ったより簡単に実現しそうな気配になった。天竜寺にいた岩国の吉川経幹は、そんな時期ではないと猛反対をとなえたが、これは玄瑞が大演説をふるって、ついに賛同させた。  七月十八日、家老の益田親施、清水清太郎らが鷹司関白邸をたずねて建白書を提出し、小五郎や玄瑞もそれに随行した。関白が承知したので、まず間違いないとの確信を持った。  二十六日には、中川宮(朝彦親王)邸に伺候した。ところが、病気を理由に会えないという。ここでふと不吉な予感が、玄瑞の胸を横切った。中川宮は公武合体派に属しているので、幕府を追いつめようとする攘夷親征に賛成するはずはないのである。  だれも表立って妨害するということはなかったから、いくらかの曲折はあったものの結局八月十三日には、大和行幸の詔勅が発せられた。 「御祈願のため、大和へ行幸、神武天皇の御陵及び春日神社へ御拝あり、御親征の軍議を決し、その上伊勢皇大神宮へ御参拝のため行幸あらせらる」  長州藩邸からはただちに急使を出して、藩主の上洛をうながした。  十五日には学習院で打ち合せがおこなわれる。行幸に出仕する各藩の人選も終って、長州藩が画策した攘夷親征は、着々実現にむかって運ぶかに見えた。 「大願成就の日近しですな」  主謀者ともいうべき真木和泉が、藩邸で出会った玄瑞に話しかけたので、笑って頷《うなず》いていると、顔を寄せてきて、「実は背水の陣の手だてを考えておるが、あんたにだけしらせておく」  とささやくのである。 「背水の陣ですか」 「左様、京都を出た鳳輦は、二度と帰ることはない。大坂遷都じゃ。そのためご発輦のとき、京に火を放ち、焦土にする。このくらいの覚悟なくして討幕はできん」  真木は、あくまでも自分の立てた計画通り、伊勢神宮から関東をめざす気でいるのだった。京都を焼いて出発するなど途方もないことを、やはり本気で考えているらしい。 「真木さん、それは桂さんともよく相談してからにしてください」 「久坂玄瑞ともあろう者が、えらく慌てたものであるな」  うそぶくようにいって、かれは立ち去る。これは桂小五郎から思いとどまるように、説得してもらわなくてはなるまいと思う。 (吉村寅太郎たちは、何をするつもりだろうか)  そのこともいくぶん気になる。寅太郎は、前夜おそく玄瑞をたずねてきた。軍資金を集めているので、なにがしか出してくれという。  大和へ下って兵を募り、行幸を迎えるというのだ。中山忠光を統領として、すぐにも出発するようだった。寺田屋の変のとき挫折を味わった寅太郎が、再起を期すといって姿を消したあと、どこで何をしていたのか玄瑞は知らない。とりあえずといって、三十両を寅太郎に渡した。それが永別となった。  すべてが凶暴な勢いで転がりはじめるのを玄瑞は自分でも意外なほど冷静にみつめていた。先頭を走っていたつもりが、いつの間にか、だれかの背を見ている。その勢いに身をゆだねることを、別に何とも思わない落ち着いた気分だった。  文久三年八月十八日未明、玄瑞は京都藩邸の自室でめざめた。何か物音を遠く聴いたように思う。そばに寝ていた寺島忠三郎も、目をさましている気配だった。 「夢であろうか、砲声がとどろいたのは」  闇のなかで、玄瑞は呟くようにいった。下関で聴いた外艦砲撃の音が、まだ耳に残っているのかもしれない。 「たしかに大砲を撃つ音です」  忠三郎が答えたので、やはり夢ではなかったのだとわかった。砲声は一発だけで、あとは鎮まりかえっている。妙に胸さわぎを覚えたが、まだ起きるには早い。そのまま忠三郎とぼそぼそ話しながら、窓が白むのを待っていると、にわかに藩邸内が騒がしくなった。当時、長州藩が警備を受け持っていた御所の堺町門で、何か異変があったらしい。  出動準備の命令が出る。 「いくさが始まるのか」 「敵は会津」 「いや、薩摩もだ」  声高の会話を交わしながら走りまわる藩兵をかきわけるようにして、玄瑞は邸内の本館へ急いだ。周布政之助と桂小五郎が、沈鬱《ちんうつ》な表情で話している。まず小五郎の声で、 「発砲など致さぬよう、清末様や益田ご家老に申しあげて下さい」 「まあ、吉川様なら大丈夫であろう」 「どうしたのです」  玄瑞が近づくと、 「困ったことになった」  小五郎が眉《まゆ》をひそめていった。  その日早朝、いつものように長州藩兵が警固のため堺町門に行くと、すでに会津・薩摩の兵がかためていて、入門をさえぎった。砲口をむけ、無理にでも入るなら発砲も辞さずという構えであるという。  急を聞いて分家の清末藩主と家老益田親施が百人ばかりの藩兵と共に堺町門に駆けつけ、会・薩両藩の兵と睨《にら》みあっているのが目下の状態だ。 「昨夜のうちに、中川宮が主上に拝謁し、すべてをひっくり返したようだ」  小五郎は嘆息しながら力のない視線を玄瑞にやった。 「すべてとは……」 「どうやら親征の儀は、水泡に帰したとみるべきであろう」 「………」  中川宮といえば、玄瑞には思いあたるふしがある。面会を拒絶されたとき、何かあるなと薄々感じはしたのだが、反長州の陰謀が、この人物を中心にあのころからめぐらされていたとは、まったく気づかないことだった。まさに寝耳に水の変事である。 「九門はすべて、会薩の兵がおさえ、三条卿らの入門も許さないそうじゃ」  政之助が、痩せた頬を硬ばらせ、吐き捨てるようにいった。眠りをさまされたあの砲声は、会薩の武力による御所内掌握の態勢完了を告げる号砲だったのだろう。長州藩に対する威嚇《いかく》の砲声とも受け取れた。  馬蹄《ばてい》の音がして、東久世|通禧《みちとみ》が、姿をあらわした。攘夷親征を推進した国事掛公卿の一人である。入門をさえぎられ、異常事態を知って、長州藩邸に馬をとばしてきたのだった。  つづいて参朝を停められた錦小路・三条西・四条・壬生・沢の五卿もやってきた。三条実美は、議奏の職を罷免され、謹慎を命じられたという。 「とにかく、関白邸に行ってみようではありませんか」  玄瑞が提案し、そのことに決したので、即刻、六人の公卿を護衛した一団がものものしく藩邸を出発する。  鷹司邸でも、関白は何も知らず、参内もできないのだといらいらしていたが、しばらくして、御所から迎えの者がきた。鷹司関白が、慌しく出て行くのと入れ替りに、執事の鳥山三河介が屋敷にあらわれた。長州藩に対する朝廷の沙汰書を、かれは持っている。 「堺町警備の儀、思召しを以て、只今より免ぜられ候。尚、追って沙汰ありなされ候まで、屋敷へ引き退るべく勅諚候事」  沙汰書を読みあげると、三河介は追及を怖れるように早々と姿を消し、さらにまた入れ替るように柳原中納言が、勅使としてやってきた。 「大和行幸のことは、今はその時期ではないので、しばらくご延引になります。ついては多人数集合して粗暴の挙動なきように」 「何故のかかるご沙汰でござります」  玄瑞が進み出ていったが、中納言はジロリと一瞥《いちべつ》をくれただけで、そのまま立ち去った。  そこへ三条実美が、親兵をひきつれてあらわれた。謹慎を命じられているはずだが、いたたまれなくなり、駆けつけてきたらしい。実美の親兵を指揮しているのは、土方《ひじかた》久元という武士である。土佐藩士だが、藩命によって衛士となり、これ以後も終始実美の側近に侍した。 「久坂さん、これはどうしたことか」  土方は肩を怒らしている。 「会津と薩摩にやられた。主上を説きつけたのは中川宮だ」 「聖慮は、攘夷のはずだが、けしからん」 「うむ」  と、玄瑞は頷いたが、内心首をかしげている。今にして、ようやく気づいたといえるかもしれない。天皇は攘夷主義者にちがいないが、それは玄瑞が行動したような外国を撃つのでなく、単に異国嫌いというにとどまっている。  戦勝の報が届けられている間は、三条実美はじめ急進派公卿のいうままに、長州藩に対する褒勅なども発したが、一転して敗報がもたらされると、過激な掃攘行為が国を危くするのではないかという惧《おそ》れに傾いた。それに、天皇は必ずしも討幕論者ではないのだ。和宮が将軍家茂に嫁したというだけでなく、むしろもともと親幕的だったのも知らず、攘夷を尊王に、尊王を討幕に結びつける尊攘志士たちは、自分の過激な行動もそのままが「叡慮《えいりよ》に添うもの」と思いこんでいた。  玄瑞らの推進した攘夷親征が、討幕の目的を秘めた陰謀であることが、次第にわかってくると、会津藩がまず激しく阻止しようと動き、薩摩がそれに同調した。かれらは公武合体派の中川宮を押し上げて、政変を策したのだ。中川宮が天皇を説得するのは、それほど困難なことでもなかったのだろう。 「恐れながら、天朝も幕府、吾が藩もいらぬ」といった師松陰の言を、玄瑞はふとこのとき思いおこした。 (朝廷に、このまましがみつこうとしても無駄なことだ)  玄瑞は、鷹司邸に集まった公卿や長州藩の人々がいきまくことばを空しいものに聴きながら、すでに撤退を考えていた。  この鷹司邸に追々集結した長州藩兵や浪士は、およそ二千人に達している。御所内にたてこもっている会薩の藩兵らもそのくらいの人数であろう。ひといくさ出来ないこともないが、装備からいっても今は不利と思われる。 「勅使柳原中納言の要請をいれ、引き揚げるべきでしょう」  と、玄瑞は桂小五郎にいった。小五郎も同じことを考えていたにちがいない。すぐに頷いた。清末藩主毛利讃岐守、岩国侯吉川経幹をはじめほとんどの幹部も賛成しているところに、新しい勅使(上杉斉憲)があらわれて退去の命令を伝えた。強硬派の来島又兵衛や真木和泉らも、しぶしぶ腰を上げる。  ひとまず東山大和路東入ルの大仏方広寺へ移ることにした。御所を追われた公卿を護って、列を正した長州藩兵が先頭を行き、それに三条実美の親兵、十津川郷士や浪士らの一群がつづいた。整然と寺町を南下し、方広寺に着いたのは、すでに夕暮れ近いころである。  方広寺は、豊臣秀吉の発願で創建された寺だが、大仏殿はすでにない。「国家安康」の鐘銘が家康の名を割ったとして、大坂の陣の口実となったいわくつきの寺だ。  四日前の八月十四日、同じこの寺に、中山忠光を擁する吉村寅太郎ら激徒が集まり、ひそかに大和にむけ進発したことを、玄瑞はまだ知らなかった。  天誅組が大和に挙兵し、五条代官所を襲って、代官を血祭りにあげたのは、八月十七日だ。そして十八日の政変である。  玄瑞らが鷹司邸を退去して方広寺に移ったころ、天誅組はなお気勢をあげていただろうが、ようやく孤立に追いやられようとしていた。間もなくかれらは、攘夷親征・大和行幸の中止を知り、京都の形勢が逆転したという悲報に接するはずであった。尊攘派を中心に展開していた政情は、まったく見事ともいえる公武合体派の巻き返しによって様相を一変したのである。  公卿たちの宿舎は、近くの妙法院とし、藩兵の半数は警固のためそのほうに移動した。  幹部が集まって本堂での評議に入る。こうなっては早急に挽回《ばんかい》の見込みはないので、いったん長州へ引き揚げ、姉小路公知の例もあり暗殺の危険がないともいえないので、公卿は藩内で保護することにした。また親兵は諸藩の貢献した兵であるから、解散させようとしたが、土方久元らは随従するといってきかない。そうした強い希望者は、ほかにも何人かいた。とにかくその夜のうちにも京を発ち、長州へむかうことに一決する。  日が暮れてから、雨になった。  建物が狭いので、ほとんどの兵は、境内で濡れそぼちながら、出発のときを待たなければならなかった。大和行幸が実現すれば、それに供奉するはずだった藩兵や浪士たちは、思わぬ成り行きに、すっかり銷沈《しようちん》してしまっている。  霧のような秋雨のなかに立ちつくすかれらに家老の益田親施が、簡単に経緯を述べ、帰国の旨を伝えた。声をあげる者もいない。  玄瑞は、会議が終ると藩兵の列に入り、ふるえを帯びたその益田の声を聴きながら、詞《ことば》をまさぐりはじめた。やがて即興の今様が一つ出来あがる。  静寂を破って、玄瑞の美声が、境内にひびきわたった。     世は苅菰《かりごも》と乱れつつ、     茜《あかね》さす日もいと暗くせみの小川に霧立ちて、隔ての雲となりにけり。     あらいたましや玉きはる、大宮にあけくれ殿居せし、     実美|朝臣《あそん》、季知卿、壬生、沢、四条、東久世、その外錦小路殿、     今浮草の定めなく、旅にしあれば駒さへも、進みかねてはいばえつつ、     降りしく雨の絶間なく、涙に袖の濡れはてて、     是《これ》より海山あさぢ原、霧霜わきて芦《あし》の散る、     難波の浦にたく塩の、からき浮世は物かはと、     行かんとすれば東山、峰の秋風身にしみて、朝な夕なに聞きなれし、妙法院の鐘の音も、などて今宵はあはれなる。……  いぜんとして降りつづく雨のなかを、藩兵に護られた三条、東久世の二人は束帯姿、他の五人は烏帽子、狩衣で、その上に蓑笠《みのかさ》をつけ、竹田街道を伏見に向った。そこから大坂に出て、海路長州に入る。世にいう七卿落ちである。  兵庫で、玄瑞ら十数人は、大坂に引き返した。京都に潜入し、政変後の情勢をうかがうためである。  京都藩邸には、ふみとどまった桂小五郎らがいて、引き返した玄瑞たち一行を併せ二十七人が、籠城の気分で門をとざし、しばらくは一歩も外に出なかった。  玄瑞は文にあてて手紙を書いた。京の様子をかいつまんで述べたあと、久坂家の養子について指示したが、これは初めてのことである。 「さては、このうち小田村兄さま、かの二男の方を、養子にもらひをき候まま、みなさまへ、おんはかりなされて、おもらひなさるべく、頼み入りまゐらせ候」  玄瑞は、ここでようやく死を決意したのだ。遺言のつもりだった。   わかれ  七卿落ちの直後、玄瑞が京都に潜入したのは、八月二十一日である。翌九月十日ごろまでいた。  数日間は、藩邸内に閉じこもって外部の様子をうかがっていたが、付近をうろついていた密偵らしい者もいなくなったので外歩きをはじめた。しかしすでに学習院への出入りも差し止められているし、三条実美をはじめこれまで親しくしていた公卿たちはいない。鷹司関白も面会してくれないとなれば、朝廷に接近する手だてがないのである。  西木屋町で割木屋をいとなんでいる桝屋喜右衛門のところが、志士の集会所のようになっているのでそこへ行ってみた。喜右衛門は仮の名で、実は輪王寺宮家の家士古高俊太郎だ。やがて京に潜入した宮部鼎蔵がここに寝泊まりし、新撰組にかぎつけられて、俊太郎が捕えられ、これが池田屋の変に発展、さらに長州兵の武装上京の引鉄《ひきがね》になるという問題の場所である。 「堺町門の一件いらい、新撰組の市中取り締まりがいちだんと厳しくなりましてな、浪士たちも鳴りをひそめているのですよ。久坂さんも用心したほうがよい」  俊太郎は、玄瑞が尾行されなかったかをたしかめた上で、そんなことをいった。  藩邸に帰って小五郎らと愚痴を交わしながら、やはり気になるのは、長州の模様である。連合艦隊が下関を襲うのではないかという風説も早くから流れている。苦境に立たされた藩が、これからどのように出ようとするのかも知りたいと思っているうちに、玄瑞に対する帰国命令が届いた。  大急ぎで帰ってみると、藩では『奉勅始末書』なるものをつくり、重臣の井原|主計《かずえ》がそれを携えて上京する準備にとりかかっていた。長州の攘夷行動は勅命を奉じたのだとする釈明書であり、京都復帰を朝廷に嘆願しようというのだった。  ──政務役、京都駐在を命ずる。  玄瑞はあらためてその任務に就くことになった。政務役といえば、家老で構成する加判役の下にあって、藩政の実務をにぎる要職である。かつての行相府《こうしようふ》右筆にあたる権力の座である。  この当時は、「俗論党」と呼ばれる保守派は姿を消しており、政務役は玄瑞のほか高杉晋作・長嶺内蔵太・楢崎弥八郎といった急進的な武断派で占められた。なお幕府に対する高姿勢を保つことを示している。  慌しい日々が過ぎ、十一月になった。八日、玄瑞は『奉勅始末書』を持って上京する井原主計に従い山口を出発した。大坂を経て伏見に入り、嘆願のため入京の許可を申し入れたが、返事がないのでそのまま滞留した。  十一月二十四日夜、玄瑞は、人知れず三本木にむかった。井筒タツに会うためである。文久二年十月、この女の肌に触れていらいの再会だった。  京にいる間、無理をすれば会えなくもなかったが、敢えて遠ざかっていた。 「あの人は、どうしました」  と、寺島忠三郎が、笑いながら尋ねたこともある。そんなとき、自分でもわかるくらい顔が熱くなる。  タツのことを思いつづけているのが、後ろ暗くもあるのだ。それに、やはり松陰の妹を嫁にもらっている事実が、重荷に感じられることもあった。今は不思議に何も考えなかった。堰《せき》をきったように、ひたすらタツに会いたい。会わなければいけないのだと、自分に命じている声を聴く思いで、初夏の夕闇につつまれる三本木に急いだ。  辰路こと井筒タツは、座敷がかかって、そのほうに行っていたが、使いをやると、強引に抜け出すようにして帰ってきた。あでやかな衣装の裾《すそ》を引いて、駆けあがってくるなり、息をはずませながら、タツは、髷《まげ》を結った玄瑞の姿に目を瞠《みは》った。 「医者をやめて、藩士にしてもらいました。今は義助《よしすけ》と名乗っている」 「久坂義助様どすか」 「まだ玄瑞と呼ぶ者もいるが」  と、笑った。前年七月、かれはその改名届を藩に出している。(改名に従ってここでも義助と書くべきだが、死後も一般に親しまれている玄瑞の名を終りまで通すことにする) 「京で、こない立派なお武家はん、はじめて見ましたえ。いえ、ほんまのことどす。ちょっと立って見せとくれやす」  と、タツは陽気にいい、玄瑞を立たせて、うっとりと眺めるのである。逆らわずに、かれはしばらく女のいう通りにしていた。タツが最初で最後に見た、それが玄瑞の侍姿だ。  白の帷子《かたびら》に薄ネズミの袴《はかま》、黒い絽《ろ》の羽織を着た長身の玄瑞は、たしかに見事な押し出しである。その秀麗な面ざしが、かすかな憂いを帯びているのを、聡明なタツは、すぐに感じとっていた。  男と女のはかない別れの宴《うたげ》だった。燃えるような玄瑞のからだを、激しく受け入れながら、井筒タツは、間もなく未来を閉じようとする男の生命の種子を、この夜受胎したのである。  玄瑞は、それを知らずに、世を去るのだ。  翌文久四年(一八六四、二月元治と改元)、玄瑞は二十五歳である。これでもうかれの齢を数えることはない。一月十八日になって朝廷から入京を許さずという回答が出たので、『奉勅始末書』だけを提出して、いったん大坂の藩邸に退いた。その嘆願書もいずれ握りつぶされるに決まっている。  大坂にとどまっていた一月二十七日、玄瑞は京都での活躍を賞され石高四十石と加増された。政務役が二十五石ではおかしいということだったのだろう。もともと二十五石の大組士はあり得ないので、政務役就任が加増の機会となったのである。 「本来なら五十石で大組士のはずであるが、まあ少しの間待つがよい。そなたなら百石や二百石にはすぐ達するであろうよ」  井原主計が、なぐさめ顔でいう。玄瑞は、丁重に頭をさげたが、もう武士身分で死ねるだけで充分だった。兄玄機の志を、自分が果したという満足感もある。     取|佩《は》ける太刀の光はもののふの         常にみれどもいやめづらしき  玄機遺愛の刀を、ずっと手放さずにいる。医師でありながら「もののふ」を夢見た玄機の志が、重く伝わってくる業物である。  そのまま玄瑞が大坂藩邸にとどまっている二月二日のこと、ひょっこり高杉晋作がやってきた。 「京都の情勢はどうなっちょる」  玄瑞を見るなり、勢いこんで尋ねるのだが、何だか様子が変だ。問いただすと、無断で藩を飛び出してきたのだという。  来島又兵衛が、そのころ周防の宮市に一隊を集め、京都出撃をさかんにとなえているので、晋作は藩命により、それをなだめに行った。若い政務役があらわれたので、又兵衛は小馬鹿にして、勧告を受けようとしない。 「お前はこのたび新規百六十石をもろうたそうじゃが、その身分が惜しく臆病になったか」  豪傑然とした又兵衛にののしられ、晋作は復命もせず、大坂行きの船に乗った。かれらしい奔放な行動である。 「脱藩して士籍を削られようと気にしちょらん証拠を又兵衛に見せてやるつもりだが、ついでに京の情勢も知りたいと思うてな」 「来島さんのところには、だれがおりました」 「真木和泉だ。あの爺さんたちが、勇ましく進発論を怒鳴りたて、手に負えん」 「出撃して何をしようちゅうのですか」 「君側の奸《かん》すなわち会津と薩摩をやっつける肚《はら》らしい」 「ほう」  思わず玄瑞は苦笑したが、いきりたつ又兵衛らの気持がわからぬでもない。いずれにしても、このままなら長州は失脚した状態で何年かをすごすことになりそうだ。犠牲を払って積みあげてきた尊攘運動は、雲散霧消してしまうかもしれない。冒険も必要なときだと玄瑞は思うが、いきなり京に攻め込むというのは無謀に過ぎる。 「高杉さんは、早く帰国して、激徒を押えることに力を尽すべきですよ」 「うん、とにかく京に行ってくる」  と、晋作は、大坂を発った。かれは京都藩邸で桂小五郎に説得され帰藩するが、脱藩の罪で野山獄に入ったので、このときを最後に、玄瑞と会うことは二度となかった。  三月十一日、玄瑞は帰国命令を受ける。十九日、山口に着き藩主父子に京都の情勢を報告し、六日後にはまた上京の途に就いた。  来島又兵衛だけでなく、京都に兵を送りこんで強訴すべきだという過激論が、ようやく藩内に高まりつつあった。たびたび玄瑞を帰国させるのもそのためである。藩内が、苛立《いらだ》っている。 「まだ進発のときではありません」  そういい残し、玄瑞は騒然とした長州をあとにした。京都藩邸に入る。たまたま桂小五郎が、藩邸を出て大坂に行こうとするところだった。 「京都では顔を知られすぎて、身動きできぬ。このところ新撰組につけ狙われ、おちおち人にも会えない。しばらく大坂藩邸で諸藩との連絡をとるつもりです」 「僕はまだ桂さんほどではありませんので、少しばかり動いてみます」 「いやそうでもない、長州の久坂といえば、かなり知れ渡っておる。早い時期に京を出なさい」  小五郎は前年の政変直後にも、祭木町で新撰組に襲われている。うまく逃げたが、その後も絶えず危険を感じてきた。  新撰組の局長近藤勇は、大御番頭取に任じられていた。大御番とは江戸幕府の職名で、市中警備にあたり、頭取は旗本または大名の中から選ばれるほどの要職である。絶大な権力をにぎった新撰組の動きはいちだんと活発になり、取り締まりは厳重をきわめた。いわば斬り捨てご免のかたちで、多くの志士が斬殺されている。  四月十九日、玄瑞は「進発論」を藩政府に書き送った。自重を唱えていたかれが、めずらしく積極策を押し出したのも、長州藩の不利な情況が、日に日に深まっていくばかりに見えはじめたからである。  政変後、京に入ってきた松平春嶽、山内容堂ら公武合体派の諸侯につづいて、島津久光が一万五千という大軍をひきいて上洛した。  一月には将軍家茂が二条城に入る。京都はこれによって制圧されたかたちとなった。  公武合体派による京都再編は、進んでいるように見えるが、その実は困難な問題もかかえていたのである。  まず将軍後見役として入洛している一橋慶喜と幕閣との不調和がある。また天皇の意志としての攘夷をどうするか、長州藩の処罰についても、諸侯の間で意見がまとまらず、結局分裂して、島津久光、松平春嶽、伊達宗城といった諸侯は、またも京を引き揚げ、国許に帰ってしまった。四月のことである。  将軍はいぜんとして二条城にいるので、京都は幕府一色に塗りつぶされてしまった。薩摩の大軍がいなくなり、将軍だけが京都にとどまっているこのときを、玄瑞は好機としてとらえたのだ。  藩主でなく、世子の定広が京に乗りこみ、将軍に膝詰め談判して長州藩を一挙に回復させる、しかも威嚇のために相当な軍勢をつれて強訴するというのが、玄瑞の進発論であった。  これはやはり冒険的な計画である。玄瑞が京都でそんなことをいいはじめると、気をもんだ桂小五郎はしきりに大坂へ来るようにと使いをよこす。  独断をやめて話しあおうということらしい。慎重な小五郎としては、進発に反対なのだ。それを知っているから、玄瑞は動かない。このまま進発してくる世子を京都で待つつもりだった。強訴である。最悪の場合、戦闘が始まるかもしれない。そう思ったとき、玄瑞の胸を死の覚悟が走った。   燃え尽きるとき  いったん進発論を唱えた玄瑞がその前言を訂正する書簡を、大坂から山口の政事堂に送ったのは、五月四日だった。  将軍が江戸へ帰ると聞いたからである。玄瑞としては、あくまでも長州藩の武威を示した上で、将軍に強訴し、その同意を得て朝廷に復帰することを考えていた。事実上、朝廷を動かしているのが幕府であることを知っているからだ。  将軍がいない京都に、武力をかざして入って行ったところで反撥《はんぱつ》を買うばかりだから、進発はしばらく延期すべきだろうというのだった。将軍が五月七日に出京し、江戸へむかったのをたしかめて、玄瑞は帰国した。ところが、想像していた以上に、藩内はわきかえっているのである。  しかも前にかれが提案した進発論は採用されて、その準備さえおこなわれており、ほとんど爆発寸前の緊迫した空気が充満している。やはり来島又兵衛や真木和泉らが、進発の主唱者である。反対者もいる。周布政之助は、暴発をいましめ、あくまでも自重論をとなえつづけていた。  玄瑞は困惑した。進発論で、激派の火に油をそそいだのは、かれ自身なのだ。 「久坂、貴様もう臆したのか」  又兵衛が晋作にいったのと同じようなことばを玄瑞に投げつける。その晋作は脱藩の罪で野山獄に投じられている。  六月一日、周布政之助は、野山獄に晋作をたずねたが、乗馬のまま獄内におどりこむという奇矯なふるまいを演じた。それで逼塞《ひつそく》を命じられてしまう。 (周布は逃げたな)  と玄瑞は思った。反対しても時の勢いに抗しきれないとみた政之助は、みずから事件をおこし、うまく身を退いたつもりかもしれない。  高杉晋作は獄中の人だ。桂小五郎は、京都で気をもんでいるだけである。藩内には、猪武者の来島又兵衛と真木和泉が、狂ったように進発を叫びつづけ、それに呼応する武装兵たちの声もいちだんと高まっている。殺気をはらんだ荒々しい力が、出口を求めて激しく渦巻くさまを、ひとり凝視している玄瑞にむかって又兵衛がいう。 「国是の建議一切を幕府に委任するという勅許を得て将軍は江戸へ帰ったちゅうではないか。長州征討のことも幕府は考えておるらしい。もはや何をかいわんやだ。なりふり構うちょるときか」 「………」  ようやく玄瑞は、顔を起こした。  朝廷からも幕府からも突き放された長州藩の立場とは、いったい何であろう。武力をもって京都を回復することに、どのような意味があるのかはもはや問うまい。  黙って又兵衛の前を去ると、玄瑞はその足で政事堂にいる藩主に面会を求めた。 「進発を覚悟すべきときが参りました」 「猶予せよというたばかりではないか。いずれが本当なのだ」  困りきったという表情の藩主敬親を諭《さと》すように、玄瑞は落ち着いた声でいった。 「藩内の情勢からしても、やはりこのままではおさまりませぬ。たしかに京における会薩の跋扈《ばつこ》、幕府の暴威を傍観しておるときではなくなりました」 「考えおく」  藩主父子は、それだけを答えた。桂小五郎からは慎重を説く手紙がしきりに藩主の手許に寄せられているようだった。  決定的な何かがない限り、進発の号令は出ないとみるべきだろう。ギリギリのところで爆発が押えられている情況が、十日ばかりつづく。そしてついに、その決定的な何かをうながす報告が、慌しく京都からもたらされるのである。  ──池田屋の変。  六月五日夜、祇園宵山ににぎわう三条河原町の旅宿池田屋で会合していた三十人ばかりの志士が、新撰組に襲われた。会津・桑名・彦根各藩の兵も出動して、池田屋を包囲した上での凶行である。  七人が斬られ、残りの者も傷つき捕えられた。長州の吉田稔麿、杉山松助が闘死している。二人とも松下村塾党だった。肥後の宮部鼎蔵も討死した。  桂小五郎は、かろうじて難を避けたが、藩に届いた第一報では「打ち殺され候」となっている。  進発論は、一気に怒号と化した。  藩主が益田親施ら三人の家老に兵をひきい上京せよという軍令書を授けたのは、六月十四日だった。池田屋の変報が届いた直後である。  待機していた来島又兵衛は、その翌日、遊撃隊三百名を指揮して先発した。  十六日には家老福原越後が、藩兵五百名を随《したが》えて出発し、同じ日玄瑞は寺島忠三郎、入江九一らと共に諸隊三百名をひきつれて発った。いずれも三田尻からの海路である。  玄瑞に従ったこの諸隊は、七卿が宿舎にした三田尻の招賢閣に集まって結成されていた忠勇隊や八幡隊などで編成されている。この八幡隊は、進発が決まると同時に、玄瑞が山口の今八幡宮に本営を設けて有志の者を募集した草奔隊である。  立ちはだかるすべてのものを破壊し去ろうとする闘いの意志だけが、玄瑞の胸中に猛々しくあふれた。もはや玄瑞が過去をふりかえることはない。また遠い前途に築くべき「新しい国」を構想することも、すでにかれの役割ではなかった。未来への突破口となるべきひとつの穴をうがつ使命、玄瑞が生きた四半世紀の生涯は、結局その一点に収斂《しゆうれん》したのだ。     梓弓はるは来にけり武士《もののふ》の         引かへさじと出づるたびかな  真夏の瀬戸内海をのぼる船のなかで、玄瑞は自作の歌をくちずさみながら、濃い緑につつまれた周防の山に熱い視線をむけた。もう故国の土を踏むことはないであろう。あの山のつづくむこうに、なつかしい萩がある。(とうとう文に別れを告げることができなかった)  山口で多忙な日々をすごしながら、そのうちに、そのうちにと思いながら、進発のときを迎えたのである。心から詫《わ》びる気持で、文に手紙を書いた。 「あつさのせつに相成候へ共、まづまづおんかはりなく、くらされ候よし、いかにも安心いたし候。……此度は何分ちょとなりとも、かへり度く候へ共、用事しげく、こまりをりまゐらせ候。……留守へ。よしすけ」  例によって弁明を並べるばかりだが、この切迫したときにも、平常な筆づかいのできる相手は、妻のほかにないことを、玄瑞はしみじみと悟るのである。これが、最後の手紙となった。  玄瑞らの乗った船は、二十一日大坂に着いた。二十三日、福原越後、来島又兵衛のひきいる一隊は、陸路をたどり伏見にむかう。玄瑞と寺島忠三郎、真木和泉らに従う一隊は、淀川をさかのぼって山崎に着き、天王山とその山麓《さんろく》にある宝寺に陣を張った。  伏見に入った福原越後は、藩の京都留守居役乃美織江を通じて、所司代へ上京を届け出た。同時に朝廷に対しては、藩主父子と三条実美ら公卿への「勅勘」を許されるようにと述べた嘆願書を出した。  玄瑞らも在京の諸藩にあてて回状を送り、入京の許可と嘆願書上達の斡旋を依頼した。  その間、京都に潜伏していた志士たちは、長州軍来ると知って嵯峨の天竜寺に百名ばかりが集まり呼応する態勢を整えはじめた。それを聞いて、来島又兵衛の一隊が、天竜寺に走る。  不穏な動きを察知した京都守護職松平容保は急遽《きゆうきよ》参内し、御所の九門を閉ざして警備をかためた。御所内では、長州藩の嘆願書をどう取り扱うかの協議が始まる。嘆願を聞いてやれという意見もあったが、このころ禁裏守衛総督をつとめていた一橋慶喜は、強硬に長州藩の撤兵を主張してゆずらなかった。  朝議は撤兵に決定し、ただちにその命令を、長州藩留守居役乃美織江に伝えた。乃美は、伏見へ行き福原越後にそれを伝える。越後は、さらに入京の勅許を求めて動かない。七月に入った。後続の国司信濃・益田親施両家老がひきいる長州兵も到着して、天竜寺や山崎に陣営をしいた。これで総勢二千を越える武装兵が、京の町をうかがうことになった。  七月十六日の夜、玄瑞は、天王山の陣営に燃えさかる大|篝火《かがりび》をみつめている。夜空を焦がすその炎のむこうに、京の町がひろがっていた。  四日前には、薩摩の西郷吉之助が数百の兵をつれて入京した。土佐、久留米藩と連合して討長を建議し、長州への同情を示す者を威嚇しながら、薩摩一藩の力でも撃退してみせるといきまくのである。これに勢いを得たように、諸藩は増援の兵を京都へ送りこんできた。その数二万とも三万ともいわれる。もっとも京都側にも、長州藩の世子が一万の大軍をひきいて上京の途に就いたという風評が流れていた。  幕兵の配置も終り、一触即発の情況におかれた京都には、無気味な沈黙がただよい、町の灯も消えてしまっている。この大都会は、過去いくたび兵火にさらされたことだろう。過熱する権力争奪の接点たる王城の地の宿命であった。  玄瑞は、町の炎上を見ずに逝くのだが、長州兵が乱入して始まるこの蛤《はまぐり》門の変のために、京都は二万数千軒の家屋を焼亡し、下京の大半が瓦礫《がれき》となるのである。  玄瑞はしかし、凶暴な闘志をかきたてて、ここまで来ながら、なお一点の醒《さ》めた部分を、心のどこかに残していた。聡明なゆえの迷いというものであったかもしれないが、来島又兵衛ら主戦派のいいぶんもまた無謀というほかはなかった。  撤兵しなければ追討せよとの命を受け、待機している幕軍に、長州側から先制攻撃をかけようというのである。武装も充分でない二千の兵で、その十倍にもあたる幕軍とまともに戦うことの不利はだれの目にも明らかだろう。今は、世子定広がひきいてくる何千かの本隊が到着するのを待ち、その下知によって臨戦態勢を整え行動すべきではないかと玄瑞は考えている。  十七日午後、男山八幡の陣営で最後の大会議がひらかれた。三人の家老も出席して、世子到着に先だち進撃するかどうかを論じようというのだった。  案の定、玄瑞と来島又兵衛が激しく対立した。真木和泉も又兵衛の側に立って、すぐに戦うべきだと主張する。  又兵衛がいう。 「世子君の来着を待って進むか止むかを決めるのは臣子の義として忍ぶべからざることだ。世子君にその責めを負わすべきではなく、来着以前に進撃すべし」 「みすみす不利を承知で猪突することが、来着早々の世子君を困惑におとしいれる結果とはなりませんか」  玄瑞もまた持前の大声で弁じたてた。 「よろしい。久坂の意見に賛成の者は、そのままとどまっちょれ。天竜寺駐屯のわれわれだけで、まず戦おう。よく聴け、不利は承知なのだ。長州兵撤退せざれば討てという勅命も承知の上だ。勅命で討たれて見せるのも、今はわが志である」  又兵衛は、いい終ると、席を蹴って真木和泉と共に帰って行く。独断でかれらが戦闘を開始すれば、しょせん全域での戦いは避けられないだろう。来島・真木の気勢に引きずられるように、会議の結論は、進撃やむなしとなった。  両人の激論を押えきれなかった三人の家老も覚悟を決めたらしい。福原越後は伏見へ、国司信濃は先鋒ともなるべき天竜寺の隊へ、益田親施は玄瑞らのいる山崎の陣営にそれぞれ散って行った。 「押しまくられたな。爺さんたちに」  と玄瑞は、並んで歩いている寺島忠三郎と入江九一を見て笑った。奇妙にふっきれた感じである。 「これも騎虎の勢いというやつだ、まあやれるだけやろう」  九一がいう。以前、杉蔵といっていたかれは、玄瑞と共に松下村塾の四天王と呼ばれた一人である。 「どだいはじめから、成否は問題じゃなかったのかもしれん」  やはり松門の忠三郎はそんなことをいう。玄瑞も九一も、それに頷いた。 「勅命で討たれて見せるのも志だとは、来島さんも、なかなかええことをいう」  二人に話しかけるでもなく、そういって玄瑞は、空を仰いだ。この日も、焼けつくような炎天である。  十九日辰の上刻(午前七時)までに、堺町門から蛤門にかけて出撃するという打ち合せだった。  玄瑞は忠三郎や九一と共に、八百名の兵を指揮して、十八日の初更(午後八時)、山崎を出発した。家老の益田は、この戦闘部隊に加わらず、天王山の本陣に残った。  粟生光明寺の前を通り、樫原村を経て桂川に達するおよそ三里の間がひどい悪路である。大小五門の砲車を運ぶのに、ずいぶん手間どり、夜が明けたので河原で兵糧をつかっていると、御所の方角から砲声がきこえてきた。又兵衛がひきいる天竜寺の隊は早暁出発して約束の時間に攻撃を開始したらしい。  急げと、玄瑞の号令で七条にむかい、辰の中刻(八時)ごろ、堺町通りを北上した。堺町門は、越前兵が護っている。まずこれを撃退した。ところが蛤門のほうから、傷ついた長州兵が、敗走してくる。それを追って薩摩兵があらわれ、しきりに大砲を撃ちかけてきた。蛤門での戦いは、すでに終っていたのである。馬上で采配を振っていた来島又兵衛は、小銃で狙撃された。即死だった。力士隊の者が、その死骸をかついで逃げてくる。  来島の指揮する遊撃隊、力士隊はいったん門内にまで斬り入り、会津兵を倒してなお進もうとした。すると乾《いぬい》門にいた薩摩兵が応援に駆けつけて砲撃を浴びせかけ、大将来島又兵衛を射殺したので、長州軍総崩れとなったのだった。  堺町門から乱入しようとしていた玄瑞らの山崎隊は、勢いを盛り返した越前兵や薩摩兵の猛攻を避けて、右へ折れ、柳の馬場から鷹司邸の裏門に至り、屋敷内になだれこんだ。  政変直後から関白の職を離れていた鷹司輔煕は、突然の招きで参内しようとするところだった。嘆願の儀あり、参内の供をと口々に懇願したが、叶えられることでもなかった。  すでに敵が迫っている。鷹司邸の塀から、銃をのぞけて堺町門周辺に集結している越前・薩摩・彦根・桑名など諸藩兵の群れに弾を浴びせかけた。幕兵も応戦し、やがて邸内に砲弾を撃ちこんできた。長州側から砲を撃てば、堺町門やその背後の御所を狙うことになる。幕軍もそれを楯《たて》にしているのである。砲手は、ためらって、「いかがしますか」とたずねた。 「撃て」  即座に、玄瑞は命令した。轟然《ごうぜん》御所にむかって長州の砲が火を噴く。しばらくは激しい砲撃戦が交わされた。  鷹司邸の塀の一角が破られ、彦根兵が躍り込んでくる。白兵戦になった。玄瑞は、敵味方入り乱れて斬りあっているその方向に、大刀をかざして突進しようとしたとたん、地上に激しく転がった。左膝を撃ち抜かれている。寺島忠三郎が走り寄って助け起こし「座敷に上がりましょう」という。ふりかえると、彦根兵はどうやら撃退したようだった。  幕兵は、建物にむけて砲を撃ちはじめた。焼くつもりらしい。すでに煙を噴き出したところもある。  玄瑞は、全員に退却を命じた。まず真木和泉の一団が、敵のいない反対側の塀を崩して脱出した。天王山で陣を立てなおすつもりらしいが、結局かれもその陣地で自刃するのである。  傷を負っていない者は、次々にそのあとを追う。玄瑞は奥の間に入り、麻の陣羽織や小具足を外して、膝の激痛に耐えながら、端然と坐っていた。  入江九一がやってくる。ここで一緒に自刃させてほしいという。 「おぬしは五体満足ではないか。この場は逃げてくれ。後事を託したいのだ」  懇願するような玄瑞の目を見て九一は頷いた。もはや別れのことばはない。 「久坂さん、髪が乱れておる」  そういって九一は、微笑しながら胴着の間から櫛《くし》を取り出し、玄瑞のふさふさと艶を帯びて垂れた髪を、すくいあげるように整えてやると、ゆっくりした足どりで出て行った。  長州藩が退却して、応戦する気配がないので、幕兵も攻撃をやめ鷹司邸の焼け落ちるのを見守っているふうであった。  嘘のように鎮まった空気を徐々にふるわせながら、建具の燃え弾ける音が、拡がっていく。それらを下に抱きこんだ公家屋敷の屋根が、午下がりの真夏の陽光を浴びて、傲然《ごうぜん》と反りかえっている。長い廊下を、薄く煙が這《は》いはじめる。その煙を踏み散らすようにして、寺島忠三郎が、玄瑞のいる部屋に入ってきた。 「逃げなかったのか」  と、玄瑞は、おだやかに詰《なじ》った。 「だめですよ、入江さんも、屋敷を出た矢先に会津兵の槍で目を刺され、その場で討死です。もう逃げられん。一緒に死なせてもらいますよ」  忠三郎は、どうやら初めから玄瑞と死ぬつもりだったのだ。  そのとき鷹司家の家僕で柴田弥一という者がもう一人をつれて、姿をあらわした。 「かく多人数で、ご邸内をお騒がせして申訳ない。これは些少《さしよう》ですが、お受け取りを。幕兵もあなた方には危害を加えますまい。早くお立ち退き下さい」  いいながら、玄瑞は胴巻をはずしてまだズシリとした重みを残している軍資金の余りを渡した。  玄瑞と弥一がやりとりしている間、忠三郎は二階を歩きまわり、 「ほう、この絵が焼けるのか、惜しい」  などといっている声が伝わってきたりした。家僕が立ち去りかけたころ、忠三郎が階段を静かに降りてきた。 「久坂さん、もうやろうか」 「よかろう」  玄瑞は、笑いながら、弥一たちに早く行くように手真似でうながした。弥一が去るふりをして物陰に隠れ、その最期を見届けようとしているのを、二人は気づかなかった。 「寺島、このように足をやられておるが何とかなるじゃろう。介錯してあげよう」 「それは悪い、刺し違えましょう」 「いや、僕は自分で始末したいのだ」  煙が次第にひどくなってくる。話しあっている暇はなかった。 「久坂さんに介錯してもらえるとはありがたい」  いうなり忠三郎は、坐って腹をくつろげた。玄瑞は、立ち上がって刀を抜く。型通り忠三郎が腹を裂いたところで、振りおろした。力が余って畳を斬りつけるほどだが、うまく刎《は》ねることができた。胴を離れた忠三郎の首は、畳の上を這い寄ってくる白煙の中に、勢いよく転がって行った。  忠三郎の遺体のそばに腰をおろし、玄瑞は(お前も見事に死ね)という兄玄機の声を聴く思いで、刀を逆手に持ちかえた。玄機がいつも差し歩き、時に僧月性が抜き放って乱舞したこともある相伝の刀である。その物打ちのあたりに左手を添えて、刃を内側に向け、首の後ろに構えた。わが手で、自分の首を刎ねるつもりである。  大きく息をつめ、いきどおろしくも、またかなしく、激しく、さらに激しく渾身の力をふるって、玄瑞は、愛刀の刃を、おのれの首筋にむけて掻《か》きおろした。  元治元年七月十九日、久坂玄瑞の多感な生涯は、燃え尽きた。   拾遺  玄瑞が討死して二カ月足らずの元治元年(一八六四)九月九日、井筒タツは、男の子を生んだ。玄瑞の幼名にちなんで、秀次郎と名付ける。  その年、妻の文は二十二歳であった。明治十四年、楫取素彦(小田村伊之助)のもとに嫁していた姉の寿子が病死したので、その後添えになるように奨めたのは、松陰の母滝子である。  かつて玄瑞が、小田村の二男を養子にと乞うたこともあるのでこの話となったのだが、文は、二年ののちにやっと決心して、素彦と再婚した。旅先から玄瑞が寄せた二十通の手紙を抱いて。しかし、このとき美和子と改名したのは、玄瑞の妻であることへの訣別であったのかもしれない。  素彦は、美和子のために、玄瑞の書簡を整理し、発信年月、居所などを推定、さらに装幀を施し、「涙袖帖」と箱書きしてやっている。  楫取男爵夫人として安心の余生を送った美和子は、大正十年、七十九歳で逝った。  秀次郎が、玄瑞の忘れ形見であるとの認知願をタツが萩藩に提出したのは、明治二年十月である。証明するものはなかったが、秀次郎の相貌が、玄瑞とそっくりであると、野村靖(和作)、品川弥二郎が認めたことなどで充分だった。同年十一月十七日付けで、藩は秀次郎が玄瑞の遺児であることを認知した。  秀次郎の孫・久坂恵一氏(奈良市在住)のご教示によると、タツは秀次郎の認知を確認したあとの明治三年四月、京都島原の角屋十代中川徳右衛門と桔梗屋の女将の世話で京都下京の豪農竹岡甚之助に嫁している。秀次郎を玄瑞の実子として世に出すために、身を退いたともいえる。秀次郎は周防国(山口県)阿武郡徳佐村の椿僊介《つばきせんすけ》に引き取られて養育された。久坂家の戸籍には、再婚前の文(美和子)が「みわ」とあり、同じ戸籍の中に秀次郎が記載されている。  タツは、明治四十三年に他界、六十五歳だった。墓は京都市西七条の安阿弥寺にある。  玄瑞の遺体は、寺島忠三郎と共に京都一乗寺(現詩仙堂)に葬られたが、のち太政官布告により東山の霊山墓地に改葬された。  久坂秀次郎は、昭和七年、六十八歳で世を去った。 『日本百傑伝』に収録された鉢巻姿の志士久坂玄瑞の肖像画は、秀次郎をモデルにして描かれたもので、玄瑞がこの世に遺した唯一の面影である。  鉢巻をしているところが、いかにも激徒らしく玄瑞を表現している。しかし、これはこの「もののふ」に与えられた冠《かんむり》のようにも見える。玄瑞がこよなく愛し、歌にもよく詠んだ花は、桜であった。そして、華やかに、うるわしく、いさぎよいかれの青春にちなんでいうなら、その頭上に戴く武弁は、やはり若桜の花冠《かかん》でなければならない。 【参考書】福本義亮編「久坂玄瑞遺稿」、武田勘治著「久坂玄瑞」、和田健爾著「久坂玄瑞の精神」、京都市編「京都の歴史」ほか。 〈底 本〉文春文庫 平成三年十二月十日刊 単行本  昭和五十四年七月文藝春秋刊